本の窓 17



++  本  17 ++

120. 『流れとよどみ ー哲学断章ー』   大森荘蔵

    本を持っていたものの初めて読んだ哲学者。心身問題や意識、脳と感覚などについて書かれていて、エッセイのようであり、短い哲学論のようでもあり。難しかったので理解できたのは半分くらいだったけれど、哲学している感が強く感じられる本だった。

* * *

 面白かったのは声振りについて書かれた「身振り 声振り」の章。なにげなく聞いている他人の声は、わたしたちが思っている以上に肉体的触れ合いであるという。 人が生まれて初めて耳にするのは、母親や家族たちからの祝福の込められたあやし声、呼びかけだろう。赤ちゃんがなにも言わず、聞こえているのかわからなくても、数ヶ月から二年近くまで、一生懸命呼びかけずにはいられない。数週間もすると赤ちゃんはじっと耳をすますようになり、声をかけられているのがわかってくる。

お経や祈りというのも、亡くなった人や神さまや、自分ではどうすることもできない何かへの声かけ、呼びかけだ。力のない自分を慎みて、なにものかに触れたいという。
人は、生と死を他者からの声によって迎え、送られるのだなぁ、、、自分では聞こえぬままに。とお彼岸の今日ちょっと思った。

  <ある人の声を聞くとは、その人に触れられることなのである。互いに声をかわすとは触れ合うことである。
声の絡み合いによって人は人とつながれる。声は人の体の一部、身のうちなのである。
五体を動かすと同様、声を動かすのである。
その動きの紋様が「言葉」である。
文字は身動きできないが、身動きを暗示してその暗示された声振りで読者に仮想的に触れるのである。>
 

 ネット上にあふれる文字群を、意味はいちおう頭に入るんだけれども記号のように読み流してしまう時もあれば、文字が笑っているように感じたり、棘のようにちくちく感じるときもある。文字なのにパソコン画面の前で話されているように思えたりする。言葉の意味に、自分だけが反応できるなにかを敏感に感じとって、わたしの中で勝手に喜怒哀楽が生じるみたいだ。

あと誰かに向けて書かれているのだろうと思える文と、ひとりごとのようなつぶやき文とでも、伝わってくる意味や感じは同じだったりする。 文や言葉は、書かれて放たれた瞬間から書いた人のものではなくなる気がする。
著者は「声や言葉は時と所を問わず、相手に思いのままのものを立ち現すことができる」というけれど、もっと多くのものも立ち現れてしまうのではないだろうか。私がこの本を読んで取りとめないことを考えるのも、著者はある程度予想できてもすべて正確には想像できなかっただろう。一つの言葉が受け取る人によって無限に広がり、進化(深化・新化・芯化…)していくイメージだ。

記号でありただの文字の列なのに、文章というものは温度や湿めり気、硬さ、やわらかさのようなものまでが伝わってくるのはほんとうに不思議だ。生きものとして私へ届いてくるような。
(というか、字がそこにあれば薬の効能書きであれとりあえず読んでしまうというわたしの趣味もあるし。)

著者のいうように、書き手の「身の中の動き」が伝わってきて、まさに私に触れるのだろうか。「他者への触れかた」という声や言葉の性質について、考えることが多かった。ピカートのいう「沈黙」と「言葉」の、それぞれの持つ力の大きさについても思う。

* * *

それから「ロボットの申し分」も面白かった。<あなたが想像しているのは、他人に心があると信じて、他人を「自分ようのもの」として見るという態度を取っているのだということ。誰でも人間である限り、他人に心を吹き込むことをやめない。>

* * *

また、 <一大決心をするとか決断に悩むとかと同様に、本をよみふけるとか疲れて歩くのも嫌だなど、何気なくしている動作も、静かで目立たない意思的行動である。意志と呼ばれているものの本性は、むしろこのような人目をひかない行為の中でかえって明瞭に見てとれるように思われる>  とあったのはなるほどと思った。






119.『レオナルド・ダ・ヴィンチ』  フランク・ツォルナー/2000/TASCHEN

画集で有名なタッシェン社の「ニューベーシックアートシリーズ」。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の詳しい生涯を前から知りたいと思っていました。でもモナリザなんて有名過ぎて、どこがいいのかよくわからないのも正直なところ。「聖母子像」も、いつのまにかラファエロの似たような絵と混同してたりして。(←絵が好きなわりに基礎知識が…。)

ダ・ヴィンチで一番先に思い浮かぶのは、少し斜めにうつむいて、柔らかに微笑む聖母の絵です。私自身も人と会う時、どちらかというと相手の横顔や視線を落とした表情を見るのが好きだからかもしれません。
画集はページの半分ずつに絵と説明&伝記が載っていて、字はかなり小さいものの面白く読めます。モナリザや他の絵もどこが素晴らしいのか、見るポイントは何かといったことが詳しく書いてありました。ということで新しくわかったことや考えたことをメモしてみます。

  * * *

・多大な才能+余りに多様な興味から、やりかけては放りっぱなしの仕事が山ほどあった。当時の評論家や周囲の誰もが、彼のこの困った癖を真剣に嫌だと思っていたそうな。(前借り金を踏み倒したり。) なので完成作品よりも、その前の習作やデッサンを多数残している。
別の本の解説者は未完成作品について【不満で放棄したのではなく、ある精神の緊張状態が未完の過程においてこそ直截に露出することを知っていたからでは】と書いていて、すこし納得できました。

・父親が息子の才能を見抜き、才能を活かすためいろいろ奮闘したおかげで、開花して活躍できた面もあった。

・天賦の才能に加えて、ヴェロッキオの元に弟子入りしてみっちり修行した。飽くなき好奇心+綿密な観察眼が彼の持ち味。



・女性より男子のほうがお好きだったらしい。にしても彼の描く女性は、とても明瞭に女性の美を表現していると思う。「白貂を抱く婦人像」など惚れぼれするほど美しい。(本の表紙に使われていて、モナリザでないのがいい。)女性を嫌っていたという説もあるらしいけれど、私はそうかなと思う。

・婦人の肖像画に描かれている植物は、その人の徳を表すものであった。例えば松が誠実、貞節など。当時は<(外面の)美は(内面の)徳を飾る>という考えがあった。

・未完成のデッサンの中には、非常に生き生きした動物の絵や、躍動感のある戦闘図などがたくさんあって、静かな肖像画や聖母子像との対比に驚く。騎馬像も注文されて作ろうとしたらしい。戦車や都市の鳥瞰図、解剖図など科学者としての関心や才能を表す絵が多い。

  ・独立独歩でやっていた人かと思ってたら、ミラノの宮廷画家だった。好きなものを書いていたのではなく、作品自体は王侯貴族や教会などから注文を受けたものだった。注文主から与えられたテーマや意向を入れながら、いかにして自分の描きたいものを表現するか描き出していくか、かなり苦心してたんじゃないかと想像した。あと観察眼が冷徹でありながらも、絵やデッサンには、対象物の生命力を讃えるようなポジティブな心向きを感じた。(ポジティブというのはただ楽観的というのではなく、例えば人間の醜さ・悪の面も理解した上で、なお肯定しよう、せずにはいられないという志向性のようなものではと思います。)

・年下のミケランジェロと同じ時代に生きたこと。実際に競作し、表現法、画法などでもかなり影響を受けた。

・「最後の晩餐」は、キリストを取り巻く12人の弟子が、3人ずつのグループで描かれている。

・絵をよく見ると、服のひだ、髪の毛などが非常にリアルである。遠近法を駆使して、背景の山や岩といった自然もとても大切に扱っている。
前景と後景の巧みな対照を考えているらしい。人物の構図はもちろん、表情や手の向きなど謎を含む曖昧な表現も多い。だから後世において様々な解釈や受け取り方をされている。

スフマートというぼかしの油彩技法をうまく使っていた。

ダ・ヴィンチ作と言われている絵でも、正確には判定できないものが多い。後世に加筆されたり師匠や弟子と合作しているので、どの部分が彼の筆だと断定しにくいのもあるそうな。

・唯一の自画像とされている有名なオレンジ色のデッサンも、この本では作者不詳で本人以外が描いたものとされている。

・「聖ヒエロニムス」という未完の地味な絵があるのを知り、いいなぁと思いました。



   * * * 

ダヴィンチの絵の素晴らしさというものが、いまだ私はよくわからないのですが、人体や動物の流れるような線にしても、実際のラインよりさらに波打って息づいているような、不思議な感覚を覚えるのですね。
一枚の絵という限定された空間の中に、はてしない空間が広がり、奥ゆきを感じさせてくれると言えばいいのかな?
 精確に描かれた人物や物の中にある見えない何かを、浮かび上がらせる力があるのだと思います。

(追記) 新潮社の美術文庫も持っていて、比べながら読んでいたら、解説する人によって絵の印象がかなり違ってくるんだなと思った。あと色調も全然違っていたりします。




118.『 必読書150 』 2002 太田出版/ 柄谷 行人, 岡崎 乾二郎, 島田 雅彦, 渡部 直己, 浅田 彰, 奥泉 光, スガ 秀実

150冊のうち、題名は知っているけれど未読の本がほとんどでした。(苦笑) 人文社会科学系の一冊目に『饗宴』が出てきて、これ読んだもん! …で残り40数冊をどうしますか?というツッコミが。まぁ外国・日本文学の必読書50ずつでは、もう少したくさん読んでます。(声小さくなる)

どの本も数行だけの簡潔な紹介なのに、面白そう…と思える内容でした。でもこれに触発されていざ本を買ったものの、数ページで挫折しやしないかと思われる難しい本もあり、、、。あ、必読書を「持っている」だけでも一生ものかもしれないです。

古典と言われる作品や、岩波書店発行のものが多いみたいです。
後世に与えた影響とか、どの思想の系譜に連なるものかが書いてあるのもためになります。といっても他の本と作家思想家をある程度知らないと、???と何を言ってるのかわからない言葉も多いのでは。(私がそうです。)

文学より、人文社会科学系の方に読みたい本が多かったです。アリストテレス詩学」「レオナルドダヴィンチの手記」、ニーチェ道徳の系譜」、「ガンジー自伝」、「全体主義の起源」、「グーテンベルグの銀河系」、フーコーデリダドゥルーズガタリ・・・など。 日々あまた出版される本を見てはめまいがするので、こうした骨太な本だけでも読んでおけば、知識だけでなく思考力がつくかもしれません。

退屈そうで難しく思える本でも、紹介の仕方によってとても面白い本に見えるのですね。 解説文よりすこし引用ー。

* おのが本能に忠実であろうとする者は、その本能よりも速く走ろうとする。(―島田雅彦ニーチェ道徳の系譜』)

* モンテーニュ「エセー」がいわば信仰の桎梏から解き放たれた人間の、その多様で豊穣な可能性をめぐる闊達な随想集であるとすれば、本書は偉大な先達に劣らぬ洞察力を逆に「神なき人間の悲惨」へと収斂させた。(渡部直己パスカル『パンセ』)

* この世にはたぶん二種類の書物がある。読む前の自分を心地よく追認してくれる書物と、それを読み終えた後一、二ヶ月は人心地がせず、気づいてみると生活の傾向やあたりの風物、果ては物の味まで一変してしまう書物。 (渡部直己フーコー『言葉と物』)

冒頭の対談「反時代的『教養』宣言」も面白かったです。
西洋思想中心なので、その他の地域や、自然科学の必読書が入っていたらもっとよかったと思いました。




*読み途中&予定本 
  ・『太陽の都』 ・『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』 ・『時間と自由』 ・『寺山修司歌集』




117. 『虚空遍歴』 山本周五郎  新潮文庫

江戸時代の流行り歌である端唄(はうた)の作者であった中藤冲也が、より本格的な自分だけの浄瑠璃を創ろうと苦心する。修行も兼ねて江戸から上方、金沢へと遍歴を重ねながら多くの人々と出逢う。市井に生きる彼らの生きようを知り曲作りしながら、その内面が綴られ、彼に寄り添い世話をする おけいの独白が時どきはさまれる。たくさんの人が出てきて小さな逸話はあるものの、あまり印象に残らない。冲也はどこへ行こうと唄作りに苦悩し、お酒を飲み、おけいが見守る姿だけがわたしの中でずっと残っている。

物語の重心は冲也の唄作りにもある。フォスターをモデルにした話らしいが、全体から受ける印象は湿り気が感じられ、人情話や浪速節のようでもあり、暗く地味な進み具合だ。

冲也の仕事への打ち込みよう、情熱、新しい浄瑠璃ができるまで死ねないとの思い、芸に生きるとは何か。
世間で生きる人たちを見ることと、芸。満ち足りた生活から抜け出る意味。 彼の道は遥かに遠いことを感じさせられるし、もう少しで冲也の唄が日の目を見るのかという場面でも、なかなかそうはいかない。それでもおけいが冲也の中に、どこか遠くにある貴いものを見続けていたんだなと感じる。芸が命がけであるなら、その精進を見守るのも命がけということだろうか。
俗な話を描きつつ聖なるものに近づいていたり、仏教観に近いものがあった。

<人間が一つの仕事に打ち込み、そのために生涯を燃焼しつくす姿ーー私はそれを書きたかった。人間の一生というものは、脇から見ると平板で徒労の積み重ねのように見えるが、内部をつぶさに探ると、それぞれがみな、身も心もすり減らすようなおもいで自分とたたかい世間とたたかっているのである。しかし大切なことは、その人間がしんじつ自分の一生を生き抜いたかどうか、という点にかかっているのだ。> 山本周五郎

感傷に抗って書かれたようなこんな作品もいいものだと思う。でも感傷を排してるように見えて実はかなり叙情的な物語なのではという気もする。


(番外) 『筆箱採集帳』  ブング・ジャム 2009

 何気なく本屋で立ち読みしただけなんですけど、面白かったので紹介。
いろんな人の筆箱と中身が載っていて、文房具好きな自分は、つい「どれどれ?」と覗きたくなったのでした。ざっと見たところ、どの方も持ち歩きに便利なように最少限のものばかり。でも一つとして同じものがないという所に、仕事の内容や個性、ささやかなポリシー、美意識までもが出るのかなと思いました。縦型でファスナーが多い中、”開くとそのままペン立てになるペンケース”というのがあり、これいいかもと思いました。必需品とも言えそうなボールペンやシャープペンでも、人によっては選びに選び、こだわったのではと思えそうな有名メーカーのが目にとまりました。(時たま数百円のペンを使っているのが恥ずかしくなるワタシ;)マニアックな本だなぁと思いました。立ち読みする人も。

    出版社/著者からの内容紹介
「筆箱」の本です。ただ、ここで言う筆箱とは、いわゆるペンケースのことだけを指す言葉ではありません。もっと広義に「持ち歩くためにチョイスされた文房具のひとかたまり+ケースのユニット「」と捉えていただければ、読み進めやすいか存じます。たとえば、スーツの胸ポケットにペンを一本挿している人にとっては、そのスーツとペンが「筆箱」ですし、画家が外でスケッチするための持ち歩き用画材セットもまた「筆箱」といえるのです。 機動性を重視したり、筆箱ひとつで万事対応を目指したり。仕事柄どうしても外せないペンがあったり、好きだからどうしても入れておきたい万年筆があったり。職業・年齢・性別・こだわり・・・。そのすべてが反映された筆箱は、まさに人それぞれ。だから気になる、いろいろな人の筆箱の中身。

(「BOOK」データベースより) 「銀座・伊東屋」社長、セレクトショップのオーナー、イラストレーター、建築家、ライター、デザイナー、Webディレクター、漫画家、保育士、看護師、大学生、中学生、小学生、会社員、システムエンジニア、レポーター、アニメーション美術監督漆芸家、舞台女優、陰陽師、内科医、神主…ほか、計59人の筆箱。




<番外>

* 『幸田文 随筆集』  

 幸田露伴の娘さん。昔なにか読んだことがある。久しぶりにみたら刊行されている随筆全集(岩波)の冊数が十冊以上もある。古風な雰囲気。流れるように書かれている。そういえば『流れる』という小説があったのだっけ。着物の話が多い。どうということのない日常を描きながら、身辺の人々やものごとへの観察力は鋭い。幸田家は行儀作法(死語?)に厳しい家だったらしい。行儀作法っていい言葉だな、と作法に縁のうすい私は思う。ミッション系の学校に通っていたのを知った。明治生まれの女性には、沢村貞子さんなど名随筆家が何人もいる。さっぱりと綴っているようで、きめ細かなこころ模様が見えた。

< 本を見てまつさきに来る感じは、私には重みである。つぎには影だ。>



* 『介護入門』  モブ・ノリオ

 芥川賞をとった時から読みたかった作品。 最初からパンクロック調の文体で始まり、こういうの初めてだなと斬新さを感じる。文体の破れかぶれな感じと裏腹に祖母の介護は深刻で、主人公のしんどさが伝わってくる。介護の現実を面白く描いているのかもしれないし、介護というより毎日の鬱憤や考えごと、自身の悩みを余す所なく書きたかったのでは。「元ミスなら(奈良)」のおばあちゃんとのユーモアな遣り取りで、読者も一息つける。ずっと同じパンク調なので、半分辺りから読むのがしんどくなり、やめてしまった。作品を書き終わった後、作者は深海から海面へ浮き上がったみたいに生き返ったのではと思える。



* 『どくろ杯』  金子光晴

 最初の詩集が出版された直後に関東大震災が起きたもんだから、詩集の評判がどっかへ行ってしまったと作者は嘆く。震災の惨状を見て、あとあと続く虚無感が体に染み付いたようにも見える。 奥様とのなれそめが興味深し。詩人なのに乾いた感情を持っているようで、かと思うと激しいパッションも感じる。それらが交互に入り乱れ、いろんな思いが立ち表れては消えするものだから、どのような人なのか掴みにくかった。多くの詩人が表現したくてたまらなかった<魂のひりひり>(by茂木健一郎)を生涯持っていた人だろうか。 時どきコミカルで、面白そうな人だなぁと思う。体当たり人生、風来坊、常識や社会への懐疑と反抗。見栄やとりつくろいや世間体はぜんぜん考えない、でも骨のある人。無頼派アナーキストというの? 上海へ行くまでを書いた前半しか読まなかったので、この後あちらこちらへ旅したらしい。 我が子をよその子のようにあっさり書いていたのが印象に残りました(笑)。山崎ナオコーラ氏がこの本が好きだという書評を読みました。あと塩野さんとの対談で五木寛之金子光晴は面白いと言ってました。



* 『水脈』   高樹のぶ子

  水から着想を得た短編集で、しっとりと女性が描かれていた。現実から幻想へとうつろってゆく書き方や、どちらの世界かはっきりしない、まさに水の中にいるような、不透明なような透明なような、ごぼごぼと泡を泳ぐ魚の感覚にさせられる。人がさまざまな事を意識して考えつくした時、永遠とか死とか、非現実のものが浮き上がってくる気がする。 山田氏と同様、表現力も確かなので安心して読める作家さんだ。


* 『決壊』  平野啓一郎

話題になっていたので読みたかった長編。感想を書くのは難しい。 現代社会やネット社会の問題を、さまざまな角度や立場から書こうとした意気込みを感じたものの、私がすこし消化不良を起こしたみたい。台詞や詳細な気持ちの描写に、ところどころ説明のような文が入るので、読み止まってしまう。"悪魔"と呼ばれる人物をすこし無理して創ったのかなという感じもする。作者自身は希望を持っているのかどうか、判断を保留しているようにも取れる。望みは棄てたくないのだろうし、さぁどうする?と読者に問うているのは伝わってきた。ずっと緊張して読まなければならなかったので、もう少し安堵できる部分があると良かったのに。 これからも同じテーマを書き続けて、答えになるような、考えさせる何かを示していってほしいなと思いました。(えらそうにスミマセン。。)


* 『霧の向こうに住みたい』/『ヴェネツィアの宿』  須賀敦子

どちらもエッセイ集。 おなじイタリアに住み、親しんだ作家として、塩野七生さんとは受けるイメージが違う人だと感じる。共通点は異国で”個”を確立させながら仕事をし、自分を彼の国と文化に溶け込ませたところだろうか。須賀さんの文は、思い出を大切にしながら、その底の方へ降りてゆき、ゆっくり味わったり楽しんだりしている感じ。思い出そのものは重かったり深刻なものもあるのだけれど、過剰になることなく、ほどよい長さと心地よい文体で書き綴っている。「ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか」―を探しつつ生きた人らしい。「カティアが歩いた道」が良かった。家族や友人を大切にしながらも、寄りかからないで自分をきちんと保っている人なので、憧れる。 




116. 『風味絶佳』   山田詠美

良い作品という噂を聞いていた。珍しく男性がガテン系職業で、彼らを取り巻く女性との恋愛が描かれた短編集だった。火葬場や塵芥収集、とび職や配水管工事という主人公のは、ほんとあまり読んだことがないかもしれない。やはり心の機微を描くのがうまい。明るく自由で、じめじめしていない。前に読んだ山田さんの作品より、こちらの方がいい。いろいろな文体と構成で、どれも最後まで飽きなかった。特に『海の庭』というのに惹かれた。主人公の母と、母の同級生だった男性との淡い初恋のやり直し。それを見ている娘の、ちょっと複雑な心境と変化。娘は母達を見ながら、人との関係は何かから与えられるものなのか、それともその人が自分で作るものなのか…考える。

大人の恋愛小説と呼ばれているようで、私も最初はそう思ったのだけれど、大人の恋愛ってどんなのだろう…?主人公達はどこか純で、常識からするとバカなこともやっていて、いちずでウブで可愛らしい。良識あるおとなとは反対に。。




117. 『おとな二人の午後』 五木寛之塩野七生/ 1998年

40歳を過ぎたら人生の午後に入るのだとか。(byユングさん) 70歳を越えていつもお若い五木さんと、60代でも意気盛んな塩野さんとの、イタリアでの対談記。もう場所がすごく贅沢。 都市のホテルや歴史的建築物を見晴らす絶好の場所を選んである。(そしてわりと二人はセレブです。) 学生だった頃の五木さんは血を売って生活していたと読んで以来、気になっていた作家。気になっていたわりには作品を余り読んでないけど。 五木さんが靴や車マニアでイタリア好きだったこと、塩野さんがイタリア人と結婚&離婚していたことなど初めて知って驚いた私は、文学の基本知識に欠けてるかも? 二人はいろんな話題で対談し、何でも知っている。知識人というより素敵な文化人。美術、芸術、小説の話から生活品の好き嫌い、旅の話、思い出話、健康について、脳と免疫、歴史や現代社会、宗教についてなど、まぁ何でも出てくる。

なぜかドストエフスキーが何度も登場。「題名がかっこいいのが多い」とか、作品の内容についてはほとんど触れてないけど…。 『謎解き~』の江川卓氏の「明るく楽しいドストエフスキー」というキャッチフレーズは、五木氏がある講演で最初に使ったのを引用したのだとか。そのフレーズは、講演の題名に困って何気なく窓の外を見たら、「明るく楽しい東宝映画」という看板があったからだって。。ほんとに? そしてこれからはドストよりもトルストイの時代へ向かうのがいいと言う。

五木氏は昔からデラシネ(根無し草)を標榜してきた方だ。引揚者としての経歴から少し自嘲気味に言っていたのか、それとも積極的な思いとしてなのかわからない。「日本のことはある意味どうでもいい。地球全体で世の中は動いているから」と言う氏の考え方は、近ごろ仏教系の本を出していることとも関係あるのかな。他にも面白い言葉が多かった。その中から―

・本はお寺の鐘のようなもの。撞く人によって大きくも小さくも響く。
・異邦人とは引き裂かれた状態。摩擦を起こすが、100%以上のものを出す。ハプニング、偶然の働きが作用して可能性が広がるかもしれない。
・異邦人を包含することで活性化してくる都市―パリ、ルネサンス期のフィレンツェ、東京、古代ローマ
・本は時代によって選ばれるもの。
・<手>に書かされている瞬間―頭でもなくハートでもなく何か大きなものに励まされて。ヨットに帆を張って風を待っていて、わずかな風で動くように。
・地方や末端、辺境が中心部を支えている。

・脳と免疫、どちらが優秀か?脳は免疫体系を拒否できないが、免疫体系は脳を非自己であると拒絶できる。主な自己は免疫にある?
・日本が先進国の中でキリスト教国でない利点は、相手を認め許せる点にある。
・日本は緊張感なく暮らす。境界を曖昧にする。ヨーロッパの文化や感受性は、何でも分ける。白黒。善悪。
・色は、いやおうなく歴史だ。
・イタリアの少女の美しさ―過ぎ去ることが前提となっている美しさ。
・常に今いるところが自分の居場所。永遠の遊牧民。ホモ・モーベンス(動民)。家、資産を持たない。
・作家という仕事。 「本なんぞ読んだことがない人に読ませてみる気で書いた」(五木) 
 「歴史とは関係なく立派に生きている人に読んでもらい、考える刺激を与えたい」(塩野) 
・出ない杭は腐る。
・白昼夢にふけっている人間を九州では夢野久作と呼ぶ。久作どん。自分もそう。(五木)













114.『エリック・ホッファー自伝 ~構想された真実』 作品社

 ホッファーの2冊目。今年初めて読んだ人の中で、ホッファーが一番の収穫だったと思う。自伝といっても40過ぎまでなので、その後のことも知りたかった。(72歳の時のインタビューがおまけで入っています。)

 出遭った人や本、そして彼の人生の大半を占めていた労働についての記録。これを書いたのは70歳過ぎらしいので、若い頃のことは覚えていないとか(笑)。記憶に残っているエピソードの書き方が、読者を飽きさせないというか、とても面白い。

 まずものすごく沢山の仕事をしていたこと。日雇い労働が主で、ほとんど肉体を酷使するもの。元祖フリーターと言えるかもしれない季節労働者として、農場や鉱山や道路現場にと、職場を求めて放浪している。出遭う人も社会のはみ出し者が多い。アメリカの資本主義、経済、社会を支えていたらしい。工場は自分に合わないと何かに書いていて、ひとつの場所に居るのが苦痛だったのだろう。40歳過ぎて沖仲士に落ち着く。

 出遭った人もユニークな人物が多い。乱暴な人、気弱な人、心優しい人、様々だった。『死の家の記録』を思い出す。あるキャンプでは、200人のうち体が無傷な人は70人のみ。どんな人が放浪者 兼開拓者となったか、そこからホッファーの哲学は始まった。世間から見放された者、冒険を求める者、元囚人、社会からの逃亡者…みな居場所を変える痛みを持ちながらも、財がなく、たとえ有能であっても決まりきったサラリーマンや一般の生活には耐えられない人達だ。ホッファーは彼らを観察しながら、雇い主である農場主についても語っている。

 放浪する人々…というのは、私は全然知らない。工場や作業所での軽い肉体作業ならいろいろやったことがあるけれど、そこで働いていた人は、たいてい生活の基盤を地域に持っている人たちばかりだった。ホッファーの放浪生活は、当時のアメリカの社会事情も関係しているみたいだ。

 ホッファーが得た大きな思想は、「人間の独自性とは何か」について。 彼は「他の生物とは対照で、弱者が生き残るだけでなく、強者に勝利する」と確信する。やさしく言うと、強い者が社会を引っぱり支配する部分より、弱い者がなんとかして社会に生き残ろうとするさまざまな試みの独自性と創造性の方が強く、社会を発展させる原動力になっているのではないか、ということ。(・・・らしい。少し違うかもしれない。)

 ユーモアもある。あるユダヤ教徒と飼い犬を見て、飼い主の食べ方と犬がそっくり同じ。この犬はどうやって改宗したのだろうか?と考えこんだり。 いつもクールで冷静かと思ったら、そうでもない。情熱的に議論する時もあれば、美しい女性にとてもスマートに近づいて、虜にしてしまったりする。(そして振ってしまう。というか身を引く....なんてもったいない!でもハードボイルドっぽくてカッコいい。....のだけれども、別れは後々まで彼を苦しめたのだった。 自分が苦しむのがわかりきっている決断を、人はしなければいけない時もあるのだろうし、してしまうのはどうしてだろうとふと思う。)

 若い頃に一度自殺未遂をしたり、後半生は大学で講義をしたりと波乱万丈だ。モンテーニュ「エセー」やドストエフスキーにも熱中し、『白痴』が大好きだったとか、旧約聖書に衝撃を受けて、その感動を何ページにも書いていたのが印象的。なぜか植物学にも一時期興味があったらしい。一番すばらしいと思えるのは、日々の労働の中で続けた、思索と読書と執筆だ。

晩年には、人間の手、職人技能に注目して、職人が技術を無償で教える広場や通りを提案していた。

<有意義な人生とは学習する人生だ。人間は自分が誇りに思えるような技術の習得をするべき>
など、いい言葉がたくさんあり、読んでよかった。 




113.『本、そして人』 神谷美恵子 みすず書房 2005年

 ヴェイユと並んで私がとても尊敬している神谷さんの、出遭った人や読書についてのエッセイ集。(と半生記も少し。)  彼女の著作は10数冊刊行されている中で数冊しか読んでないけれど、著作に現れてない意外な内面をこの本で知ることができた。

もの静かで穏やかなイメージのあった神谷さんは、激しい感情や強い欲求を持つ人でもあったらしい。 「私の中のデーモンが…」という言葉がよく出てきて、少し驚かされる。読書家であっただけでなく語学力に優れていて、英語の他に、仏・独・伊・ギリシア語まで独学で勉強したらしい。M・アウレリウスの『自省録』の翻訳は、今でも版を重ねている。

 そんな彼女が、なぜV・ウルフを研究したのだろうと思っていた。神谷さんは自分を分裂病気質であると分析し、自己への深い洞察と、厳しい自己否定から肯定を経ることで、本を書いたり仕事をし、ウルフへの親近感を持って研究したようだ。今ほど普及していなかった、トラウマという要素についても早くから注目して、ウルフの小説を読み解こうとしたらしい。
  神谷さんが分裂気質であるというのは、信じにくかった。前読んだ本を思い出すと、人を見つめる時の捉え方、理解しようとする向き合い方に、矛盾を抱えて悩み抜いた人ならではの見方があったようにも思う。

 『生きがいについて』という本が多くの人に読まれるようになった時も、一般受けするような、よい生き方を説いているように誤解されるので嫌だったとか。『生きがいについて』は、どう考えても困難な状況にある人にとって生きる意味とはどういうことなのかを、自ら迷い悩みつつ、ハンセン病者を前にしながら考え書いたのだろうと思わされる。 この本でも、自分のことがわからなくなった人や、意識がなくなった人、高齢者にとって生きる意味とはなにか…を考えている。意識がないために自分で生きがいを感じることがなかったり、社会に役立たねば、意義がないのか。 自立や生きがいを感じたり、他人から認められることが必要なのか、など、通常の価値観を問い直し、本質に迫る疑問を投げかけている。また、<人間を越えるものへの委ね>を考えている。

ヒルティ、パスカルプラトン新渡戸稲造、アウレリウス、ダンテ、ヤスパースらを <精神的な恩師>と呼んで、生涯読み続けたらしい。神谷さんの人生についてはあまり知らなかったので、十代の一時期をスイスで過ごしたことや、アメリカのクエーカー系の学校への留学、結核や戦争の体験などを読むことができたし、何よりどのようにして神谷さんという人が造られていったかがかいま見えた。能力や環境にも恵まれていたのだろうが、彼女を突き動かしていたのは、「人の魂のことを知りたい」という強い願いのようなものだったのだろう。

 精神科医になるきっかけになった女性のことや、「大切なことを精神科医に教えすぎた患者は、ふしぎに自らの命を絶つ例は多いのは粛然とする事実である」など、ハッとする言葉も多かった。 精神的に重い損傷を受けた人は、たとえ自死したとしても、治療者に意義深いなにかを訴えて、残すことになる。それをまた治療者は他の患者の治癒や回復に、彼らが生きた証として生かしてゆく、ということだろうか。(もしかしたら私は軽々しく言い過ぎているかもしれないけれど。) 医師だけでなく周りの人たちにとっても、そうした人の死は測り知れないものを残していくのではないだろうか。 易しい言葉で書いてはいるが、大変な困難さを感じながらの、言葉にしづらい仕事であっただろうと想像する。

 解説者は、神谷さんにはヴェイユと同じく<二つの狂気>があったのでは、と書いていた。「真理への狂気」と「愛への狂気」。知への探究心と、生活の中での献身や実践だろうか? 狂気なんて神谷さんには遠いものなんじゃないかと思った。いろいろ読んでいると、人のこころについて突き詰めて知りたいという欲求の中での葛藤とか、本を読み、考える時の熱中の仕方とか、どこか狂気に近いものがありそうに思えてきた。神が与えたもう誉れ高いデーモンが彼女には備わっていたのかもしれない。 「自分の裡なる”書く人間”の強い牽引を感じて苦しくなる」という言葉もあった。そうしたものを抑えて、療養所で診る人々への理解や愛に高めていったらしい。
 これからも私の精神的恩師であってほし

 

本の窓 16

+++ 本 16 +++



113.『野の花 三百六十五日』  池沢昭夫、池沢洋子/文化出版局/1993年

 散歩しながら道端に咲く花を見たり、探したりするのが好きです。これは母から譲り受けた本。庭で育てている花や木は和ものが多く、ふだんはわたしが花瓶に好きなように庭の花を生けています。

 紹介されている野の花は、一日ごとに違うものがいろいろな形と器に自由でカジュアルに活けられています。<投げ入れ>に近いものがほとんどです。形が小さく色が地味で、よく見ないと花弁がどこにあるのかわからないような花でも、花器と一緒になった時から空間でわずかな存在感があらわれてきます。花と器の関係がうまくマッチした時、野の花のたくましさや可憐さがより際だってくるようです。

 選ばれている花器や入れものが、とてもいい感じです。竹や陶磁器の花びんの他に、ふだん使いの鉢や皿、土瓶や酒器が使われていたり、お地蔵さんの前であったり。
木の根っこに這わせていたり、むかし使われていた桶だったりと、水が少し入るものなら何でも。




 活けられた花は四季折々のもので、一種類だけ、ほんの少し。
家の中の道具や家具に、旬の野菜をさりげなく乗せてみたり、西洋の花も少々。

 365個の写真が野の花の美しさを引き立てています。 眺めているだけでほっとできるし、こんな風に活けてみよう…と思って見てて飽きないです。
自然に生かされていることの感謝を感じる、と筆者があとがきに書いています。 あるがままに楚々と咲いていて、しかもどこか健やかな姿が野の花の魅力なのでしょう。 来世で生まれ変わった時には野の花に…などと思ってみたりする冬の日でした。 




112.『オバマの孤独』  シェルビー・スティール/ 青志社/2008年

オバマさんてどういう人なのだろう、と思って偶然手にした本。アメリカの政治のことはよく知らない上、私は大統領選も終わりごろになって、彼が生粋の黒人ではなくアフリカ系黒人の父と白人の母との混血だったことを知った;。 著者は同じ混血で、オバマの気持ちや苦悩などが身に染みて理解できるようだ。本のテーマはオバマ次期大統領への希望と憂慮を述べているのだけど、アメリカの人種問題についても書かれてあって、知らないことが多かった。

* 混血であることの問題

自分にとって人種というのは今まで切実な問題としては考えたことがなく、それだけそういうことが問題となる世界には生きてこなかったのだなと感じる。混血に生まれた人は何より、原初的な安心感や安定感が感じられない。疎外感やホームレスの感覚、人種の連帯感に欠けると言う。そのジレンマや複雑な感情は、思えば大変なものだろう。特に黒人と白人の混血であることは、両者が差別関係にあった(今もある)ため、さらに立場が難しいというか、悪いという。両方から<本物ではない>と見られる。著者はこの辺りの心境を、巧みに実感を持って表している。というか、オバマの気持ちをオーバー目に代弁し強調しているので、ほんとにオバマさんはそう思ってるの?と思ったりする。

オバマ氏は実際とても優秀で、人格的にも申し分ない人物だそうだ。それは一般の人々と同様、温情や同情無しで多くの政治家も認めているらしい。ケネディと並べられるのも理由があるのだと思った。オバマはひと言でいうと、自分の中の「人種の壁を克服しようとしつつ、黒人であることを主張」していると著者は見ている。つまり混血であることを有利に用いて、黒人アイデンティティを保持しながら、自分が育った白人社会のメインストリーム(社会の主流)に入っていこうとしているのだ。 これだけだと私は別にそれでいいんじゃない?…と思うのだけれど、著者はそれじゃぁいろいろ問題がある、と待ったをかける。

* 黒人性(ブラックネス)というアイデンティティについて

アメリカ社会には黒人差別の長い歴史があり、それがいまだに尾を引きずっているらしい。1950~60年代の公民権運動の時代を経て、黒人や他民族を受け入れた多様性を謳うアメリカは、道義的理由から黒人を尊重してはいるが、社会の機関は黒人の人間性は求めておらず、多様な人種社会は見せかけであるに過ぎない。だから黒人達は白人グループとの関係に応じて、キャラクターを作り変えているというのだ。 そこには現実と対峙するための 「仮面」が必須であり、たとえばある人は尊敬されたり、親しみやすいスターや有名人となる。けれども彼らは決して白人と同等の権利を主張しているのではなく、白人社会で生き延びるため仮面をつけているのだと著者は強調する。これは当人でなければ非常に分かりづらい感覚、実感なのだろうなと思う。想像すると毎日がどこか憂鬱で、しかも怒りや反発や危険をも感じる生活ではと思う。時どき起きる黒人の暴動や黒人に関連した事件がニュースで流れると、とてもやりきれない気持ちになる。
また仮面を付ける生き方とは別に、差別に抵抗し黒人の尊重や権利を求める”ブラックナショナリズム”という運動の系統もある(マルコムXキング牧師が近いだろうか)。

仮面をつける問題は、集団でつけた仮面がいつか自分達のアイデンティティとなってしまうこと。ブラックであろうとしながら仮面を付けて白人のメインストリームに向かうと、反対にブラックらしさを問われて自分を傷つけたり、仮面に自分が取り込まれるというか、仮面が自分になってしまうことがある。それゆえ黒人個人に理由があるような様々な問題を、すべて人種主義(や差別)のせいにする。これは黒人でなくても、性差や学校集団というものを考えたとき、私も少しだけわかる。どんな人でも多少の仮面は付けながら生きているのだろうが、黒人の場合、重く硬い仮面なのだろうとつくづく感じる。

著者は黒人文化の永遠の命題として、白人社会と交わす 「約束の取引」 を挙げる。それは白人達に、人種主義者ではないという免罪符を与える代わりに、白人社会での黒人の成功を約束させる取引である。こういう取引が、ある程度の黒人の地位向上を押し上げたらしいのは初めて知った。アメリカ社会、いえ他の国でもあるだろう潜在的な精神の差別構造みたいなものをもっと知らなくちゃ。。。他に、オバマは父親探しがアイデンティティ探しに入れ替わったとか、黒人側の「取引」手段以外の「異議申し立て」手段についても書いていた(←ブラックナショナリズムにつながるもの)。 

* 著者の結論

オバマ氏は今は人種問題やその他社会の変革について、表面上 「取引関係」をもとに白人社会と融和していこうとしているようだが、彼の真意は黒人問題は白人のせいではなく黒人自らが全責任を負うべきだ、と考えている。だからもしその考え方が上手く政治に活かせなくなった時、黒人からも白人からも非難されるかもしれない・・・と著者は憂慮する。オバマの考え方は、人種問題に限らず、自由な人間ができることすべきことを、西洋的な価値観で考えようとしている、ともいえる。けれども黒人側のアイデンティティにきっぱり立つのか、白人社会の価値観に立つのか、どちらが絶対に正しいとオバマ氏が思っているわけでもなさそうで、言葉は悪いがカメレオンマンではないか、そう生きざるを得ないのだ、と著者は言う。

        ********

全体に著者の混血者としての感情や、今まで抱えてきた切実な問題意識が繰り返されており、オバマ自身の人柄や政策や人種以外の考えは、詳しくわからなかった。著者はオバマの混血やそこからくる考え方について、困難を伴い、お真っ暗でなくてもあまり明るくはないと悲観的に考えているようだ。でも反対にいうと、両方の人種を知り、どちらの文化も知っているわけだから、一人の人間が二人分生きているとも言えるのでは?矛盾やアンビバレンツなものを抱えながら、掛け合わせて創造的な方向へ行く・・・たとえば多民族共生・・・ことも、彼らにはできるのではないかとも思う。混血文化がどんなものか知らないので、これ以上はナンとも言えないけど。 人種問題はアメリカの様々な問題とも関係があるのだろうし、私にはちょっとやそっとでわかりそうもない。複雑な現代社会の問題が、もの凄く多く絡んでいるのだろうという気がする。
アメリカはこれからどこへ行くのだろう。

文中で『マイ・ドリーム~バラク・オバマ自伝』を頻繁に取り上げていて、そちらを読んだ方が良かったかな。でもラップやジャズ音楽の背景にあるらしい、とても見えにくく複雑な黒人文化や人種問題が少しわかった。ホッファーの日記でも港で働く同僚の黒人によく触れていて、彼がどういう風に彼らを見ていたのか、また興味がある。  




111. 『波止場日記 ―労働と思索』  エリック・ホッファー 1971/みすず書房

アメリカの港で沖仲仕(荷降しなどの仕事)をしていた哲学者のホッファー(1902~1983)の名まえは昔から聞いていた。彼の生涯について知るといろいろ驚かされる。7歳で母が死んだあと失明し(二つの出来事には関係があったのだろうか)、14歳で突然視力が戻ったあとは学校に行かず、図書館や独学で本を読み思索を深めていった。20代でも様々な経験を経て、大学教授に招かれながらも在野の哲学者であることを選び、湾岸労働者として一生を終えた人だ。とてもユニークな哲学者がいたものだと思う。

日記は1958~59年(56~57歳ごろ)にかけて書かれたもので、ほぼ毎日の仕事のこと、考えたこと、生活のあれこれを綴っている。文章は簡潔でメモのようでもあるが、思索の断片が埋め込まれた格言集のようでもあり、しばらく読んでいたら・・・そうだ、ブログの記事とどこか似てる!と気付いた。難しい哲学書と違って、何より生活の匂いがするというか、当時のアメリカの労働者や社会、世界の様子についての感想も入っていて、日々を過ごしながら考えるってこういう行為なんだと思う。

彼は感情に流されない性格の人らしく、クールで醒めた目で社会や人を眺めているみたいだ。それは若い頃の体験も影響しているらしい。人との濃い関係は苦手のようで、かといって一緒に働く人たちとは友好に行動していたみたいだ。けれども同時読みしていた『魂の錬金術』には、「思いやり」という言葉が頻繁に出てきて、心根のやさしさを感じる。50代半ばといえば肉体労働はきついだろうと思えるのだけど、シュワちゃんみたいにモリモリ頑強だったのかな? 仕事を辞めようとはしないのが不思議だ。敢えて楽な仕事には就かないようにしていたようすだ。疲れ切った夜など考えることも面倒だろうに、体の疲れと思索とはべつとでも言うように、毎日毎夜考えごとをしては文をひねり出してる。たまに疲れてどうしようもないとか、体に痛みを感じ、言葉を編み出す苦労をもらす所もあった。

リリーという親しい女性とその息子との交わりが、淡々とした生活の中に彩りを添えていてホッファーの人間味を感じた。とりわけまだ3、4歳くらいの子に対する、とても冷静な見方と対応に驚かされる。人格を持つ一人の大人のように向き合っており、よく観察して、しかも慈しみの情が感じられる。彼に衝動的であってはならないとか、あまり愛着を示さないように努めると息子が行儀よく振舞ったとか、いろいろ。

彼が読んでいた本のほとんどは知らなかった。たまにトルストイが出てきたり、パステルナークよりドストエフスキーの方が面白いと言っている。アルマ・マーラーの本は高慢でくだらない、取りまく芸術家達は偉大な業績は上げているがその世界は病室のようだとか...(笑) 彼が芸術に価値を見出していても、自分では楽しもうとしなかったのはなぜだろう。自分が本職の労働者になりつつあると言い、知識人と自分とをはっきり分ける態度を感じた。 生活はとてもシンプルで、必要最低限のものしか持たない主義だったらしくて、憧れる。ホッファー哲学の主題は、大衆と知識人についてや、時代の変化、ファシズムの起源と大衆といったものらしい。この日記だけではよくわからなかった。彼の哲学を理解するには、この本だけでは不十分かなという気がする。とても面白かったので他にも読んでみたい。  

印象深い言葉があって、ノートにたくさん引用した中から――
(本で読み、ノートに書き写し、HPに載せるためにキーボードを打ち、表示してまた読み…と4度も同じ言葉に触れている。)


    *******

・ 虚栄心の強い者にとっては、自分に起こることすべてが恐ろしく重要なのだ。

・ 他人との交際が刺激になるとしたら、それは自己の思想の独創性を気付かせてくれるからだろう。しかしこれには一目で独創的な考えを見分けられる人々の存在が必要である。

・ ある観念を表現する言葉が見つからない場合、ほとんどはその観念を考え抜いていないのが原因である。

・ 影響を与える相手から、いかに大きな影響を受けるものか、いくら誇張してもし過ぎることはない。(息子の相手をしながら。)

・ 書く喜びが膨張をはぐくむ。

・ 人間のエネルギーを解放し、人間の頭脳を燃焼させ、魂を啓発し、内部のかすかな動きに飛翔する言葉を与えるのは、何ものであろうか。

・ 人間には、必要なもののためより、不必要なもののために努力し働こうとする気持ちが強い。

・ 真に生きているとは、すべてが可能と感じることである。

・ 高潔な気分になるためではなく、心地よく感じるために、私は用心深くたしなみのある人間であらねばならぬ。

・ 自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかがまったく念頭にないことに気付くと、うれしくなる。自己にとらわれるのは不健全である。






110. 『母よ嘆くなかれ』  パール・バック  伊藤隆二訳/法政大学出版局  

1950年に作家パール・バックによって書かれた、知能の発育が困難だった愛娘についてのこの手記は、手記の形ながら一つの物語として読みました。バックは長い間娘のことを書くことができなかったと言い、同じような子を持つ親のためにと思って書く決心をしたのは58歳の時だったとか。

障害を持つ子どもを育むことを通し、<どんな人でも幸せになる権利を持ち、平等で自由に過ごすために生まれている> 意味について書かれているのですが、私には「与えられた人生」の受け入れ方について考えを深めることができた本でした。

****

娘が生まれた時のバックは心身ともに充実しており、大変嬉しく幸せだったそうです。けれども次第に娘の様子がおかしい、知的な問題があるのではと3,4歳頃に気付き、決して成長することはないと分かった時には、「どうしてわたしがこんな目に・・・」という叫び声をあげるしかなかったと言います。避けることのできない悲しみを前にした人、誰もがあげる叫び。。。彼女はやがて「それには絶対に答えはないのだ」と悟るようになります。そして「意味のないものから意味を、自分流の答えを作り出そう」と決意します。
この本で感動した箇所はたくさんありました。次の言葉なども。

 「悲しみは喜びをもたらすことはありませんが、知恵に変えられることさえあります。その知恵は幸福をもたらすことができるのです。」 

いったん絶望に陥った人が、いかにしてそこから這い上がることができるか。抜け出る、這い上がるというより、絶望の中で光を見出していくかの過程が、とても赤裸々に真実味を持って書かれています。そう書いてしまうととても簡単なことのようで、ぜんぜん違う難しい行為なのですが。。。

著者に近い経験が少しでもあったり、身近な人がそういう状態になった人、さまざまな悲しみを抱えて生きていかざるを得ない人なら、バックの思いは水が砂漠に染み入るごとくわかるのではないかと思えます。 本来なら夫と困難を乗り越えていくはずでしょうが、夫は娘に終始冷たい態度を取り続けたようで離婚に至り、バックは孤独のうちに娘の将来を案じ、自分の人生の意味についても深刻に思索えを重ねたのでした。繊細な情感をもち賢くもあった彼女にとって、娘を想う時の苦悩がいかに深かったかは想像に難くありませんでした。

一人の医者が無慈悲にもみえる勇気をもって、娘の病気と将来についてはっきり教えてくれた時の情景は忘れられないと言っています。(娘さんはフェニルケトン尿症という病気だったのですが、当時はアメリカでは判明しなかったそうです。今は赤ちゃんが出生時に病院で検査を受けて早期の治療も可能になっています。)

また当時住んでいた中国の人々が、どのような子どもも社会の一員として受け入れてくれたことが慰めとなったとか。 バックは本の中では毅然とした強い母のようにも見えますが、はじめの頃はとても孤独で気持ちが混乱しており、先の見えない心の道を何度も行き来していた、ごく普通の母であったとわかります。親の多くは、我が子がどのような子であれ、いつもこれでいいのだろうかと、はたから見るよりはるかにたくさんの不安と希望を持ちながら育てていると思います。また親になると、人によっては自然に親である自分を低くするようになるのではないかと私は思っていて、同じようなことをバックも書いていて印象に残りました。

バックは 悲しみには和らげられるものと、そうでないものの二種類があり、”生活をも一変させ、悲しみそのものがそのまま生活になってしまう悲しみ”が後者だといいます。 そのような悲しみから、<自分の魂の転換を図ろうとする姿勢>が長い苦悩の期間のあとに彼女自身の中から生まれたくだりは、ほっとしたし、人間はそういうことが実際にできるのだなと感じました。 彼女は<運命に反抗することをやめ、手探りで人生と調和することを考え、考えの中心を自分自身から外し>ます。 娘の幸せを現実にどう築いていくかに目を向けた時、娘が将来安心して笑って暮らせる施設と仲間が必要だと考え、良い施設を探し始めます。この施設の見つけ方が、「子どもを、人としてもてなす」園長を探すやり方でとても興味をひかれました。(1920年代のアメリカの養護施設は、まだ福祉とはほど遠い内容の所もあったらしい。今でも世界中の至る所で同じようなことは見られるのかもしれません。)

『大地』などの作家としての活動の他にも、バック女史はたくさんの養子を育てる学園を運営していたとのこと。娘さんにはささやかな正義感や音楽への感性があることに気付き、娘へのまなざしを通してどの子にも精神の尊さと、知能に関係ない個性があり、他の良い性質によって未発達の部分を十分に補っていると信じ、その確信からより広い愛へ実践していったのだと感じます。

「自分自身の悲しみよりさらに耐えがたい悲しみがある。それは愛する人が苦しんでいるのを見ても、自分で助けられないという悲しみです。」という園長の言葉も心に響きました。

また、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老がアリョーシャに言った、
「人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。これが何より大切なことだ。」 
という言葉も思い浮かびます。
世界には絶対的で動かしがたい悲惨や不幸なままの子ども、人々がいて、ゾシマの言葉が果たしてアリョーシャ以外の人に当てはまるだろうかと私は疑いを持っています。人の善性や本質がどういうものか、考えつつ信じていきたい気持ちもあるし、人は存在しているだけでほんとうに尊いのだろうか?…とわたしは繰り返し自問しています。

*** ***

この本を知ったきっかけと障害児の教育者であった訳者、また身近にいるさまざまな悲しみに見舞われている人達を思い、自分についても個人的に思うことがあって読んだので、非常に感慨深かった読書でした。 




109. 『倫理の復権ロールズソクラテスレヴィナス』  岩田靖夫/岩波書店/1994

下の『狐の選んだ入門書』で岩田氏を知り、何となく読んでみたら面白そうだった。でもロールズという人(政治哲学者)を全然知らなかったし、レヴィナスも読んだことがない。内容はかなり専門的な感じがしたし、一般向けではないのかもしれない。

わからないままソクラテスとかダイモンとか、聞きかじった名前を拾い読みする。途中「超越と倫理/人間のかけがえのなさ」の章でドストエフスキーが突然出てくる。それでまたそこだけ拾い読みする。

ドストエフスキー作品は、人間の実存の発見、古めかしい表現で言えば、人格の絶対性の発見、日常的な言葉で言えば、人間一人一人のかけがえのなさの発見、ということである。>

著者は特に『分身』や『貧しき人々』など初期の作品の主人公を取り上げ、「『鉋屑のような存在しているとも言えないような』彼らが何を支えとして生き、何を失うことによって破滅するかを追及している」と述べる。
この部分だけ読んでももちろん本全体の意味は取れないけれども、他者と自己(あと公共のとか普遍的なものとかいろいろ…)をめぐる倫理を、「ロ・ソ・レ」(超略)の三者でもって解き明かそうとしている(らしい)ことが伝わってきた。

本の内容は難しくてわからない部分が多かったので、目についた箇所だけ抜書き。

◆ 他人のために燃え尽きる。その燃焼の光は、激しく光り照らすが、この燃焼の灰から「自我」の核なるものが生まれるわけではない。 私は、他人に対して、私の行為に適度を施し、私自身を護るためのいかなる形をも、対峙させえない。 犠牲とは燃え尽きて、何も残らないことである。  (「レヴィナスの『無限』」~「語る」こと)

◆ ・・・私が他者に近づけば近づくほど、他者との距離が増大するということである。 自我にとっての休息は、どこにも存在しない。 レヴィナスにとっての「近み」とは、ただ、他者に責任を負っているということ。レヴィナス的に誇張的な表現を用いれば、隣人に自ら進んで奴隷として奉仕しようとすること、である。責任を引き受けた私は、私自身を失って、空になる。

◆ 私の「かけがえのなさ」とは、私個人のもつかもしれない幻想的な「価値高き自己同一性」というようなものではまったくない。 そんなものは、初めからどこにもないのだ。そうではなくて、私の「かけがえのなさ」とは 私と他者との真正の関係がもつ性質、すなわち、「私が逃れようもなく或る他者に責任をとらねばならない」という事態そのことを指すのである。 それ故、私と他者との間には途方もない不均衡が存在する、と言わなければならない。

人間の存在の意味は、自己実現にあるのではなく、膳なる行為のうちで自己を消耗し、他者に尽くし抜くことのうちに空無と化し、遂には自己解体することのうちに、あるのである。


(凡人の感想)
とても気高く崇高な倫理だと感じるし、生活の中で実際このような天上道な行為をできる人が何人いるだろうかとも思う。マザーテレサ田中正造ばりに生きなきゃいけないかも。もうすこうし実行の可能性のこと考えてくれなきゃ。原理はわかるけどもと言ってみたくなったり。でも「人のかけがえのなさ」ということの、思いもかけない厚みのある意味を考えさせてもらえた。
たとえ普通の生き方をしていても、著者やレヴィナスの言うように、他者とあのような関係がもてるかもしれないのだし、仮にそうできたとしたら素晴らしいことだと思う。
ドストエフスキーと絡めて論じてた所もよかった。レヴィナスに少し興味を持ったので、何か読んでみようかな。

◆ 「かけがえがない」ということは、比較を許さない、ということを意味する。・・・だが、人間において比較されえないものなど何もないではないか。その通り。われわれが人間を能力の束と見なすならば、人間は「かけがえのある」人材となり、利用され、棄てられ、焼かれて灰となる蛋白質の塊にすぎないものとなるだろう。・・・・それ故、ただ人間であるというだけの 無のごとき裸の事実、これが「かけがえのない」人間である。 それは、苦しみに歪んだ顔の奥にほのめいて消える何者か、われわれの認識を限り無く超えて その背後に退いてゆく何者かである。




108.『辛酸』  城山三郎  


 田中正造って、足尾鉱毒被害のために一生懸命かけずり回った人―というくらいにしか知らなくって。この前廃墟を撮っているサイトで、銅山奥深くの毒を沈殿させたらしい真っ赤な池の写真を見て、本を読みたくなった。むかし静かな景観の渡良瀬遊水地を見たことがある。その時はこの舞台と関係があるなんて知らなかった。 調べてみると周辺の土地や農地、山林では今でも被害が残っているとか。明治時代の公害なんて、もう終わったことじゃなかったのかしら・・・?

 本は伝記でもドキュメンタリーでもなく、一人の人間を等身大に描こうとしている物語。
 第一部は正造が亡くなる6年前、活動を手助けした村の青年 宗三郎の立場から描く。田中正造って意志の固さが半端じゃなく、頑固一徹というか熱情にかられている。読みながら何度もどうしてそこまでできるのと思った。無私の精神にもほどがある。突き動かされるような行動はとても力強い一方、何をやっても効果はあがらず打ちのめされるばかりなので、弱々しいひとりの翁のようにも感じられてくる。
 県や警察、政府からの圧力・切り崩しは相当なものだったが、立ち退きは嫌だという残留農民16戸と残り、裁判に議会へと東奔西走する。残留農民の暮しはかなり悲惨。人間の生活じゃない。鉱毒のせいで体を壊し、貧しい上に洪水が何度も襲い、文字通り辛酸に次ぐ辛酸だ。

 < 「田中さんは純粋だ。だがその純粋さは、死神のそれだ。」
正造の狂気に似た憤りがほとばしり出すと、何ものかを壊さずにはとまらなくなる。>

 正造の人物像は作者の想像だから、実際とはいろいろな点で違っていたのだろう。ただ正義の人だとか初志貫徹の人だとは、一面的に書いてはいない。周囲の人々へ、とても細やかな心配りや、やさしさを持った人として描きながらも、周囲の様々な意見についても(弁護士、他の農民たち、警官、役人など)作者は冷静に示していた。 正造は財産、身分、家庭を余計なものとして捨てた。(結婚していたが妻の名前を忘れてしまった実話があるらしい。) 彼を敬愛してやまない宗三郎も、正造に付き従う自分の人生、果たしてこれでいいのか?などと苦悩し逡巡している。

 <夜の雨の中を這うようにして歩き回った姿。彼らへ慰めの言葉も出ずに声を詰まらせ、そのくせ なお訪ね回らずには居られなかった正造の姿を、宗三郎は思い出していた。>

 第二部は田中正造の亡き後、村救済の跡を継いだ宗三郎のまたもや苦悩する姿と、村の行方を描く。こちらも面白かった。面白かったと言ってはいけないくらい悲惨は続いていくのだけど。。。正造がよく書いたという「辛酸入佳境」の状態には、なかなか遠いのだった。 ラストはかなり唐突な、宗三郎に迫る危険を描いて終わっている。周辺地域や村のその後を私達は歴史として知っている。やっぱりあれが相応しいかと思えた結末だった。暗く重い作品なのに、さわやかな読後感が残った。

  「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」  『ヨハネ伝』第12章24節


田中正造のやったことは、彼自身には報われなかった。
報われないことだったのに。ゴッホのように、私は胸を打たれる。 


<正造の狂歌
神となり仏ともなる道すがら忘れまじきハ人のふむ道

寝言とてうたわぬよりハうたへかしうたへバうたふ人の訪ふなり

HP「田中正造とその郷土」より引用させて頂きました。)

 <メモ>
宗三郎にはモデルになった実在の人が居て、その子息が著者の友人だったとか。作品の生まれたきっかけの一つらしい。 




107.『“狐”が選んだ入門書』 2006 /筑摩書房 /山村 修

全然知らない分野や作家の本を読もうとした時、今までどちらかと言うと入門書は避けてきたように思う。入門書だけで終わったら…とか、著者の書き方によって変なバイアスがかかってはという心配があって、いきなり原典や原作を読んだ方がいいと思い込んでいた。

この本を読んだら、そうでもないらしいと分かった。手軽な紹介書もあれば、山村氏が選んでいるような、それ自体で深い読み+知識への導きとなる、良い入門書もあるらしいのだ。紹介本もさることながら、狐氏の本の読み方とか書物への愛着、深い教養が感じられる文章が印象に残った。たとえば―

* 文の内容と表現。里見弴『文章の話』は、内容とは書きたいもの=「自」で三つ子の魂的なもの。表現は「他」=昔からのしきたり。だから腹の底から湧いてくる力強い「書きたいもの」、ほんとうの「自」を書けと。 人生や人間のとらえぶりも面白い。人類発生からの長いタテ線と、現在の世界の無数の人とのヨコ線の交わりに、自分がいる。「時間空間にとんでもなく多くの他にさらされた自」を「他」からどう区別し「自」を出すか。そんな里見弴のユニークな発想をわかりやすく紹介している。

* 高浜虚子の俳句入門書では、俳句の初歩や基礎を教えながら大きく啓発している。窪田空穂は、意志して読むことで一言一句から思いがけない鮮明な像を救い上げるとか。

* 岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』については、「歳をとり関係性の中で生きるうちについてくる筋肉がある。この本は思想的な筋肉です」と意見を入れている部分に、なるほどと思った。岩田氏が思想家の引用や要約をするのを、「まさに、芯をなす本質を抽出してみせる鋭さ」と評する。

その他では絵の観かたもタメになったし、曽我蕭白という画家を初めて知って、画集を見てみた。 本全体で芸術を深く味わう楽しさ、味わい方を教えてくれている。




106.『着物と日本の色~帯に表現された和の美意識』 弓岡勝美/2008/ ピエブックス

著者のコレクションしている江戸末期から昭和初期頃までの帯を、たくさんの着物と配色良く取り合わせて紹介している。

目を奪われるのは、色の美しさやデザインの斬新さ。 伝統模様をはじめ、伝統を脱した新しい模様まで、本当にさまざまな模様が織り出され、染め上げられている。御所車や菊、草花を写実的に描いたのもあれば、火の鳥のような躍動感ある鳳凰の模様、かまきりやカタツムリなど、こんなものまで模様に?と思うような多彩さだ。

色も豪華絢爛で、どこの姫君や婦人が召したのだろう…とうっとりするものが多い。色鮮やかな帯ばかり集めたのだろうが、写真技術のおかげもあってか、どれも時代を経たとは思えない鮮やかさだ。日本の職人芸と言えそうな和装の技術とそれを創りだした人の心意気、豊かな美意識を感じた。いったいどんな人達が創ったのだろう。 大げさな言い方かもしれないけれど、一つの絵画、一つの芸術作品とでも呼びたい美しさだと思う。私も昔の花嫁衣裳用の丸帯を見たことがあり、その豪華で丁寧な織りや模様、多種類の糸などには驚いたことがある。
 これらの着物や帯を着続け、丹念にしまい、後の時代へと残していった女性たちがいたのだなぁと思った。

本書では日本古来の伝統色(・・ほとんど聞いたことのない色)や、それらの配色の仕方、模様や帯についての説明や由来が、簡単にではあるが載っており、いろいろ勉強になった。上村松園の絵や日本画を見る時の参考にもなりそうで、もっとこういう本を読んでいきたいな。  

*この本で初めて知った言葉
◆撓(しおり)…芭蕉俳句の美的理念の一つで、人間や自然を哀憐をもって眺める心情を指すらしい。この言葉から連想される物静かな配色の帯と着物が良かった。

◆玉響(たまゆら)…玉が触れ合ってほんの少し音を立てるさま。その意からほんのわずかな間や一瞬を表す。とても綺麗な響き。








105. 『念ずれば花ひらく』/『坂村真民 一日一言』 坂村真民


* * * * * * * 

人は一度 死なねばならぬ
日は一度 沈まねばならぬ
光は一度 闇にならねばならぬ
これが宇宙の教えだ


* * * * * * * 

たたけたたけ 思う存分たたけ  おれは黙ってたたかれる
ただ くだけ  たたかれる
存在のために  真実のために  飛躍のために  脱却のために


* * * * * * * 

かなしみは  みんな書いてはならない
かなしみは  みんな話してはならない
かなしみは  わたしたちを強くする根
かなしみは  わたしたちを支えている幹
かなしみは  わたしたちを美しくする花
かなしみは  いつも枯らしてはならない
かなしみは  いつも堪えていなくてはならない
かなしみは  いつも噛みしめていなくてはならない


* * * * * * * 

うしろから投げつけられた激しい言葉を
一呼吸ごと消し 昼の街を独り歩いて行く


* * * * * * * 

一字に宇宙がある
一音に宇宙がある
一輪に宇宙がある

ああ お前もいつか 宇宙となれ


* * * * * * * 

神のうたをつくらず
仏のうたをつくらず
ただわたしは 人間のうたをつくる
人間のくるしむうたを
くるしみから立ち上がるうたを 


* * * * * * * 

座して年を忘れよ  座して金を忘れよ  座して己を忘れよ
座して詩を忘れよ  座して仏を忘れよ  座して生を忘れよ
座して死を忘れよ






<番外>

* 『塩一トンの読書』 須賀敦子

面白い題名だなと思って手に取ったら、本の本だった。私が読んだことのない本ばかり紹介されていて、まだまだ未読の本はこの世にゴマンとあるのだなと思う。「塩一トンの・・・」とは、著者のお姑さんが語った、「ひとりの人を理解するまでには、少なくとも、1トンの塩をいっしょになめなければならないのよ」という言葉からきたらしい。古典をはじめ一冊の本も同じでは…ということ。(そんなことしていたら塩に埋もれるか塩漬けになってしまう~。)

原語で読むことの楽しみって何なのだろう?よくわからない。著者曰く、

「学生のころ薬でも飲むように翻訳で読んだ 感動もなかった『アエネイス』を、一語一語、辞書をひきながらラテン語で読めるようになって、たとえばこの詩人しか使わないといわれる形容詞や副詞や修辞法が、一行をすっくと立ちあがらせているのを理解したときの感動は、絶対に忘れられない。」

その人だけ の言葉の使い方が、「一行を立ち上がらせている」・・・とてもよくわかる気がする。

映画監督フェリーニについての文で。
<イタリア人がなによりも大切にする、メラヴィリア、自分にはとてもできない、とてもなれない、ある意味では常軌を逸した、目をみはらせるようなできごとやものごとや人たちへの、驚嘆と尊敬の交錯する精神が深く根をはっている。・・・・・・この人は、ナチズムやファシズムの犯した罪の醜悪を、人間をぜんたいとして見ることで償ってくれたように思えてならない。

「罪の醜悪を、人間をぜんたいとして見ることで償ってくれた」、という受け取りかたがとても新鮮だった。

ペソアという詩人の話も出てくる。ヨーロッパで評価の高まっている人で、分身のように三つの名前で詩を書いたらしい。紹介文の中で、「ふたつの異なった言語、国語を持つことは、ひとつの解放であるにせよ、重荷になることもあるのではないか。(中略)・・・究極の自己完成とは、私たちの内部にある異なった可能性のすべてを忍耐深く伸ばしてやる複雑な作業なのだ。」

各本の紹介がエッセイのようにもなっていて、著者がふだんどのようなことを感じているか、読書しているのかわかる。柔らかな感性の人だなと思った。


*『生きるなんて』 丸山健二

作品を読んだことはないものの、硬派中の硬派で日本男児!という印象が強い。庭作り(ガーデニングじゃないのだろうな)にも精を出しているらしい。小説より庭の本のほうを読んでみたい。 この本は題名の通り、<生きるなんて、不安なんて、学校なんて、、、、>と項目ごとに、常識とか世間の思惑などをばっさばっさ切り倒し、脆弱な若者(大人も)を力強く啓蒙している。はじめはあまりの強硬意見に反発を覚えながらも、悔しいけれど意見の92%くらいは、まぁ本当かなと思える。

<何らかの形で自立へと直結しているようなこと、それが目的なのです。
それはあくまで自発的なものでなければなりません。> (「時間なんて」)

天邪鬼の人にはすんなり受け入れられないかなぁと思いつつ、数多くの「どう生きるか」式の本に比べたら、こちらをじっくり読み込んだ方が背骨がシャキッとしそう。(文体が合う人にとっては…)  


本の窓 15

<本 15>




104. 『偶然性と運命』  木田元  2001年 岩波新書

ドストエフスキーが最後に出ているという話を聞いて買ってあった本の、再読です。 著者はハイデガーの研究者で、ハイデガー入門書のようにもなっています。後半は難しい哲学用語も出てくるのですが(読み飛ばしました・・)、前半はハイデガーの<世界内存在>や時間についての考察を易しく説明してあり、何とか私でも少しだけ理解できました。

著者は、偶然性や運命というものをどう捉えればいいか、過去の哲学者達の考えを紹介しています。それらが あるという哲学者、無いという哲学者、それぞれに。一生懸命考えすぎると非科学的になり、哲学でも真っ当には扱えない話題だと思ってるみたいです。とても奇異で不思議な、ただの偶然とは思えない偶然の出来事を、起きたことの不思議さだけに注目するのではなく、出来事をきっかけに、自分の過去を捉え直し整理し直し、現在の自分も見つめ直して未来を作っていく――という感じで説明しているのではと思います。 

誰しも生きている間には驚きを伴うような”人との再会とか出逢い、偶然のできごと”を何回かは体験すると思います。それをただの偶然と思うか、物凄く運命的な何かを感じるか…。私が本から読んだのは、一般に言われる<運命>より少し違った、人がそこに思わず何かの意味づけをしたくなるような、強さをもった出来事だったり出逢いを指すのではないか、という点です。(上手くいえませんが。。)

ハイデガーの時間や世界内存在については難解らしく、筆者がかなり噛み砕いて説明してくれています。私なりに1000倍くらいに薄めて書くと―

・ 人は現在を生きるとき、過去や未来も生きている。(過去や未来にとらわれると現在も閉じられたものになる?)
・ 死という究極の可能性をおもうことで、今の自分の生を覚悟できる。
・ 世界内存在とは、構造や関係を高次なものにし、それに適応して生きている。時間とは、外に開かれた性格をもち、人間は己を抜け出し世界の構成にあずかる存在で、脱自的で外に出で立つものである。

私が思ったのは、死を想定して現在を意味のあるものにするのは自分自身だ。時間は流れ去るものではなく、過去現在未来は なにかの意味づけをもたらすことで繋がりを産み出し、いくらでも濃い密度のあるものになる、ということかな?と。 とても難しい内容なのですが、人や時間やできごとを、ハイデガーのように捉えることが可能なんだ、とわかるのが読んでいて面白かったです。というか宗教や文学の中にも、結局同じことを真理として言っているものがあるのではないかと思ったり。

本文中の図を捉え直したメモ(図が大幅にずれます;)

可能性        偶然性          必然性 

未来の自分 ←――― いまの自分 ―――→   過去の自分
          (現在の)開き方.          
  ↑                     ↑   
未来を開き可能性へむけ投企.       過去を引受けなおす.



やさしい喩え: 「たとえば懐かしいものを思い出すと、自分に強い情動を引き起こす。それにより真の自分が目覚め、その瞬間が日常的な時間から離れて特別なものとなり、将来へ向けて自分を能動的に企投(きとう・または投企)する。過去すべてが今に向かって進行してきたように思われ、偶然は必然に転じ運命と感じられる。」

人生でのできごとや出逢いは、何につけ自分で望み選んだようでもあり、反対に何かわからないものに従い、そうさせられた結果でしかないとも思え、あるいはその組み合わせなのか・・・・よくわからないままです。

筆者はハイデガーに欠けているのは、”不意に襲いかかる他者との偶然の出逢いが、運命となって実存の構造を根底から組み替える” という観念ではないかと書いています。また自分の人生において、あの人やあの本と逢ったのは、偶然性で片付けられないものを感じる と例をあげています。 (というわけで最後の章に、ドストエフスキー「悪霊」のスタヴローギン&マトリョーシャ、「カラ兄弟」のコーリャ&イリューシャが引用されています。あと筆者は学生時代に麻雀を非常に好み、運 について考えていたのだそうです。) 

*ちょっと印象に残った言葉*

<精神が異常に緊張しているときには、そのための努力をしなくても、求めるものが与えられる。>(クレティウス)

<人間にあって生命全体を揺り動かすような力強いことは、主として内面的なことだ。>




103.『ウェブ人間論』 2006 梅田望夫平野啓一郎

二人の対話によるネット論、人間考察の本です。とてもいろいろな事を考えさせられた対談で面白かった。梅田氏は、リアル世界とネット世界が不可分につながっていて、「ネットに住む」感覚で生活しているという。仕事や趣味でPCやネットを使う時間が増える人ほど、私的生活でもネット世界とのつながり、関わりは増えていくのだろうなと思う。(自分もいつのまにか買い物をしていたり、いろんなサイトに登録していて、多過ぎ!?と反省。。。)

~ざっと読んでメモ書きした中から要約など~
(記憶違いの内容もあるかと思います、ご容赦下さい。)

*誰でも情報を検索できる現代では、「多くの知識を知っているだけ」では価値は薄くなる。
ネット世界では<検索>が中心になる(=Googleの世界観)といえるが、本当にそうかどうか。多くの中から選ぶにはそういえるが、検索対象に入らないものにとっては、NOではないか。
 検索は、「世界の結び目を自動生成する機械」だ。情報を求めたい、勉強したい、時間がある人にとっては、検索エンジンの有用性は大きい。言語の壁がなくなるー各言語の中の差異がなくなる? 人そのものも変容するのでは?
(平野)しかし友人などの人間関係の元になってるのは、有用性ではないと思う。

*(梅田)自分はブログを運営して成長があった。書いたことに反応してくれる人がいて、さらに思考が深まった。 ネット活動の意味は、個々人の承認(されたという)感動では。ネット世界で面白い方向を感じ取れると、新しい技術も生まれる・・・これの繰り返しが生じている。

*昔の知的交流だったものが、より広範囲で行われようになった。 <リンクされた脳> → でも知の囲いこみをすると、経済格差にもなる?
(平野):悪いマイナスのことを書いた独り言は、映画「サトラレ」の世界を見ているよう。他者とのコミュニケーションの中での言動が、その人を決める。他者を排しては実在しないと同じでは。
(梅田):島宇宙化しても、趣味で深まっていく創造の喜びを追求できるのでは。
(平野):ネットのみで閉じている関係は疑問。島宇宙に安住するより、嫌な現実を改善すべき。
梅田:ネットでリアルを補えばいいし、自分に適した場所へ移ればいい。リアルが嫌な人は、ネットに働きかけ、居場所を作るべき。

* 嫌なものは見ない、負の部分をやり過ごす、というリテラシーが大事だし、それは環境適応の一つで、生存本能だともいえる。 問題は子どもにとってイジメのツールとなる危険があること。

(感想)
梅田氏はネットをポジティブに評価しているようで、平野氏が少し慎重に疑問視しているのと対照的に感じた。けれどもネットに期待したり、関わりを持とうとしている部分の広さ、深さというのは、本当はどちらがどうなのか、すぐには決められないのかもしれないとも思った。
人にはいろんなネット対応の仕方があると思うし、個性が表れるとこかなと思う。
梅田氏が積極的に「ネットを使いこなす」ことを提案しているのは、ほんとにそうだなぁと思った。けれど、現実が嫌な人がネットに入っても、やはりその世界の嫌な面を見てどこにも居場所がなくなる場合もあるだろうし、(その他たくさんの場合も…)平野氏が言うように現実の方をなんとかしなきゃ、という意見も大事かと思った。

ネットが人間を変える―というのは、どういうことなんだろうとよく思う。 たとえば、「菊花の契り」という雨月物語がある。恩義を感じた人にどうしても約束の日に会いに行けなくなり、せめて死んで亡霊になって会いに行くという話で、一度聞くと忘れられない。昔は会うという行為、伝える行為そのものが困難で、恩義を何より重視していた。今だとどうなるか・・・メールで「申し訳ないですけど約束ダメになりました」とドタキャンと平謝りして、またいつか会える日を待つとか。(ちょっと作品の意味は違うかもしれない。)

現実世界でその人が築く人間関係は、ネットでも同じように表れるのじゃないかなと思う。他の人はどう思っているんだろう。。 ネットでは負の部分が特に大きく話題になることもあって気になる。でも書かれているように「やり過ごす」という態度もリテラシーとして重要だなと思った。見過ごす、無視する、というのとはまた別の意味の。(これは子どもや年少者には難しいのでは。) 平野氏は最近出した『決壊』の中でここで取り上げたような問題を扱っているらしいので、いつか読んでみたい。 




102. 『ウェブ炎上』 2007 荻上チキ

ウェブ論を多く目にするようになり、2冊読んでみました。やっている人にとって、ネット上のいろいろな現象は人ごとではないと思います。知人や友人はネットをしている人が少なく、ネットの話はできなかったりします。現実にはネット使用者(ほぼ愛好者)とそうでない人ははっきりわかれていて、使用者は増えつつあるけれど、ネット世界でどんなことが起きているか、詳しく知らない人もいるなぁと思いながら読みました。(まぁ新聞やTVの話題にあがることも多いので、ネット関係の言葉や流行っているものは多くの人は知ってますね。)

「炎上」という言葉は去年初めて聞き、実際の現場には行ったことがなくて、その辺の情報には疎いです。炎上跡?を後で知って、そんな事があったんだ…と読んで思ったことはありました。 本では幾つかの実例を上げながら述べていて、わかりやすかったです。
ブログや巨大掲示板にもの凄い勢いで非難攻撃、擁護などのレスやトラバがつき、収拾つかなくなる…といったことをまとめて、<サイバーカスケード>(一箇所に滝のように流れ込む現象)と呼び、その原因や、背景にあるものを検証しています。

印象に残った意見など――( )は感想です。

* サイバーカスケードはオフラインよりオンラインで生じやすい。それは多くのコストが不要で安易になんでもできるため。 カスケードの流れ方は、議論の分かりやすさ、立ち位置、争点などにより、その時どきで異なる。

  (実際に対面していると、たぶんとても言いにくかったり言えないことが、書き込み状態ではスラスラ抵抗なく書けたりすると自分でも思ったことあり。言葉がきつかったり暴力的だったりする人も、実際の人となりは意外にそれほどでもないのかもと思うし、そのまま人格が出てる人もいるのだろう。隠している本音が出たり、憂さばらししてるのかなと感じる時もある。)

* ウェブ上では自分と同じ考え、気分、思想を持つ者とたやすくつながることが可能 ―→ 同調意識を高められる・・・エコーチェンバーが生じる―→他者を排除する可能性も。

  (共感できる人と仲良くしたいのは現実と同じで、ネットでは本当にそれがやりやすいし探しやすい。それは嬉しいことである反面、違う意見や考えの人に対しては、自分もあっさり避けているのかもしれない…と思う。)

* ネット上は自分に都合のいい情報のみ収集するので、確証バイアスが作りやすい。<デイリーミー>という自分だけのための情報を抱え込む。それはセレクティングメモリという取捨選択された記憶で、使いやすく自分仕様な反面、他の情報が抜け落ちていく。

   (情報は膨大にあるので、多くの中から選ぶにはどうしても自分仕様、役立ち情報を選ぶようになる。 といいつつ、検索している最中で全然目的ではなかった面白そうな文を見つけては読みふけって、自分なにやってんだろうとよく思う;;)

* ネットでは道徳や監視の過剰が起きる。討論を豊かにするネット空間を。歪みに対する適切な対応を。(・・歪みの意味を忘れた;) 自分とは異なる意見にも耳を傾けようとすること。―→中心を作らず、全てをつなぐようなハブを作るといいのでは、という提案。(←ここが主張と思われます)

   (違う意見には耳を傾けるより聞き流したい、、、笑。でも異論反論に対しての態度や答え方で、その人の真価がわかる、ような気がする。「ハブ」という言葉は初めて聞いてまだよくわからない。たとえば「ハブサイト」とは、多くの同じテーマのサイト、特にオーソリティーサイトにリンクしているサイトらしい。中心はなく、全てをつなぐ網の目の結束点のようなものだろうか。体の組織の一部を想像したり。。何ものにも囚われることのない自由な行き来は、使い手の意識に負うところが大きいのでは、なんてことを思う。)

ネット世界では<集団分極化>といって、もともと各人が持っていた性質を強化する傾向がある、というのがとても印象深かったです。
今までネット社会の問題点として聞いていたことも多かった。著者が若く、こういった現象に日々接しているためか、臨場感のある文章でまとめていた。炎上やサイバーカスケードをただ良くないものとして捉えるのではなく、事実として受け止め、よりよい方向を探っていこうとしている所に注目できました。




101.『わたしは誰でもない』 ディキンソン 風媒社/『エミリ・ディキンスン詩集』 思潮社

  初めて読んだアメリカの女性詩人(1830~1886)。生前は詩集が出版されることもなく、後半生を孤独に過ごしたらしい。(人との交流は広かったともいう。)解説では、”大胆な自己表白やスタイルの実験が見出される”とある。(スタイルの実験とはなんぞや?) 19世紀の女性にしては、思いきった言葉遣いや表現かなと思う。魂、愛、死、わたし、神…などの言葉が多い。(ほとんどの詩は題名が付けられていない。) 彼女の内面ではいったいどのようなものが渦を巻き、どこからどこへと飛翔していたのだろうかと、詩を読みながら想像していた。内省的で情熱的で、とても好きな詩ばかりだ。
詩も絵も音楽も、創り出された瞬間から誰かを待っている。味わう者がそれを見つけると、言葉や色やメロディーは彼らの中へ入り込み、その人だけの意味を共に探して羽ばたいてゆく。  

 *****

その人は死ぬのではありません――世にあって
お導き下さったその人を 一層お慕いいたしましょう
その人は自分を感動させたものを求めて
世の果てを越えて行かれたのです

 ***** 

この土塊(つちくれ)と その特質は
今こそ認められていようとも
次の世では 是認されまい

この心と その尺度とて
より大いなる視点に立てば
取るに足りない 僻地にみえよう

この世と その人類とて
さらに深く意を注ぎ 綿密微細に検討すれば
極まりきったお芝居だろう

  *****

若死にする者が 早死にとはいえない
機が熟すのに 長年月を要しもすれば
一夜にして成ることもある
身の丈ゆたかな白髪の少年が
八十歳の青年のかたわらで
倒れるのをわたしは知った
死んだのは定めであって 年のせいではなかった

  *****

口にだしていうと  ことばが死ぬと 人はいう
まさにその日から ことばは生きると わたしがいう

****

ひとつの心がこわれるのを止められるなら 
わたしが生きることは無駄ではない
ひとつのいのちのうずきを軽くできるなら
ひとつの痛みを鎮められるなら

弱っている一羽のコマツグミを
もういちど巣に戻してやれるなら
わたしが生きることは無駄ではない




◆ 5周年でちょうど100冊の感想を書きました。多いような少ないような・・。(ドストエフスキー作品を入れると100は超えているみたいです。)今まで訪問下さった方々に、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
 記念の100冊目はぜひヴェイユで、と思っていたのに読めなくて変更です(汗)。感想スタイルや読む本がHP開設当時とほとんど変わってないようです。(これでいいのだろうか・・。) これからもゆったりとした読書と更新速度でやっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。



100. 『イエーツ詩集』  加島祥造訳編  思潮社

アイルランドの詩人。彼の詩や劇は明治前後より数多く日本に紹介されてきたらしい。 本の半分は詩で、あとの半分は評論とエッセイ。(芥川龍之介が訳した詩もあった。) ケルト文学や詩について詳しく知らないまま、ぱらぱら目を通す。やさしく意味がわかるものから、神秘的でよくわからないものも多い。。 詩は直感と想像が必要。読んだ時の心性で違った味わいになる。 

「老いた時への祈り」

ああ、お願いする――どうか ひとが頭だけで書くような詩に
私がおちこまないように、守ってほしい。
流行を越えて残ってゆく詩とは 骨の髄で考えたもの――。 

自分が賢い老人にならないように、誰も誉めそやす老人にならぬように
どうか守ってほしい。
ああ、ひとつの唄のために 阿呆みたいになれない自分など
なんの値打ちがあろう!

お願いだ――いまさら流行の言葉もなくて
ただ率直に祈りをくりかえすが――
どうかこの私を おいぼれて死ぬかもしれんその時も
阿呆で熱狂的な者でいさせてくれ。




99.『個人的な体験』  大江健三郎 新潮文庫

  本の整理をするだけだったのに、たまたま読み始めたら面白くて一気に読んでしまった。大江健三郎の小説を読むのは久しぶりで『人生の親戚』以来かもしれない。

頭にコブを持って生まれた息子に脅威を覚え、息子の死を願う…という暗く重い現実を、熱く濃く妄想いっぱい描いている。 主人公の鳥(バード)の強い恐怖や自己への嫌悪などがきりきりと伝わってくる。カフカの小説のように、不思議に現実感がない所も多く、どうしてかなぁ…と考えていた。火見子という女性も病院の医師達も、映画の中のアンドロイドみたいで、会話がぜんぜん人間らしくなく、機械的でずれている。まるでバードが現実を受け入れられず、悪い夢のように感じていることを表しているように。ところがいつまでも覚めない悪夢の最中にあって、ジョーク言ってる場合ではないのに、時どき滑稽な描写が出ては、笑いを誘われる。

< 看護婦はバードと並んで立つと、いわばこの病院でもっとも健全で美しい赤ん坊の父親にたいして話しかけるとでもいうようにそういった。しかし彼女は微笑していず、好意的な様子でもなかった。そこでバードはこれは特児室でおきまりのクイズなのだと考えた。>

バードの体験はたしかに個人的で、とても特異で絶対に逃れられない非情な現実なのだけれど、大なり小なり、誰にでもいつでも起こりうるものなのではないか。作品はその世界をどう泳ぎ切っていくか―という長い物語で、ラストはあまりにもあっさりしている。 一番描きたかったのはラストももちろんだけれど、溺れそうになりながら泳いでいる、バードの卑怯で薄弱で情けない姿(…アルコール依存症込み)なのじゃないか―って感じる。だからバードが最後に決意したある選択に、小さく驚かされる。彼は赤ん坊のためにそれを決意したというよりも、「ぼく自身のためだ。逃げまわりつづける男であることを止めるためだ」と語る。

<「あなたはいま、まさに袋小路にいるのよ、バード」

「しかし、ぼくの妻に異常児が生まれたのは、単なるアクシデントでぼくらに責任はない。そしてぼくが赤ん坊をただちにひねりつぶしてしまうほどタフな悪漢でもなければ、どのように致命的な赤ん坊であれ、医者たちを総動員し、細心の注意をはらってなんとか生きのびさせよう、とするほどタフな善人でもないとすれば、ぼくはかれを大学病院にあずけておいて、自然な衰弱死を選ばせるほかなにもできはしないよ」 >

何度も出てくる「アフリカ行き」の夢…希望は、なぜアフリカかという理由がはっきりわからず、現実から逃れる先をその場所にしているだけのようにも思える。 火見子の言う「多次元の宇宙」の話。現実の世界とは別に、ある瞬間ごとに別の道が開けて、いろんな宇宙が存在するという夢想。その分身の想像にバードも乗りかけるのだけれど、すぐに現実に引き戻され悄然となり、自分の行為の影響と、今置かれた状態を考えて堂々巡りをし、ラスコーリニコフ状態になるのだった。

< 「もし、赤ちゃんがなかなか衰弱死しなくて、この状態が百日も続いたら、あなたは発狂するわ、バード。」

バードは咎めるように険しく火見子を見つめた。火見子の言葉のコトダマが 砂糖水と少量のミルクだけあたえられている赤ん坊にホーレン草を食べたポパイさながらのエネルギーをあたえるのではないか、とでもいうように。ああ、百日!二千四百時間!>

火見子と主人公の会話や一緒にいる時間の描写は、妻がほとんど登場しないのに比べてとても多く、火見子の存在がバードに大きく影響していて、バードの分身ではないかと思えてくるほど。火見子はバードをそそのかし催眠をかけるようでもあり、慰め役になるようでもあり、バードの内心の声を代弁しているようでもあり、時にはバードを揺さぶり、正悪をわからなくさせたりする。聖邪を合わせ持っていて予言力のある、とても不思議な女性だ。(アンドロイドのようなのに…?) 火見子は夫が自殺した過去を持ち、亡き彼を現実世界でいつも気にかけていると言う。彼女もまた重荷を背負って道を歩いていて、バードのよき同伴者になっているのではないか。(本の裏表紙にはバードの背徳の相手のように載ってるけど、そうじゃないなぁと思う。)

< 「そうよ、バード。あなたは、今度のことがはじまってから、まだ誰にも慰められていなかったのじゃない?それはよくないわ、バード。 こういう時、いちどは過度なくらいに慰められておかないと 勇猛心をふるいおこして混沌から脱け出さねばならない時に、ぬけがらになってしまっているわ」 >

オーケンはやっぱり面白いかもしれない。もうちょっと初期の作品を読んでみなきゃ。 




98.『もっと知りたい上村松園』  加藤類子 東京美術 2007年

一人の画家ごとの美術書が好きで何冊も持っています。日本画家のはあまり購入したことがありません。芸大の展覧会で「序の舞」を見てから、好きになった画家です。

控えめで楚々としているのに、きりっとした所も垣間見える女性の表情。優しげな絵もあれば、どこか憂いも帯びながら遠くを見つめる女たちもいる。描かれる女性は日本の母、遊女、花嫁、謡曲の中の主人公、といろいろ。市井の人たちの何気ない日常風景だったり、人生の一こまだったり。

松園は十代の初めに画家を志し、その頃からとても勉強家で、写生帳に女性の髪形や着物、しぐさ、風俗などのあらゆるものを描き続け、昔の絵を探しては日がな模写していたらしい。彼女の美しい画だけでなく、執念ともいえる姿勢と生き方に惹かれる。

「焔(ほのお)」という作品は以前目にして、松園の作品だと知らないまま、印象に残っていた。その絵からは強い念、自らを省みる複雑な気持ちを感じた。 裏表紙に配された「待月」は、黒っぽい着物に団扇を持つ後姿の女性を描いている。中央には柱が一本描かれていて、姿は分断されているのに目に焼きつき、空間の使い方の意外性に面白みを感じる。 女性の着物だけを眺めていても、色合い、柄、着物と帯の組み合わせ方など綺麗でいいなと感じる。 松園の生涯と絵の変化を章ごとに解説して、入門書として良いと思う。母や絵について語ったエピソードも載っていた。 




97.『生命の奇跡~ DNAから私へ』  柳澤桂子 1997年  PHP新書

急に科学系の本を読みたくなります。この本は生物のおさらい(+追加知識も豊富)で、専門用語もかなり出てきます。前半は生命やヒトの生まれる過程を詳しく辿る章で、少し難しい説明が多く退屈なところも。 後半は「心、私、言葉が生まれる」 と、次第に人格的なものがいかに生まれるのかが語られ、「死」「芸術、科学」「祈り」 と心の深淵へと観想が進み、興味深く読み応えがあるようになりました。

 ふだん生活していると、自分のことはよくわかってる、とかどうにでもできる、と思っているけれど、身体や細胞単位は私の心とはおかまいなしに毎日複雑な活動を整然と行い、修復し、生成消滅を繰り返しながら、最終的には死に向かっている。 …と聞くと、今さらながらに誰に感謝していいのか、感謝しなくてもいいのか考え込んでしまいます。受精した時から細胞はすぐさま分裂を始め、どんどん器官の元になり、誰も命令していないのに身体の構造が出来上がってゆく・・・DNAのおかげとはいえ、静かにそのようすを想像してみると、何の目的でそのような生命の営みが36億年も前から起きているのか、誰がそんな風に造ったの?と驚きがふくらんでいきます。人間の意志が及ばないところで生じている、奇異で驚異的でSF小説どころじゃない現象です。

    ++++++++

太古の細菌や水がヒトの体に生き続けていること。
人格は神経伝達物質と受容体の回路でつくられる説。
人間は生まれたときから外界、とくにおなじ仲間の刺激に強く反応すること。
自分をコントロールできない大脳辺縁系の「自分」と、冷静で理性的であろうとする大脳新皮質の「自分」。
私たちは一次元でものごとを考え、断片を直線的に並べて文章にし、世界に一貫性をもたせる。その思考形態の直線性が心理的時間を生みだし、過去や未来、目の前にないものについてまで考える。(言葉や想像力のできていく過程)
ものごとを客観的に把握し、表現するためには言葉のもつイメージから解放されねばならないというバシュラールの説。
言葉は単に記号として処理されるだけでなく、その言葉によって神経回路がいっせいに活性化される性質をもち、その時多くのイメージがあたえられる。
文章や小説に思わず感動したり興奮する時のことを考えてみると、体の中でそういうことが起きていたのかと納得。<言葉は魂のエッセンスだ>という著者に共感できた。
人類は共通の「原初イメージ」を持つこと…絵を観ていろんなイメージが掻き立てられる原因。
脳の中には表現されない認識、心の奥底の多様で無限の思いに満ちた世界、つまり 「内概念」がある。(たぶんプラトンイデア。) たくさんの内概念に連鎖関係があると気づき、美的単位に変化させる方法を発見し、シンボル化できたら芸術になる。多くの神経回路を同時発火させる。

    +++++

心の動きや複雑な思考を脳の機能や神経回路の働きとして説明できるなんて、面白かったし不思議に思えて仕方ない。まだまだ未知の部分はあるらしいし、科学の発達はいろんな危険と隣り合わせだという警鐘も書かれていた。

最後に、人はなぜ祈るのか―という宗教についての考察があった。祈りには心のよりどころを求める気持ちが反映されていて、母親の胸に抱かれ庇護されたいという本能的な欲求があるという。安らいでいる脳はエンドルフィンが分泌されているらしく、またその濃度が低いとさらに放出がうながされ、苦痛を緩和するだけでなく社会的な行動を強化するらしい。
人は物質レベルの欲求を少なくするにつれて、精神的な欲求の充足による歓びを強く感じる。自意識にとらわれることなく相手の立場で見るようになると、視野が広くなり自己中心性が小さくなる。
そのぶん他者への愛が満ちてきて、望ましい形の宗教(神頼みや物欲、階級闘争によるのではない)になる。
私たちの心のなかには高次の宗教心がそなえられているし、それを好ましいと思う感性を持つ。(個人々が宗教を信じるかどうかは別にして。)
人類の意識はその方向に向けて進化しているだろう、と著者は考えて結んでいる。

 感動する気持ちや、こころというものの源泉を知りたいと思って読んだ本だった。脳医学や化学分野で説明されてしまうことでも、やはりとても神秘的に感じられる。
このごろ思うのは、言葉は(書き言葉も話し言葉も)、発した人受け取った人双方が計り知れない複雑な反応を、人の内面に呼び起こすのではないかということ。 著者も情報化社会の現代について、多くの情報に接することで、人間の内面のあり方に大きな変化が起きるだろうと言う。

 人間の将来にもし悲観的で困難な状態が待っているとしても、なぜ心や脳が多様性に満ち複雑な動きをし、進化したり深まっていたり、豊かになっているのか。(あるいは後退しているのかもしれないけれど…?) こころの発生や宗教心についての説明は、著者以外の違った説があるのかもしれないし、もっと科学系の本を読みたい。
生命の長いスパンで眺めたときの<なぜ>という問いは私の中で残っているけれど、自分の意識を離れたところでの体の不思議さを、もっと思わなきゃという気持ちになれた。 




96.「文学 2007」  日本文藝家協会  講談社

<2006年刊行の文芸誌発表作品から精選した、21篇の小説集。 「今」を代表する、21人の作家が描いた珠玉の短篇。読み、比べ、浸ればわかる現代文学は、かくも多彩で面白い! >(書籍紹介より)

これだけたくさんの流行作家が読めるなんて、お得!?と手に取りました。知っている人もいれば初めての作家もいて、それぞれ味わいがありました。短編集だったので物足りなさも感じました。本が手元にないので記憶を辿っての感想です。(空欄は読まなかったり、内容を忘れた作品)

   ++++++++++++++++++++

角田光代「マザコン」・・・題名に引かれて読み始めたのですが、一組の夫婦の感情や生活が、とてもよく分かると思えるお話でした。夫が妻に、まるで母親に話すようになんでも説明したがり、こうだったんだよぉと語りかける様子が似ている のがほほえましかった。

飯田章「浮寝」 ・・・・(忘れました)

川上弘美「天にまします吾らが父ヨ、世界人類ガ、幸福デ、ありますヨウニ」・・・幾つか読んだことのある作家さん。前に読んだ作品とは違った、かなり現代ふうな口調で書かれていて、冒険してみたのかなと感じた。話の内容は、余り印象に残ってないです。

小池真理子「捨てる」 ・・・引越しと同時に棄てていくものへの想いをさらっと描いている。都会の男女を描くのが上手いと思う。

福永信「寸劇・明日へのシナリオ」

伊井直行「ヌード・マン・ウォーキング」 ・・・状況設定が題名そのまま。 ずんずん読めたのですが、こういう行為をする人の気持ち(の一つ)が図らずもよくわかったというか。誰でもこうなるかもね~フフ。という作家の笑いが聞こえそうな。というか、切迫したものが描かれていそうで、そうでもないような、実際にはもっと狂気があるんじゃない?というか全く何も考えてない本能欲望だけじゃないの?と思えたお話でした。

星野智幸「ててなし子クラブ」 ・・・父親がいない子ども同士で、空想の家族ごっこをする話。映画「ファイトクラブ」を思い出した。 短編のためか子どもの気持ちが浅かったのではと感じた。

宮崎誉子ミルフィーユ」・・・この本の中で一番面白いと思った。どんな作家なのか全然知らないですが、中学生の学校生活を、映画で見るような大人の駆け引きのごとく描いている。主人公男子はいじられキャラなのに、いじる女子に突然逆襲したりする。その関係が一方的ではなく小気味よい。可笑しくて切なくて、みんながしたたかに生きようとしているのに傷つきやすくて。。十代の子達のハズレかた というか、スピード感のある珍妙な会話が楽しめた。

蜂飼耳「崖のにおい」 ・・・

樋口直哉「夜を泳ぎきる」 ・・・トイレに行きたいのに、どこのトイレもふさがっている困った状態な男の話。おかしいけれどリアルで人ごとじゃない。

茅野裕城子「ペチカ燃えろよ」

吉村昭山茶花」 ・・・たぶん初めて読んだ作家。余命少ない夫から殺害を頼まれて殺してしまった妻が、刑期を終えて出所した。彼女を保護観察する主人公が綴った記録。静かに人間を観る目が鋭く、淡々と女性の様子を描いているのですが、最後に彼女がもしかしたら自分に都合のよいように、犯行を行ったのではないか?という疑いを感じた。そんな風に読み取れる書き方が怖かった。

小池昌代「タタド」・・・名前だけ知っていた作家さん。心理描写や移ろいゆく人の関係が上手く描かれてたけど、特に感動はなしです。

青山真治「夜警」 ・・・「ユリイカ」の映画監督さん?小説も上手いんだなぁと。短編なのでやはり物足りない。

小川洋子「ひよこトラック」 ・・・静かな緊張感があるのに、ラストはほっとする話だった。

坂上弘薄暮

平野啓一郎「モノクロウムの街と四人の女」 ・・・ゲームの話かと想像しました。

竹西寛子五十鈴川の鴨」 ・・・初めて読んだ作家さん。そこはかとなく原爆の話が出るのですが、強い印象はなかったです。

町田康「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」 ・・・2,3冊読んだ作家さん。現実離れしている話なのに、妙に現実感を覚えて面白かった。

川上未映子「感じる専門家 採用試験」・・・ブログの方が面白い。。




95.「あなたは世界だ」他数冊  J・クリシュナムルティ/ 1998/ 星雲社

 精神世界に興味を持つようになると、クリシュナムルティ(1895~1986)の名前をしばしば目にします。どのような人だったのだろうと調べてみたら、数多く著書があって、とても共感できる人だと感じました。(無数といえる多くの本の中から、私は結局こういう傾向のものばかり選んでしまい心動かされるのだなと思います。)

  クリシュナムルティ(以下 K)は若い頃才能を見込まれて神智学の教団の指導者になったそうなのですが、真理はあらゆる権威や宗教と無関係にあるものだ、という考えから集団を解散し、生涯を世界各地での対話や講演、著作に尽くした人です。

 本の一文一文に深い興味を覚え、頷いてしまうのですが、特にプラトンと共通する内容が多く目に付きました。また、たたみかけるように問いかけて、相手の答えを引き出し考えさせる平易でわかりやすい語り口はソクラテスそっくり。また多くの意見はアランと似ているとも感じた。たとえば「恐怖とは思考のなせるわざだ」という。アランはかなり時間をかけて考えつつ慎重に読まされるので少し難しく感じのに対し、Kのは講話を文に直したせいもあって、考えさせられるのは同じながらそのまま言葉が耳から入る。
全体に神秘的な雰囲気が表れているのは、シュタイナーを思い出す。(Kは比較を戒めているのだけれど、比較してしまった。) 自律する生き方にはローマの賢帝M・アウレリウスと同様の心持ちを感じる。
なんといえばいいのかな、哲学や思想の最も奥にあるもの真なるもの、人間が長い間かかって得たものは、結局同じなんじゃないかということが、おぼろげながら理解できてきた。

◆印象に残った点

  <人類全体が、私たちひとりひとりのなか、意識と、より深い層である無意識双方のなかにあるのです。人というのは何千という年月の結果です。>

 こういった文の意味がすぐに判るようになった。一人のニンゲンは(わたしは)、そこにただ<個立>しているのではなく、その人の中に、自身の思い出だけでなく、先人や祖先や、今生きている未知の人々の意識とか考えたこととかが、幾つも幾層にも重なり合い、まじり合って入っているということ。だからこそ、Kは   <自己認識が非常に重要なのです。専門家の目を通して見ることはできません。直接自分自身をみなければならないのです。>と言う。

この数年間で、もしかして私の認識力は人生の中で飛躍的に伸びたのかもしれない、などと思う。(あくまで自分の中でだけれど。)一つの事柄や人物が、他のものに、必然的にともいえるように繋がっていき、面白いように目の前が開けてきている。というか気づく力が深まっているみたい? もちろん難しい理論や学説は今でもわからないままだけど、何が最も重要かという事柄は、もう実感としてわかったのだろうと思う。

<すべてのことを疑いなさい。とりわけ自分が最も感服し尊敬しているようなものをも疑うように>と。

 何も信じないように、という意味ではない。自分がほんとうに心から信じ、敬愛しているものをまず疑ってみること。好きなものや、いいと思えるものを、批判を目的に、中途半端に疑ったり否定するのではなさそう。
かといって、ニヒリズムへいくことを意味しているのではないらしい。
自分がもっとも信じ敬服できるものを疑えというのは、かなり難しい。自分を否定するようで、自分でなくなってしまう経験に近いことではと思う。好きな作家を疑うことを考えてみても、ドストエフスキーヴェイユプラトン、これを書いたKさえも疑えっていうことですよね?…苦しい(笑)
ひたすら相対化すること? 社会や他人の評価などをいっさい取り払い、一対一で彼らと向き合うことかな。。最後に残った、わたしがこれだけは信じられそうだと思ったものが、それらの核なんだろうか。
疑ったのちに、絶対的に信じられるものが静かに待っている。それは何か?というと答えはこの本では書かれていない。自分で見つけるしかないものだとKは言う。

 このまえ禅について鈴木大拙を読んだのと合わせて考えると、自分が執着しているものは、ほんものじゃないということかな。執着しているものではなく、”こころから信じる(愛する?)対象”を前にすると、見上げながら憧れながら、いつまでも求め、慈しむものという気がする。


<注意深く、思考のあらゆる動きに気づき、自分の無意識を知ることでわかる。>

本のほとんどは抽象的で、答えがないように思える。でも所々に答えのヒントが書かれている。座禅についても、ただ静かに鈍いままで時間を過ごすやり方をとるなら、精神を鈍感にさせるだけだと言う。(座禅そのものを批判しているのではない。) 大切なのは明晰さ、緻密さ、鋭敏さを持って瞑想したり、考えることだという。

<真実を理解するのは、狡猾でねじ曲がった精神ではなく、なんの歪曲もなく見ることのできる、無垢で傷つきやすい精神です>

 という。シュタイナーが物事を見る際、まず「どんな批判も感想も持たず、ただ対象をあるがままに見ること」を強調していたのと似ている。先入観をもたないでみることの意味とか得られるものについては、次第に私なりに分かってきた。(つもり)

 何をすればいいのかというと、一つは <絶えず学ぶこと。規律のある精神をもつこと。それは感情的だったり情緒的な精神ではない。見出すことだ> という。
たぶんこれは無慈悲だったり、同情のないままに、という意味ではないだろう。一時的な感情や気分に流されて本質を見失わないように、という意味かな。

『饗宴』を読んでいて<徳>とは何かがわからなかった。Kはこう言う。

<人は徳に思いがけず出会うのです。それは愛や謙虚さを培うことができないように、培うことはできません。 人は なにが徳ではないかを知るとき それに出会うのです。>

 Kは私たち人間の本質は暴力的で無秩序だという。徳だけでなく、内面的な自由とはどういうものかとも問う。 どんな権威や集団の考え方にも頼ることなく、自分自身の絶え間ない学びと、気づきの積み重ねによって得られるのだと。

他にもいろいろ書いてあり、自己啓発書のように見えもするけれど、表面的な変革を促しているのではないのだと思う。非現実的な事柄を述べているのでもないし、神秘的な何かを求めるよう薦めているのでもない。

 毎日の生活の中で、自分ができることから、見つけられるものからやっていきなさい。注意深く忍耐はいるものの、難しいことではないのだと。 クリシュナムルティは、これをしなさいといった、はっきりした答えを書いていないところがいいんじゃないかな?

 一つひとつの言葉を噛みしめるように読むと、見えない栄養がゆきわたってくるようだ。私は情緒的で感傷的な面が多いので、アランと同様、この本からは思考のさいの冷静さ、粘り強い精神とは何かを教えてもらったように思う。実行はほんとに難しいのだけれども、目指すところを。 

本の窓 14





      ++ 本 14 +



『ある文明の苦悶』より~ 

「オク語文明の霊感は何にあるか?」「エレクトラーの嘆きとオレステースの認知」「神の降臨」/「神と人間との認知」などの感想の続き

************

 『ある文明の苦悩』は後期評論集で、ヴェーユの思想と哲学がさまざまな事柄を題材にして書かれています。 この中のギリシア悲劇プラトンの『饗宴』については、彼女は相当詳しく読み込んでいるようで、同じ本を読んだことに感激を覚えました。 ギリシア神話プラトンからのたくさんの引用と解釈についての文は、いくつか私も昨年読んでいたため、少しわかるものでした。
それでも、どの部分を取っても彼女独特の解釈というか、キリスト教的な理解(と言ってしまっていいのかは断定できないと思います)が多く、たとえば私がこれはこういう意味だなと受け取ったプラトンやいろいろな物事が、彼女の説明では全く逆さまの意味に取られていて、え~なぜそうなるの?というのが多くみられました。

たとえばアリストパネスの有名な人間の元となった三つの種族について、ヴェイユは 「一人の人間はもう一人の勘合符であるため、自然と他の半分を求める。この求めることが<愛>であり、よって愛とは罪の結果生じる激しい不満足感である。愛はそれゆえまさしく、われわれの最初に犯した悪を治療する医師である。 愛は誕生から死まで、飢餓のようにやむにやまれぬものとして、われわれの内部にあり、それを如何に導くかを知ればよいのである」(要約)

といいます。愛を「罪の結果生じる激しい不満足感」とするのが独特なのではと思います。 罪は原罪を指すようで、「饗宴」での、原初における至福とゼウスが与えた罰とを、バベルの塔やアダム&イブに重ねているのです。ヴェイユのこういった解釈は、キリスト教信仰に近づけて読むと、とてもわかりやすいのかもしれません。私は(キリスト教に)親近感を持っていても信仰はもたないので、ヴェイユの立ち位置を知ってしまうと、分かりやすい反面キリスト教という括りで彼女の解釈も捉えてしまいそうです。 けれども彼女の解釈はそうした宗教的なものだけに留まらないのではないか、と私は受け取っています。

ヴェイユは続けて

<われわれの不幸であるこの二元性とは、愛するものと愛されるもの、認識するものと認識されるもの、行為の対象と行為者が、おのおの別のものであらざるをえないという分裂であり、これは主体と客体の分離である>

といいます。ここで、鈴木大拙の禅の話が思い浮かびました。彼によると「世界を二元性で捉えるような西洋的な考え方が、どちらが正義かという争いを生んでおるのだ。東洋的な考え方では、認識するものされるもの、どちらも一つであり、分けることはできんよ。東洋の思想こそが争いを避けられるのだ」と言います。
これってもしかしてヴェイユのような考え方への批判?…

けれどもヴェイユはこれについて次のように考えています。

「(主体と客体の分離の)統一とは、主体と客体がそこで唯一、同一のものになる状態、おのれみずからおのれを認識し、おのれみずからおのれを愛するという状態である。しかしこうした状態にあるのは神のみであり、われわれは神の愛に恵まれて神に似ることによってしか、こういた状態に達することはできない。

・・・と禅に近い考え方を出して、意見を述べています。 ヴェイユ老荘思想を知っていたらしいので、上のは禅や老荘思想への反論と考えていいのでしょうか(自信なし...。こんな所で鈴木大拙ヴェイユを対決させてしまっていいのやら。)
 彼女は神と人間とを、別の存在として考えたかったのだろうな。ここが世界と人とを合一させて完成体とか悟りとみなす禅の考え方との、一番の違いだろうか。(←すみません、意味違っているかも。)

  +  +  +

ヴェイユが持っていた類まれな能力とは、自分を低く低く、どこまでも落としていく力だったと思います。
何のために? ・・・彼女は、そうせざるを得なかったし、そうしなくては生きていけなかった。
聖なるもの、善へと近付くために。

読んでの特徴は、聖書との比較や照らし合わせが多いこと。『饗宴』の神をどういうふうに考えているのか、どの程度キリスト教の神と重ね合わせているのか、そこが一番難しくもあり、重要かなと思いながら読みました。日本に生きている私にとって、プラトンの神もヴェイユの神も、なかなか理解しにくいです。 もしかしたら知らないまま仏教風に、国風に受け取ってしまうんだろうなと思いつつ、それでも何か普遍的なものが書かれているはずだと思いながら。

ヴェイユの考える神は、時によって善 とか絶対的なもの とか美 などと表現されるので、掴みにくいです。しかし形なきもの、言葉にしにくいものが繰り返し表現されていて、ヴェイユの問題意識のようなものを次第に感じ取れるようになります。

たとえば最も虐げられた人間のすがたや心とはどのようなものか。

人間の最も奥深いねがいとは何か。

世界の最も底辺にいると思われる人間に近付くにはどうすればよいのか。それは可能なのかどうか。


  +  +  +

 印象的なのは、神の火を盗んで人間に与えた結果、ハゲタカに内臓を食われ続ける”プロメーテウス”に、いく度も触れていた点です。 ヴェイユは、報われるどころか神の罰を受けてしまったプロメテウスに深く共感し、どこか同一化したいと強く願っていたふうなのですね。(『救われたヴェネチア』のジャフィエも同じ状況だったと思えます。) 一つの自己犠牲を表しているのかとも思えるのですが、もっと深い意味合いとか人間の願い、姿 が込められた話のようでもあり、彼女はそれを読み取っていたのかもしれません。

前期評論集や他の本を読むと、彼女の思想の歴史も掴めて、もっと面白いのではと思います。まだまだ入り口です; (8/16)

* 再読したい本  『工場日記』『根を持つこと』『重力と恩寵




シモーヌ・ヴェーユ著作集〈3〉重力と恩寵―救われたヴェネチア
「シモーヌ・ヴェイユ」 田辺保 講談社現代新書

* 劇の感想を先に・・

96.『シモーヌ・ヴェイユ詩集/救われたヴェネチア』 1992年 青土社

 詩集は以前ネットで紹介されていたので知っていて、その中の未完の戯曲「救われたヴェネチア」は初めて読みました。ところどころメモ書が入っているので、台詞の意味や人物の気持ちがわかりやすかった。前半は普通の劇だったが、後半から迫真の文章が次々と出てきて(特に主人公のジャフィエの長いせりふ)、一気に最後まで読んだ。面白かった。ジャフィエの栄光と力の位置から、一瞬にして屈辱と孤独と苦悩への転落は鮮やかな書き方だと思った。
 少し複雑で、ギリシア悲劇のようにも読める。彼女がスペイン内戦に参加して挫折を経験し、絶望と心身の苦悩の中で書いたもの。最初から終わりまでほんとうに悲劇なのだけれど、題名どおり救われたヴェネチアの明るさが読後に残り、すがすがしい印象もあった。

<あらすじ> 
 主人公の海軍大佐ジャフィエは、上司と友人からヴェネチアを一晩のうちに略奪し、イスパニア(スペイン)の支配下に置く陰謀をもちかけられる。陰謀計画の指導者になる予定だった彼は、ヴェネチアへの憐れみから思い留まり、仲間を助命して欲しいとの誓約と引き換えにヴェネチアに計画を知らせる。しかしヴェネチア上層部は約束を破り、ジャフィエだけ残して仲間と兵士を殺害する。その後のジャフィエの苦しみが劇のクライマックスとなる。

**********

 ”ジャフィエの憐れみ”は、通常のものではなく、「何かしら異常な善」「超自然的な愛」(ヴェイユ)として描かれている。超自然的な○○というのは、彼女の思想を知る上でキーワードなのだけど、なかなか理解しにくい。これがわかってくると何となくヴェイユに近付いたかなと思える。

 仲間、特にかけがえのない友人や自国を裏切ることになる行為。けれども陰謀は絶対的な権力と暴力を表わすものとしてである。(ここでの悪は、”必要なもの”として上司から語られる。)
ジャフィエの憐れみは、美しいもの根があるものへの、自分にできうる最大限の努めやこころからの愛として描かれている。
 これらのほんとうの違いがわかっていなければ、表面だけの彼の裏切りを責めることになるかもしれない。上司が語る陰謀後の惨状と自国支配の光景は、息詰まるような迫力がある。絶対的な悪とか暴力がこの世にあって、誰もそれに抵抗できないこと、人の無力さなどがはっきりと描かれており、ヴェイユのかけ離れた想像力を感じる。 善や美について追求しほんとうに理解できると、対極にあるものについても明確に定義できるのだなと思う。

 ジャフィエの受難とは、愛と憐れみの行為にもかかわらず、仲間たちは殺され真意とは全く反対に犠牲にしてしまったこと。しかも自分だけ生きて裏切り者とされる。
 憐れみをおぼえ救った相手は、いったん救われると敵のような態度を取ってどんな抗弁も許さず、ジャフィエが何を願っても聞き入れてもらえない。キリストの姿と重なる場面もある。
ジャフィエの ヴェネチアへの憐れみと、殺されそうになっている仲間を思っての嘆願とは、まったく等しいと感じる。
けれども矛盾して起きてしまう現実と、自分の力ではどうすることもできない現実。自分の行為から起きた悲劇を耐える姿。
ヴェネチアの人びとはなぜ自分達がそんなに平和に浸っていられるのか考えもせず、沈黙するジャフィエを責め屈辱を与え殺そうとする。 しかしヴェネチアを救うという目的は達せられた。

それからジャフィエの交換条件がホゴにされたということは、超自然の憐れみが 無条件で発せられなければならないことにも、関係しているのかな。

劇を読んでいると、あらゆる歴史の繰り返しといったものを想像してしまう。フランス語ということに加え、彼女の言葉はいつも明晰だと感じる。曖昧な日本の私は、読んでいてそういう点でも緊張と疲れを感じる。言葉というか彼女が心から求めているものに集中させられてしまう、と言ったらいいのかな。
ヴェイユの考えと生き方は、生身のからだが幾つあっても足りないわと思えるほど、数多くのさまざまな不幸や苦しみを感受している。(他人に対してもそうだったし、自身の頭痛もそうだし、苦境へ自らを追い込むような行動もそう。)ジャフィエの行為と苦境に満ちた最後も、たぶん彼女がそうしたいとずっと願っていた姿であり、彼女を取り巻く現実だったのだろう。 

シモーヌ・ヴェーユの言っていたことやしたことは、かなり忘れてしまっていた。政治的な発言など、意味のわからないのもいっぱいあるな。 記憶の遺跡を掘り返しているみたい。。。どこまで書けるかわからないけど、何とか自分の言葉で書けるといいな。 

((ヴェイユとは関係のないようなひとりごと… 自分の考え方がいっそう深まる時 とはどういう場合なんだろう? 誰しも「ある範囲の中でしか思考できない枠・領域」のようなものがあると思え、そこから抜け出たい といつも私は思っている。人との交感?感情的な高揚?それともそれまで蓄積してきたあらゆるものが緩やかにその人を変えてゆくのか。。何かが引き金になり、全く違う考え方や方向へ転回する重要な「とき」。自分についても他人についても、そういう瞬間を見たいと待っている私がいる。))



<かつて人びとはわたしの話に耳傾けた、わたしが語ると人々は答えた、
わたしの言葉は人々の間にわたしの意志を伝えた、
わたし自身もひとりの人間だった。それなのに今は一匹の獣のように、
この最大の非常の時に、わたしの声は人々に理解されない、
わたしの魂は哀願のために空しく溢れ出ようと欲し、
わたしの苦悩は沈黙し、わたしの罪は空しく疲労する。
わたしの周囲のあれら冷酷な顔の上に、震えるものは何もない。
 ・・・・・・・・・・ わたしは夢の中にいるのだろうか?いきなり人間であることを止めたのだろうか?
もしかするとわたしは、いつも今のようなわたしだったのかもしれない。> (『救われたヴェネチア』)







91.シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅱ 『ある文明の苦悶』 春秋社 

(ちょっとだけの感想)

   女性の哲学者というので珍しく、著作をわりあい読みましたが、ヴェイユ(ヴェーユ)についてはなかなか感想を書けないなと思っていました。内容は難しいし、厳しい内省を迫られる文章ばかりなので、私なんかが何を書けるのかなと自信がなく、何年も離れていた期間があったので。

先日プラトンを読んでいた際、ヴェイユプラトンから大きな影響を受けたことを友人から教えられました。それで、あたってくだけろだ~と時どき気軽に書くことにします。といいつつ初心に返って読み直してみても、どこから何を書けばいいのか悩みます。
ヴェイユからどのような影響を受けていたのか、よくわかりません。本についての感想じゃなく、「ヴェイユとわたし」にしてしまおうかとか(笑)。
(ちなみに同名でフランスの政治家もいるのですね。)

他の人はどんな風に書いているのかネットで探すと、マイナーながら読まれているようで、加藤周一吉本隆明大江健三郎高村薫らの紹介からヴェーユを知る人も多いみたいで、もうマイナーでもないのでしょうか。

なぜ惹かれるのか考えてみると、「私自身が将来どれほど惨めで絶望的な状態になったとしても、ヴェイユは気持ちをわかってくれるはず」という信頼を持てるからです。とはいうものの、決して個人的な苦しみや悲しみだけに寄り添った人ではなく、行動が示しているように、社会的な問題と広範囲な人々の不幸へ、まなざしを持ち続けた人であると思います。最期はハンガーストライキで餓死した形で迎えたようですが、生涯自分の理想を追求して完全燃焼したと思えます。

彼女の本を読むことは、多くの本と同様またそれ以上に孤独な作業です。ある方は、「ヴェイユを読むことは、今そこで自分を活かすこと」という意味のことを書かれています。

 

本の窓 13

      ++本 13++


94.『こどものいた街』 井上孝治  河出書房新社

知り合いに薦められた写真集で、昭和30年代の福岡市内が撮られている。こどもが中心で、もちろん大人もいるし、街全体の風景やいろんなものがモノクロ写真で息づいている。

まだ経済成長期前なので、どことなく街の雰囲気、人の服装などは農村の風景だ。車が少ないので、自転車の二人乗りや、道路で遊ぶこどもが多いこと! ロウセキという石で地面に絵を描いたり、ござを敷いてままごとしてる少女とか。あんな遊びこんな遊びに、家の手伝いをする子が多かったんだと思った。運動会の写真は今とそう変わらない。こどもって昔も今もエネルギッシュに走り回っていた。赤ん坊をおんぶした子供は、さすがにいなくなったけれど。一杯飲み屋でやっていたり、犬を散歩させているおじさんは今と同じだけれど、リヤカーを引いている人はもう今はいない。

昔と今で変わったもの、変わらないものが、はっきり表れている。写真家はろうあの方だとか。見ることにことのほか集中しただろうし、表情の奥を見、写される側が意識しないのに心が最も表れた一瞬を逃さなかったのだろう。

よく夢に出てくる、昔の記憶に閉じ込められたような風景にそっくりな写真があって感激でした。




93.『ロバに耳打ち』  中島らも  双葉社

新聞の「明るい悩み相談室」がとても印象に残っています。小説は読んだことがなく、劇やTVでも見たことがなかったし。とても真面目な顔をして可笑しい話をする人だなぁと思っていたけど、やっぱりそういう人でした(笑)。この本はエッセイですが、おちのセンスというか、文がかなり笑えます。どのページにも、酒飲んだ~という話が出てきます。ほんとに好きだったんですね。

相当文学好きな方だったようで、芸術にも詳しかったらしい。(他の本の立ち読みです。)もっと早く劇団を見に行けば良かった・・・。 根っから明るい感じのするらもさん(さん付けで呼びたくなる親しみを感じます)ですが、意外なことに子供の時から憂愁にとざされる時があった、と軽く書いています。(人を新聞の相談役だけで判断してはいけないと思ったのでした。)それからあちこち、世界中を旅していたのも知りました。こんな人となら、徹夜しても面白い話ができそうです。   




92.『禅と日本文化』  鈴木大拙/北川桃雄訳 1940年 岩波新書

 「歎異抄」を読んだら禅のことも知りたくなり、入門書として読んでみました。禅については何も知らなくて、座禅?…禅問答?…ついでに雪舟水墨画や深山渓谷の仙人も連想するという、はなはだ心もとない読者です。
禅が元々仏教からきた教えであることや、その始まりは六世紀初めのインドに遡るとか。(と初めて聞いたような顔・・。)日本独特のように思えていた禅の根本精神は、<仏陀の精神を直接に見ようと欲するものである>そうです。
それで難しい仏教の教えなどが出てくるのかしら・・・と少し構えてしまったのですが、読んでみると漢語や聞き慣れない言葉が少し多いものの、書かれてある内容は意外とやさしかったのでした。

 第一章「禅の予備知識」から、禅とさまざまな文化ー「美術、武士、剣道、儒教、茶道、俳句」まで七章に分けて解説してあります。その中で一番身近でとっつきやすそうだった「禅と茶道」の章のまとめと感想を。。。
 最近お茶席によばれる機会が増え、静かな茶室(多くは寺のお座敷)で、一期一会の人達と抹茶を頂いています。日常から離れたひとときが過ごせていいなぁと感じます。

■まとめは<>内で、その他は感想です。

 <禅と茶道に共通する点は、物事を単純化し不必要なものを除き去ることである> と言います。<人為的なものをはぎ取り、(精神上の安心をもたらすとは限らない)知性や哲学を取り去る(=超える?)のが禅の真意>とか。

  千利休時代の茶室はかなり地味ですが、茶室は基本的に簡素で、余計な飾り物はないのが特徴ですね。床の掛軸、茶花、香に、お茶を点てる最低限の道具のみで、座布団もないし、畳に座ってお茶を頂く という目的だけに皆が集います。掛軸や花を拝見したりもしますが、それは「お茶を味わう」という単純な一点に空間も時間も集約しているというか、招く主人が心を尽くしてしつらえているのです。他に考えることは何もない簡素さ。茶道とか文化とかというくくり以前に、そのすっきりとした意味に、物事を単純化するという意味が伝わってくるようです。

茶の湯の精神は、「和・敬・清・寂」という感情の要素からなる。和は和悦とも言え、聖徳太子憲法十七条にもあるように、同席する人々との間のなごやかさ、また人と出会えた小さな喜びのようなものである>

著者は <日本人の性格をもともと和を尊ぶ国民だ>と考え、<こういう美徳から逸れると好戦的になるのではないか。お茶室に漂う雰囲気ーー触感や香気、光線、音響を和することに心をくだく。つまりキリスト教徒も仏教徒も、滅我(自我を滅すること)や柔軟心という点で同じではないか>と言います。ただ苦いお抹茶を飲むだけではなく、意外と深い意味があったのですね。
日本人の美意識や精神は和を尊ぶことであるーーとする見方は、茶の湯と結びつけて説明されるとよくわかる気がします。お茶席で怒ったり喧嘩したりする人はあまり見かけませんし、社会的な立場や上下関係など一切無しにお茶を楽しむ・・・みなが等しい生きものとして、花も庭石も掛け軸も全部を一つのものとして味わう・・・考えてみたら本当に、小さな完成された世界が成り立っているなぁと思いました。

「敬」とは自分の無価値や有限性への反省であり、いつか死ぬ身であるわたしたち以上の存在物(たとえば神さま?)に対する宗教的感情のこと>だそうです。
まぁお茶が配られるのを待っている時に、そこまで考えてる人はあまりいないかなと思うのですが、今 この時のかけがえのなさ、一期一会みたいなものへの感謝にも通じるでしょうか? とするとふだんの生活で誰かとお茶を飲んだり食事する時、私はいい加減にしているかもーと思います。(あるフードコーディネーターの人が、一人で食べる時もちゃんと食器にこだわり、料理も作り、器に綺麗に盛り付けて頂くようにしていると言っていて、即 真似をしなければ!と思ったのでした。)

鈴木氏はさらに、
<禅は外目には妖かしに見える表面の虚飾一切を捨てた真理として、その存在を救うために、貴重な遺産一切を焼き棄てることもアリだ。だからこそ心の誠実も重視し、つまらぬ草の葉を崇め、野の花を仏に捧げることもする> と言ってます。
ここは意外で少しわかりにくかった所です。禅の経典などもそんな重要なものじゃない、そう思えるほどに全てのものへのこだわりや執着を棄てることが大切だ、という意味かなと。一方で、つまらぬと思えるささやかな自然のものにも、深い敬意と慈しみのようなものを感じられるのが、禅の境地なのかなと感じました。

また <「清」は純粋で静寂な、絶対なるものの孤独を味わいうる心である>としています。お茶を点てる人、待つ人、それぞれが心を無にして茶せんの動きを見守り、音を静かに聞く・・・・茶道の細かなしきたりは知りませんが、これがお茶を愉しむことなのかなと思います。

それにしてもお茶席という小さな空間を、「清浄無垢の仏土の実現、理想社会をつくること」とまで押し広げる考え方は、ちょっと大げさかもと思うのですが、禅がほんとうは難しい哲学ではなく、日常生活で誰でもが何気なく触れられる、ささやかな美意識であると感じられたのは、良かったです。

<さび、わび>についての説明では、これらが<茶の湯では「貧困・単純化・弧絶」に近い言葉となる。>
お客がふいに訪れて新しい花を生け、茶を点てながら話をする というごく何気ない静かな時間と行為の中に、己の本性に忠実であるところの真の茶の湯がある・・・という説明に、とても納得できたのでした。(できたような気がしただけかもしれません;)

さらに考察は次のように続きます。ここら辺りは禅の極意というか、少し難しい哲学かなと感じます。

茶の湯は原始的単純性の美的鑑賞である。茶は人間ができ得るところまで自然に還り、自然と一つになりたいという心奥の憧憬である。 茶道や禅に見られる無意識の働きは、禅のみにとどまらず、すべての創造的な芸術につながるものである> と説かれます。

<一芸の熟達に必要な技術、方法には、「宇宙的無意識」に到達するような直覚がある。 各種芸術のそれらは個別に無関係なものではなく、一つのものから生じているその体験は、一切の創造力、芸術衝動の根源であり、一切の無常のなかの実在たる無意識への洞徹である。禅の最終的な直覚とは、生死を超越することで、無畏(何ものをも畏れないこころ)の境地に達することである>と。

かなり抽象的になってきて分かりにくかったのですが、ソクラテスプラトンのエロス、イデアの認識やダイモンに近いのかなと思いながら読むと、何となくわかったつもりになれました。見えないもの、見えない世界、言葉で表現しにくいものへの深い洞察とか、直覚というものを重視しているのが、同じなのかなと。

 ただ日本人の感性や美意識の、どのくらいの部分が本当に禅と結び付けられるのかや、本が書かれたのち終戦後にアメリカ文化が入ってきて、現代人の中にどういうふうに禅が残っているのかといったことは書かれていないし、よくわからないです。個人によって相当異なるものなのでは。。これからの勉強課題でしょうか。




90.『自由に生きるとはどういうことか ―戦後日本社会論』 橋本勉/2007/ちくま新書

(ざっと読んだまとめ)
「自由とは何か」 ではなく、「自由に生きるとはどんな理想をいうのか」というテーマデス。
戦後日本人の時代体験を追いながら、それぞれの時代性を帯びた”自由の希求”があったことを考察している。

* 敗戦直後の肉体の開放、エロスの自由から始まり、知識人のあいだで連合国軍の勝利を研究するところから、自由の探求がなされた。パブリック・スクール型の自由主義(上からの啓蒙)と、ロビンソン・クルーソー型の個人主義的生活を基礎として、高度経済成長が支えられたという。

* その後1960年代は、団塊の世代の若者が社会に背を向け、都市の巨大化や科学的合理主義に抗して、近代化以前の自然を取り戻そうとした。
闘争(マルクス主義)における生の完全燃焼や、閉塞的な自我の開放など、新しい自由の理想が示された。(ここで『あしたのジョー』が引用されていて、私は読んでいなかったけれど、物凄く有名だったこの漫画にそういう意味があったのか…と感心。

* 70~80年代の核家族化からは、小さな幸せを手にする自由が求められた。(尾崎豊の歌に見られる、「自由を抑圧する巨大な権力や社会」「仕組まれた自由」から逃れる生き方など。)

* 90年代は、経済発展の崩壊、父権の失墜、ものわかりのよい社会において、いかに自由になれるか。『エヴァンゲリオン』にみられる母性による自己肯定感情と、自由な活動。それは21世紀どこへ向かうか・・・。(エヴァについての考察は、知らない作品なのでとても面白かった。)
以上が要約です。

80年代のことまでは大体知っていても、90年代より後のことはあまり実感できなかった。エヴァを見て今もずっと影響を受けている人達は、自由をどういうふうに思っているのかもっと知りたいと思った。

結論を早く読みたくて、最終章へ。
* 現代では「創造としての自由」が大切。エヴァを考察しつつ、「母性回帰の中で芸術創造を企てること」が新しい自由につながるのではないかという。芸術や文化の成熟に向けて日本人の認識力を高めること。
エヴァ庵野監督は、「日本文化の1%しか良いものは無い。それを自分の感性で感じて判断できる人は少なく、そういう人に限って声に出さないから、偏った言葉だけが閉じた世界にはびこる」という。(極端に表現したのかと思うけれど良い文化が1%なんて、現代の文化に限定しての意味かな。)

* アメリカではボボズ(ブルジョアボヘミアン)という創造階級や、文化創造者、ロハスなどが出てきたという。彼らはWASPに変わって現代アメリカ社会を担う人々で、ボヘミアン的生き方から学んだ新しい生活スタイルを送っている。特徴としては絶え間ない変化、最大限の自由、若々しい情熱、急進的な実験、新しいものへの渇望などで、生涯にわたる自己教育をし、消費も顕示的ではなく洗練されているが利益の上がらない商品を探す。 社会的成功よりも、創造としての自由を人生最大の価値とする。こうした人々の台頭に対して、ビジネスプランも変化するし、創造性をめぐって世界レベルで競い合うという時代が訪れているそうだ。

* 結論ではいかにして自由な生き方が可能か、いくつか提案が述べられていた。要約すると、「自分の潜在能力を開花させているか」こと。特にIT社会で目立ち、個人主義的な行動原理で独創性を発揮している(オタク、アメリカのギーク)。
きらびやかな消費ではなく、<自己開発志向の生活>をする。(その一つに、ブログによる情報発信によって自己の内面を高める行為があげられている。) 
一方、<自己の無限の可能性を実現せよ>という時代のイデオロギーに対し、現実には<潜在能力を開花させれば生計が成り立たない>という現実もあって、「創造としての自由はいかにして可能か」という難しい問いが続くという。

自由に生きているかどうか・・・世界を見渡せば、この問い自体が贅沢にも思える。 昨年出た本なので、知らない事柄がたくさん紹介されていて面白かった。



(ところで今までS・ヴェイユについては、どうしても感想を書けないと思っていたのですが、プラトンを読んだことで、来月辺りから気負わずに書いてみようかな?と思います。)




89.『木村伊兵衛土門拳

ブレッソンから、写真分野にすこし興味を持ち始めました。篠山紀信アラーキー、最近では星野道夫など知っていても、絵画に比べると写真展はあまり見に行ったことがないなぁと思います。

木村伊兵衛はパリを撮った写真で最近名前を知り、土門拳は炭鉱の写真で知っていました。市井の人びとの趣味になり始めた時代に、写真界を牽引した二人。
木村は洒脱性の強い個性をもって、誰でもが扱える写真映像の可能性に期待しながら撮った。土門は社会問題への興味から、写真を芸術の一分野として引き上げたかったそうだ。有名なヒロシマや古都巡礼シリーズは、一度写真集を見たほうがいいのかもしれない。
それぞれが目指した写真のこと、技術の違いなどの共通点、相違点、、両氏のモノクロ写真を紹介しながら、活躍した時代の流れや、彼らの写真表現の変化などもわかって面白かった。

スタンスやカメラの好みが少しずつ違いながらも、たとえば日本の事物や風景の写真など、専門的なことは知らないけれど、どれも対象を美しく切り取っている。対象というより、<そのなかに在る 何か別のもの>ではないかと感じる。モノクロ写真は光と影のコントラストがはっきりしていて、いくらでも想像する余地がある。


 

88.『自分の中に毒を持て』 青春出版社 ・『疾走する自画像』みすず書房 /  岡本太郎

生を熱く駆け抜けた人だったんだろうな。「太陽の塔」と「芸術は爆発だ!」 しか知らなかった岡本太郎は、個性的で変わった芸術家だと思っていた。どちらかというと、見た目に綺麗で心地よい絵に惹かれる私は、強い関心を持ってなかった。

挿絵の、墨絵のような奇妙なイラストが面白い。常識のまま生きているような私とは、何もかも正反対の人だと感じるし、彼のような生き方は多くの人にとってそのまま真似できないかもしれない。エネルギーとパワーが溢れ過ぎ、近寄るとはじき飛ばされそうだ。どこからそのパワーが?と不思議だが、強烈な個性や好奇心は、時には世間や社会との軋轢も生んだのだろうけれど。

美や人生に対する考え方は、一見単純なようで、実は矛盾を抱えながら深いところまでものを見ていることがわかり、鋭さや深さを感じる。岡本氏はパリ留学時代に、自己や将来について相当苦悩していたことを知った。

文章も面白くて引き付けられた。常識から外れたような独特のものの見方はーそれを彼は毒と言うー本好きの人ならすぐに、切実に理解できるのではと思う。中には目からウロコの持論もあって、今ちょうど思っていた事柄に答えを与えられた気がして心が軽くなった。

「疾走する自画像」の方は、戦争体験が壮絶だった。

同時代で活躍している時、どうしてもっと注目して見なかったのかと悔やまれる。その時人気がある芸術や文化は、素直に接して感動することが大事なんだと思った次第。


 

<番外本>
「ダロウェイ夫人」 ヴァージニア・ウルフ

前にも読みかけて挫折し、今度もだめでした。登場人物や状況などには興味があるのに、いざ読むと面白くないです。意識の流れに沿って思い浮かんだことをそのまま描写しているのは、ドストの『二重人格』に似ているかなと思うのですが、、、ドストエフスキー読んでしまうと、多くの小説がつまらなく思えるので困ります・・。




87.『歎異抄』 中央公論社(現代語訳)

 親鸞の教えを後世に伝えようと、弟子の唯円が著したとされる書物。「歎異」は、親鸞の法語に反する”異”義を”歎”くという意味だと初めて知りました。
昔読んだような気もするけど、たぶん(??…)と判らなかったのだと思う。今なら少しは理解できるかなと読んだけれど、やっぱり一度ではわからなかった。難しい。反語や逆説に満ちているようでもあり、だいいち肝心の「念仏」って何なのでしょう。(南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏? 仏教の基礎がないんだわと自覚。精神世界に興味があっても、中途半端に読んでしまうかもしれない危惧感が大であります。汗) 

*念仏とは・・・・ 初期の仏教では、仏を憶念する(おくねん=心の中で思い、かみしめる)ことを念仏と言うそうです。

●有名な言葉― 「善人でさえ浄土に生まれることができる。まして悪人が浄土に生まれないわけはない」

これの解釈ですよね、主に。意味が逆、ではない所がミソなんですよね?
うーん、なかなかわかりません。(ひとまず保留)  他の目に付いた所としては、

・ 阿弥陀仏は、浄土に生まれると信じて念仏を唱える人すべてに、恵みを与えているのです。

・ 善人といったって、またどんな修行をしたところで、生死の迷いは離れられないです。自らの力を頼りにする人は、阿弥陀仏の力にまかせきる気持ちが欠けているから、よくないのです。 などなど。。。

● <この世に生をうけた身のままでは、どのように(他者を)可哀想、気の毒だと思っても、思うようには救うことはできないから、この種の慈悲は不徹底なのです。>

この言葉はとりわけ身に染みます。様々な力に自信を持ち過ぎることが、わたし自身省みて多い。自分にできることの方が少ない気もしてくる。自分の無力や非力を知ることは、たやすいようでほんとうには難しいことだと思える。
自力が限られてある という真の意味とか、自分という存在が不足である部分をわかろうとすることが大事なのかな。最終的には 命が限られたものであることを、心の底から知った時から、歎異抄への理解も始まるのではないかな。
本当の自分を知る道につながっているというか。。。
ひたすら阿弥陀仏を信じる行為は、疑いとか、なぜ?という問いを棄てて、自分をからっぽにすることだろうか。 理性に重きを置いていないというか、欲望はもちろん、感情さえも棄てましょうと言ってるのだろうか。一行一行に引っかかり、考えてばかりだ。

非力な自分を知って、なおできることを捜すのも大切かなと思う。こっちも難しい。
マイナスの自己否定ではなく、プラスへ向かう自己否定の考え方が、どこかに流れていると思った。 (という受け取り方だと唯円は嘆くかしら?)

鎌倉時代と現代では時代が違いすぎて、意味が大きく違ったりしないのだろうか。どんな書物も教えも、時代を経て多くの人びとの中で生き、否定されもし、再生を繰り返すのではないかな。一方で、今にじゅうぶん通じる言葉も述べられているんだろう。

<人間の力や考えることを、まずはお釈迦様の前で無力なものとしてみよう> ってことは、しっかりわかった。これが何度も繰り返されている。歎異抄ぜんたいが「念仏」なのかもしれない。

最近耳にした印象に残る言葉。
 「芸術作品などの素晴らしいものには、三つの要素がある。とてつもない大きさがあること、謎があること、繰り返しが含まれること
今まで感動したものに当てはめてみると、これがピッタリくる。歎異抄もそうだと思った。

親鸞の波乱万丈の生涯ももっと知りたいと思うし、「教行信証」なども読もうかなと思う。




86. 『草の竪琴』  カポーティ 新潮文庫

響きのよい題名に惹かれて、ティファニーや冷血など、どれがいいのかなと思いつつ、前から読んでみたかった作家でもあったので。ブレッソンの写真集にも若き日のカポーティが載っており、どんな人だったのかと興味も湧いて、彼の生涯を調べたりしました。 後半生はスキャンダラスだったようで、社交界ケネディ大統領夫人やマリリン・モンローと知り合いだったとか。(彼女とダンスをしている写真も見ちゃった。。。) とんでもなく華やかな生活をしていたのですね。その時期の心中はかなり複雑なものがあったらしいですが。

この短編は彼の十代の自伝のような内容です。自然に抱かれたムクロジの樹の上の小屋に住んだり(!)、”妖精”のような年上の遠縁の女性に憧れたり、とても繊細で文学的な少年だったことがわかります。自然の描写は隅々まで細かく、瑞々しさに溢れ、夢のような風景です。こんな少年時代を過ごし、心にたっぷりと栄養を注ぎ込まれた数年、世間から少し引きこもった暮らしは、幸せに満ちていたのだろうと思わずにいられませんでした。

カポーティの生涯については詳しく知りませんが、アメリカの繁栄と栄光の渦中で過ごした時期は、彼にとって相当無理な面があったのでは。死ぬまで「草の竪琴」に出てくるような場所で暮らしていたとしたら、とゴーギャンを思い浮かべてしまいます。華やかな世界に身を置くことを、彼が最終的には自ら選んだのだろうとわかっていても。
あるいは彼自身は幸福だったのでしょうか?
* この作品は『グラスハープ』という映画にもなっているようです。 

(感想予定の本―)
『自由に生きるとはどういうことか ―戦後日本社会論』

『文学2006』 

『自分の中に毒を持て』・『疾走する自画像』  岡本太郎

木村伊兵衛土門拳

『夢見る少年―イサム・ノグチ』 




85.『ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集』/岩波書店/ 2006年 

図書館で写真集の棚を眺めていて偶然手に取した本。ブレッソン…聞いたことのある名前。表紙の寡黙な顔の写真が誰なのか気になり、「内なる静寂」という題にも惹かれて借りてみる。

どれも素敵なポートレート写真。
知っている文化人や有名人(一部に無名の人)が、真正面から写されるためのポーズを外され、本人が知らない瞬間をねらって撮られている。だから笑顔はほとんどなく、物思いにふけり、仕事について考え込み、はたまた日常生活のままの姿で、彼ら彼女らは座り、立っている。

ブレッソンは撮影した相手を合意の犠牲者と呼び、「わたしは彼らの表情ではなく人格を撮りたいのだ」と言う。
どの人も、本の紹介や裏表紙などでよく見かける彼らの肖像写真とは違い、孤独そうで、何気なくも集中しているような顔つきをしていたり、どこかわからぬ方向を向いていたり、こちらの想像を掻き立てる。彼らが本当にその時代そこに生きて、暮らし、仕事を生み出していたのだと思える。

ヨーロッパの画家や作家は少し知っているので、こんな人だったのかと驚く人も多い。表紙の深刻そうな顔のベケットをはじめ、帽子を被りチラリとこちらを見た画家のルオー、ベッドで煙草を燻らすジャコメッティ、一箇所を見つめる政治家ネルー、年老いたキュリー夫妻、まさに紳士!といった感じの監督ヴィスコンティ、意外と優しそうな叔父さん風情のマティス、自分の描く絵に似たまるい目のミロ、若き日のとてもハンサムなカポーティ etc......153人もいるので見応えも十分。 32歳のカミュは、歳のわりに落ち着き払った風貌。男性は、誰もがダンディで潔さを漂わせている。本当はこんなにも素敵な人たちでは、なかったかもしれない。なのに撮影者の眼が、彼らの精神的なひとつの姿を捕えたのかなと思える。

男性は今まで見知った人が多かったけれど、女性のポートレートが珍しかった。年老いた作家コレットや、ココ・シャネル、歌手のピアフなど、歳を重ねた威厳とか内面的な魅力も伝わってきて、人生を経てきた人間なのだと教えてくれる。

芸術に興味のある方なら、写真集としてだけではなく、作家や画家たちの素顔を見ることができ最高の本ではないかとお勧めしたいです。写真集もこれから読書範囲にいれてみようかな。 




84.『ココデナイドコカ』  島村洋子  祥伝社

この作家のは初めて。軽く読める本かなと思って手に取ったら、女性の気持ちをわりと掘り下げて書いてあったと思う。 若い女性の恋愛や日常を描いた短編集で、聞いたことのない仕事が幾つか出てきて面白かった。

雑誌などで流行や話題について一言コメントするのが主な仕事のフリーライター(「事情通」)。 ある事について主人公は事情通でなかった、という展開が面白い。
ペットコンテストで他のペットに勝たせるため、わざと悪いペットを連れていく仕事を請け負う人(「当て馬」)。話の先が読めたように思えたのに、さらにどんでん返しがあった。
携帯番号のラッキーな数字を売り買いする「数字屋」では、ラストが怖いおちになっていた。モデルハウスで暮らす家族の話とか、皮肉っぽくも少ししみじみくる。

どの話も現代を生きている女性の感覚が上手く出ている。微妙な気持ちや複雑な女性心理もあり、さらっとして冷めている感じの主人公達に、新鮮味を感じた。

騙しているはずの女性が実は騙されていて…という話が多く、”ココデハナイドコカ”を心の中で求めている感じが伝わってくる。 本当はもっと素晴らしいものが欲しいのに、「戦わずして負ける(妥協する)」自分にいつも満足できず、違和感や不幸を感じる女性が特に印象に残った。(「代用品」)




83.『中年クライシス』  河合隼雄  1996年 朝日文庫

 中年を考える本というより読書案内のような内容だったので、手にして面白く読みました。ただ今のところ危機はない(はず…笑)ですが、、、。河合氏は社会の世相を難しく心理学で分析するのでなく、人の心にゆったりと温かく向き合いながら、しかも深い意味を探っていくところを頼もしく感じ、昔から時どき読んでいました。本作では12冊の小説を取り上げ、人生半ばの人々のいろいろな姿を描き、深層にある心理や、危機のもつ意味、日本人の心性などを解き明かしてゆきます。私は2,4,5しか読んだことがなく、「家族ゲーム」は映画で。小説を読んでなくても面白い。



1 人生の四季―夏目漱石『門』
2 四十の惑い―山田太一異人たちとの夏
3 入り口に立つ―広津和郎『神経病時代』
4 心の傷を癒す―大江健三郎『人生の親戚』
5 砂の眼―安部公房砂の女
6 エロスの行方―円地文子『妖』
7 男性のエロス―中村真一郎『恋の泉』
8 二つの太陽―佐藤愛子『凪の光景』
9 母なる遊女―谷崎潤一郎蘆刈
10 ワイルドネス―本間洋平家族ゲーム
11 夫婦の転生―志賀直哉『転生』
12 自己実現の王道―夏目漱石『道草』

 どれにも仕事や家庭の中で悩み迷う中年の男女が登場します。傍から見ると私たちってこんなふうに見えるのかなぁと感慨深いです(笑)。というか小説に描かれるだけあって、どの人物も平均以上に深く悩んでいる気もするんですけど。 
 壮年世代の悩みや危機そのものが、実は人生の中で「意味をもつもの」であるということが指摘されています。個人的な迷いや惑いは、そのまま中年期の普遍的なそれでもある、とわかります。

 子どもの頃って、大人というものはものすごく大人!って気がしませんでしたか。分別があり安定した人という雰囲気で。自分が大人になるにつれ、おとな達のなさけなさとか本当の姿もわかってきて、決して思い描いていたような落ち着きと徳のある大人ではなかった(現在進行形で自分も)ことに気付きます。
同時に経験の深さから得られるもの、智慧のようなもの、言葉にはしにくい豊かな感性なども得ていくのですが。

   ++++++++++++

 主人公が死者のまぼろしと関係を持つ『異人たちとの夏』で、河合は、中年には深い孤独がやってくる、それは必要なものであり、のちに深い体験につながると言う。また親との関係は父母が死んだ後も続いており、しかも変化していく。自立して生きてきた中年が、ふとした瞬間に両親といた頃を強く思い出し、それまでとは別の生き方をし始める。親をはじめいろいろな「関係の見直し」が生じる、という指摘は、なるほどと思った。

 作品の<異人>とは、死者を指す。死者に対してあたかも現実の人のように接する主人公を、河合は
  < 現実か幻覚かとこだわらなくとも、死者のまぼろしと関係を持つことが、普通の現実に作用を及ぼしていることは、現実のことである>
という。人は表層の現実とは次元の異なる現実を見たり、触れることができるのだ。

 自分を深く見つめ直すー。青年期でもそれはできるけれど、人生の半ばを過ぎる頃になると、関わってきた人数も多くなり、今まで何をやってきたんだろうとか、このまま歳をとっていくのだろうか…など浅くにしろ深くにしろ、いろいろ考えてしまうはず。同じ孤独でも、若い時とは異なる孤独や物思いの仕方になる。壮年で鬱になる人が多いのも頷ける。しかも立場上苦しみを簡単には周囲に話せない。河合氏自身もあるいは公けにはしづらい苦悩のようなものを抱えた経験があって、それと向き合うために上に挙げたような作品を読み解いて、糧や薬にしたのではないかと思う。

  ++++++++++++++++

 偉大な創造的な仕事をした人は、中年において(内面の)重い病的体験をし、それを克服した後に創造活動が展開されるという「創造の病」というのも紹介されていた。(ユングや、フロイト漱石もこれに当てはまるらしい。

本の窓12

   + 本 12 +

82.『饗宴』 プラトン  新潮文庫 森進一訳

<読書メモ 1>  

 「愛について」と副題があり、ソクラテスを中心に男性方が語り明かす高尚な井戸端会議・・ではなく、宴会、シンポジウムです。

  話はアポロドーロスという人が聞いた、人づての人づて(…以下ややこしく続きます…)という形を取っており、プラトンの”ある意図”によるものらしいです。美青年の悲劇詩人アガトン邸に集まった 〔パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストパネスソクラテス〕 が順に話し、その後乱入してきた酔客アルキビアデスのある告白で、宴は幕を閉じます。全体が哲学的な考察でありながら、一つの小説のように面白く、しかも読みやすい対話として書かれているのですね。しかし表面的な易しさとは裏腹に、ほんの数行、一つの文を取り出してみても、それぞれ考えさせられるものでした。

 手の込んだ諺や諧謔、比喩なども混じっていて、私はギリシア神話だけ少しわかりました。ソクラテスは皆の尊敬を集めた師として演説するのですが、それほど威厳を保っているでもなくて、どこか空とぼけながら、他の者たちの話をやんわり批評するのです。それは冷たさのない皮肉だったり、微笑みながら、ほんとは私もまるっきりわからんのでな(いわゆる無知の知?)と牧歌的で明るいです。

心に残ったところ―。

 * パイドロス 

<人は自分に愛を注いでくれる、すぐれた人を持つことが最も善い。美しい生き方をしようとする人が、生涯で導きとなすべきもの、人々に植え付ける仕事は、愛しかない。>

<愛の神は、もっとも齢も高く、高い誉れをもち、生者死者を問わず、人間を徳と幸福の所有へ導く力をもちたもう。>


訳者によると、彼の演説は当時のソフィスト教育がもたらした悪しき例らしい。倫理的エロス説に古人や古伝の繰り返し、引用を付けて内容を貧しくしている。教養主義の一見真実らしい装いの元に、空しい内容を隠すペダントリを描いたものだと。

* パウサニアス 

<行為に美醜が生まれてくるのは、行為の行われ方による。美しく正しいやり方でなされたことは美しくなり、不正な仕方でなされたことは醜くなる。必ずしもすべての愛が美しいのでも、讃美をうけるに値するのでもなく、ただ美しい愛の行為へとかりたてる愛の神のみが、美しく讃美に値する。>

 ここでの愛の行為とは、男性同士だけに関係すると言い、女性が絡むと地上的な愛になるためか、一段低いと見なされる(らしい)。また少年愛の厳しさとか、慎重さが求められることについても述べ、ただ美少年だから愛せばよい、というものでもないみたいだった。少年の育成や庇護、善き導きもセットになっていて、責任もあるよと戒めている。単なる同性愛ではなく、敬愛し合う師弟関係とか、友愛の関係が含まれているらしい。

 また <容姿よりも生まれや性(さが)がひときわすぐれた者に愛を注ぐことの善さ> を強調していた。肉体の愛は長続きせず、確実でも恒常でもないからだ。そうやって愛する者と少年との間に徳を介しての関係ができることが美しい、と述べている点で、前のパイドロスよりは少し深まった説になっているとわかる。(どの人も、前の人の説を少しづつ批評しながら自分の説を始める形をとっている。)

<もし自分に愛をよせる者をすぐれた人物と思い込み、その人の愛をうけ入れたところ、相手がもしつまらぬ人物であざむかれたとしても、あざむかれた姿は美しい。それは徳を得るため、一段とすぐれた者になるためなら、よろこんで相手に尽くそうという姿は美しい。>

と書かれた箇所があって考え込む。これをたとえば現代の日常の恋愛に当てはめると、好きで尽くした相手がダメンズだったりすると、普通はそんなふうには思えないのでは。パウサニアスによると、それって美しい姿なんだよ、となるのね。
もっとも、すぐれた人の<すぐれる>とはどんな意味かな?とか、徳を得るとは何?とよく考えると、ここがやっぱり難しいとこかなと。 キーワード=有徳の人。

ここで言われている恋愛とは、ふつうのいわゆるそれを超えたところの、もっと精神的な意味でのそれなんだろうな…というのがぼんやりとわかってきます。性や時間といった距離を飛び越えた、徳ある人への憧憬とか。だから今は存在しない人への恋愛だって、可能な気がしてくる。

* エリュクシマコス

この人は医者なので、職業上の立場を交えながら述べています。いわくー

<エロスは人間だけではなく、万物の上にその働きを及ぼしている。身体の構造はこれこれで、こうなっているので、・・・・・・医学とはこれを要するにこうするもので、・・・・・けだし有能なる医者とは・・をするものです。>

この辺はあまり面白くありませんが、時どき目を引く文があります。

<一(いち)なるものは、それ自身がそれ自身として対立しながら、それ自身がそれ自身と調和している。あたかも、弓や竪琴のように。>

そういって音楽における高音と低音が、対立しながらも協調するさまを例にとっていて、面白かった。音楽における調和だけでなく、四季や自然など、人間を取りまくあらゆるものに愛を見ようとする。では「一なるもの」って?? 矛盾を孕みながらも美しくあるもの・・・わかるようなわからないような。人間そのものかな。 

◇ どの人の演説にも当てはまること・・・話し始めは易しく、理解しやすい内容から入ってゆくのだけれど、表面的な愛の話や考察から次第に深い所、定義の奥まった場所へと導かれてゆく気がする。語り手の熱意がこもりだすためかな? 
それは、少し軽めの内容のパイドロスから始まり、最も深い奥義を伝えようとする最後のソクラテスで終わる――という、6人が演説をしていく全体の流れにも一致しているのかなと思った。(入れ子のように。)

* アリストパネス

 喜劇作家として有名な彼は、人間の元の種族を三つに分け、男性、女性のほかに男女両性者(アンドロギュノス)があったという。ゼウスがそれを半分に両断したため、人間は昔の形(半身)を求めるようになり、男同士がひかれ合うのも、それゆえ。(この話はずっと前にどこかで聞いていて、かなり知られたものらしい。ついでにこの元の円筒状の姿を想像すると、コロンとした何かのキャラクターに似ているかなと思う。)

 愛とか魂について・・・などと私はなんども書いているけれど、本当はもっと奥深いもので、簡単に口にしちゃいけないし、できないだろうと感じています。(敵を愛するムズカシサも、頭をちらっとよぎります。)「饗宴」は、それらを何とか言葉で言い表そうと苦心しているらしいから、私も考える上で、「或る 何か」として、とりあえず愛 とか美、魂と書いています。 
その定義は、<これ。>とはっきり具体的に述べられていない。どれも抽象的です。ヒントはあるけれど、自分で考えなきゃわからないものかなと。この本にいろいろ納得しながら、一方で、なにもかも徹底して疑ってみたほうがいい、と逆のことを考えながら読んでいます。 でも読んでいると、読んで考えたり知ることが、ただとても楽しい。

 (プラトンによる探索はさらに深まります。)

          ************************************



< 読書メモ 2> (プラトンとの対話風)

プラトン先生。田中美知太郎訳でも、三度目を読みました!田中さんの方が少し読みやすかったかな。 「饗宴」を読んで、自分の内側にその極意のようなものを取り込むこと。
あるいは作品の意図に深く分け入っていくこと。
それはもしかしたら「この私とは何か?どういうそんざいなのか?」を探ることであり、そのための器量を問われることなのかもしれないと思います。
この本に本気で向かい合おうと思ったら、大変なことであるとわかってきました。難しい意味をあれこれ考え、四苦八苦して感じたことを書くよりも、かっぱえびせんをかじりながらネットを見ている方がどれだけ楽かと思うのです。
何も書けそうにない。。。そう思えるほど大いなるあなたの思想を前にして、心は畏怖し、震えるようです。そりゃ大げさな......と思われるでしょうか?
はるか2400年後の遠い東洋の国の片隅で、一人の平凡な女があなたの言葉を前にして、驚きを覚え魅せられ、一つひとつの言葉と文に考え込み、ソクラテスを前にしたアルキビアデスさながらに魂は騒ぎ立ち、自分を恥じているさまを、あなたは想像できたでしょうか。
そういう私もプラトン先生を読むことになろうとは想像できませんでした。人生何が起きるかわかりません。先日ある所でこんな文を目にしました。

   「イメージを受け取ることにこだわらなくてもいい。そのエネルギー、光を受けるということの方が大切だ」

エネルギーや光とは何を指しているのでしょう。プラトン先生の溢れるようなエネルギーを浴びるだけでいいのかもしれない。そう思えました。
あなたは絶対の沈黙を守っていて、語るのは本の中の言葉だけ。対話と言ってもほとんど私のモノローグなのが、ちょっとだけ残念ですけれども。。


 アガトン邸の風景 (一例)




さてさてアリストパネスの後は、いよいよアガトンの演説でしたね。アガトンは宴を催した人で有名な悲劇詩人。前日に詩の大会で優勝したほどの才能の持ち主、しかも美男。どんだけモテたのと思うくらいセレブなお方。
そんな彼が愛の神を讃えた説話は、非常に美しい文体と言葉であり、内容もなるほどそうよねぇと私は深く頷けました。たとえば

「神は幸福を極めるもの、こよなく美しく、優れていられるゆえに。神は若きもの、たおやかさ、柔らかさをもち、柔らかき心情と魂に宿る。また愛の神は強制と遠いもの、その前では事のいかんを問わず心より従うもの。豊かなる節制をもつゆえに様々の快楽愛欲を支配し、勇気をもつすぐれた詩人である。生物一切、芸術技術もここから生まれた。神自身が美しくすぐれたものである。」・・・などなど。あれこれ。

詩人のさすがの流麗な言葉には、もう何も否定できるところはなさそうって思いました。居並ぶ皆がほれぼれしたほど、満場一致の拍手喝采があがったそうです。
ところがソクラテスはアガトンの話を一つひとつ論破してゆくのですね。
アガトンの演説は美辞麗句であって、真実とは別のことなのに、いかにも賛美しているようにみえるだけだよと。
ソクラテス独特の対話が始まり、たたみかけるような問いの連続にアガトンは反論できず、あなたの仰るとおりだとすっかりカンネンします。(読んでいると、なにやら誘導尋問じゃないかしらん…?と私は思ってしまうのですけど;) 
ソクラテスの会話の意図は、全てを根本から疑ってみてごらんということなんですよね? 最終的には、自らの無知を知る思想へ至るための過程として、皆の説を披露させたようなものです。

でもさっき、歯磨きをしながらふと思いました。
全てを疑えという懐疑論から、果たして何が残るのかな。もう少し進めてみると、自分の知っていることや考えたことがらに、いつまでも安住しないでいるように。 と言いたかったのではと。今よりさらに善きもの、美しいものを、意識して求めよ。求める者にはきっと見えてくるに違いない。 そのための方法の一つを、後に登場するディオティマの言葉を通して教えようとしたのでしょう?

最初のパイドロスからアガトンまで、どの人も一生懸命自説を披露するのだけれど、最後にソクラテスからどんでん返しというか、全否定といえるような指摘をされてしまいますね。けれどもそれぞれの説話には、美や愛についての鋭い考察も入っているのではと思えるのです。
古代から長い時を経て集められた智恵や、崇高なものへの憧れとか。
プラトン先生が目指しているのは、さらなる高次元の見えないものであり、それを掴むためには、人が生涯をかけても値打ちのあるものだと言っているようですね。 真実ではない言葉やものごとは避け、幸福を窮めるがいい、と言いたかったのでしょうか。

--ここまでが作品全体のやっと半分。後半からは山場となるソクラテスの演説が始まります。実はアガトンへの批判は、ディオティマという巫女のような女性から自分が受けた会話を、そのままなぞったものだったと述べるのですね。
また最後に酔客アルキピアデスの衝撃の告白が・・・・!! 酔ってるわりには彼も素晴らしい話をしたと思いますけど。
先生に聞いてみたいこともたくさん出てきました。あなたの説く理想と求める道は、一見俗世間とはあまりにかけ離れたものに見え、いま起きている世界の問題を解決できるようなヒントが隠されているのだろうかと、ごく素朴な疑問が湧いてきています。それをずっと自問しながら読んでいます。

   *************************

<読書メモ 3> 

* ソクラテス大先生のお話

ソクラテスの部分は、52ページもあって一番長いんです。ほとんどがディオティマから聞いた話として述べています。ディオティマは巫女のような女性で不思議な能力を持ち、口調もどこかきっぱりとして理知的な厳しさを感じます。
彼女の語りの主な部分は、様々なものを <中間> という言葉でとき明かし、<無知の知>よりも大事な言葉になっているのではと感じます。これが何なのか、<中庸>や<中立>などと同じ意味なのか、よくわからないまま読みました。(※ 後で思うと、違うもののようでした。)

・ 正しい臆見(おもわく)は、知と無知との中間にあるもの。愛の神エロスとは善悪美醜の中間にあるもの。また死すべきものと不死なるものの中間にあるもの・・・<鬼神(ダイモン)>である。
ソクラテスが、ダイモンとは何ですかと聞くと、神と人間を結ぶもので、預言者や神官のわざを行うという。ダイモンって言葉は守護霊とも訳されるとか。(映画『ライラの冒険』にも出てくるらしい。) 後にキリスト教ではデーモンへ変化したという。(デーモンといえば悪霊で、その方がわかりやすかった。)

・エロス(≒ダイモン)の性質は、いつも貧しいと同時に知を愛している。善美なものを狙っていて、勇気・進取・熱情の性質も持つ。同じ日に生と死を体験しよみがえる。。。。。といろいろ説明します。では美や善を愛した人は何を得るのか?というと、「永久に幸福になる」と。
答えは当たり前過ぎるようで少し拍子抜けするものの、心の平安や充足を得て、持ち続ける行為(それは、社会の平和、皆の幸福にもつながるようなもの?)がいかに難しく、しかし究極の目的である、と言いたかったのかもしれない。

・続いて、愛する人とは、創作(ポイエーシス)つまりさまざまな仕事や技術を創る人だとか、過去の半身を求める、と言ったり、善きものを永久に自分のものにしようとする人だという。

・ではどのような行為を愛と呼ぶのか?( ここからが核心部分)

<人は身体、魂の面で懐妊の状態にあるため、愛とは美しいものにおいて子を産むことである。
死すべき生きものが、力のおよぶかぎり求めるのは、永遠に存在し、不死たらんとすることにある。
出産は新しい、別のものを、不断に残してゆくこと。
でも醜いものの中には産めない。美しいものの中に、美しい言葉を産みつける。>


ディオティマは佳境に入り、次第にテンション上がってきます。


”聖火より魂よ!”

<まことに、死すべきものの一切は、こうした仕方によって保たれているのです。
すなわちたとえば神的なもののごとく、永遠に、完全に同一である、という仕方によってではなく、
むしろ去るもの、古びゆくものが、昔日の自己の姿と相似た、
しかし新しい別のものを、みずからの背後に残してゆく、という仕方によってなのです。ソークラテースよ。>


・・・なんとも感動する言葉です。
もしかして生物の特徴である「複製」を指しているのかな?と思う。
でもディオティマは人間の親子関係にはあまり期待していなくて、何より魂においての懐妊・出産が素晴らしいの。ここんとこ大事よとおっしゃる。
まず魂の美しい人を選ぶこと。でもその人だけに執着するのはダメ。
他の魂の美しき人はたくさんいるはずよ。肉体の美より、魂の美なの。
そういう人を見つけたら、その中に美しい言葉の数々を産みつけ、知識の美へ向けさせるの。
その美は永遠に存在し、生成消滅や増大減少を免れるもので、時と場合で形が変わるものではないのね。
それ自身がそれ自身において、それ自身だけで一なる姿をとってつねに存在しているのよ。OK?

そう言われても大部分が抽象的なので、理想的な人とはこんな人かなぁとイメージするだけです。「饗宴」を読んで、何か具体的なイメ-ジをもし描ければ、ソクラテスプラトンの考えが伝わったといえるのかなぁ。
私の描ける美や善のイメージとは、芸術や文化に表現されているものへの感動とか、大自然から受ける驚きや清々しさといったものです。

<それ自身がそれ自身において、それ自身だけで一なる姿をとってつねに存在している>

イメージの一つとしては、「目の眩むように輝く まばゆい光」が浮びます。



しめくくりの言葉。
<あなたはこう考えませんか――正しい方途(みち)をもって美を観た場合、徳の影でなく真実の徳を生むことが起りうることを!>
<その時徳を生み、育てる者は、神に親(ちか)しい者となり、不死となることが許されるということを!>



  ソクラテスの問答法については論理的にどのような構造なのか、分析研究もされているらしく、私には詳しくわからない。全体としては、やわらかなテーマなのに、とても理性と論理を重んじて書かれているなぁと感じた。(ほとんど引用になってきてます。ちょっと疲れてきたので次回は、はしょってみようかな・・・)

   **********************************

<読書メモ4 > (これで終わり)

わかった。「理想的な人」とは、プラトンにとってのソクラテスだったんだ。
「美しいものの中に美しい言葉を産みつける」とは、プラトンの中にソクラテスの真実の言葉が伝わって、精神に作用した…ということだったのね!
まさに『饗宴』に述べられている、知を愛し、美しいものを尊び、次の世代や他の人へつなげてゆく行為 が現実に二人の関係の中で起き、その感動をプラトンは後世に残したかったんだ。。。


* アルキビアデスの告白と讃美

名誉財産知性美貌…すべてを我が物としていたアルキビアデスは、かつてソクラテスをそのままの意味で誘惑したが、全然受け入れてくれなかったと皆の前で告白する。(ソクラテスがどのように断ったかについては、とても面白い話が述べられているのだけど省略。”神のようにふるまった”らしい。)

  <精神の目の光は肉眼がその盛りのときを過ぎはじめた頃になって、やっと鋭く光りだすもの。>(ソクラテス

ソクラテスは、アルキビアデスの自他共に認める肉体の最高の美をほめつつも、本当に価値あるものと認めず、肉体よりも魂に目を向けよと言いたいのだ。告白はアルキビアデスの内面を曝しながら、ソクラテスの姿を実に生き生きと描いてみせてくれて、素晴らしい文章。

  当時の社会では、ソクラテスは美青年達を集めて怪しげなことをしていたと思われていた節もあったらしいが、実はそうではなかったというソクラテスの身の潔白や、人徳ある人物であることを明らかにしている。
神話に出てくる醜いシレノスに喩えられる容貌にもかかわらず、いかにソクラテスが魅力的か。話術の巧みさ、見事な思慮に満ちていることについて、アルキビアデスは「魂が騒ぎ立ち身動きがとれず、自分は生きる値打ちがないとまで思うし、恥を知る気持ちを味わう」と言う。
(自分が最も敬愛する人には何よりも恥ずかしさを覚える気持ちは、なにかわかる気がする。) その後もペロポネソス戦争でいかに勇敢だったか、不屈で強健だったかや、自分の功績を誇ろうとせず他の人に譲ろうとしたかとか、いろいろ面白いエピソードを伝える。(ソクラテスって戦争に行ってたの、初めて知った。)

解説では私には思いつかない視点で読んでいて、とても参考になった。
簡単に紹介すると、「エロスはしかるべき仕方で扱わないと、恋愛常習者や愛欲だけの形相を作ったりして、自他を不幸にする僭主的人間にしかねない。素晴らしい反面、猛毒を持つので正しく導くべき。激しいダイモンへの監視が必要。」など。



(まとめ)

+ 読む前はかなり難しいのではと思っていたので、プラトンを読めたことがただ満足。対話なので誰でも入りやすいと言えるのじゃないかな。哲学への興味が自分に残っていたのも嬉しい。(考える力も残っていたことに少し安心。笑)
 短編だったのに、ものすごい長編を読んだ気がする。数百円で絶対お得!!…と言いたいです。

+ プラトニックラブ>とは単に観念的なものじゃなくて、<能動的で働きかけるもの>、つまり動詞なのだ。よく言われるプラトニックラブとは違った意味であること。男女関係のそれではなく、もっと広く、深い意味が含まれている。

+ <プラトン的な愛>の難しさ。(とりわけ実践的な。)

+ 現代ではプラトンはスピリチュアルな方面で好意的に?解釈され、受け入れられているみたい。わかるような気もする一方、現実にはある意味かんたんな行為ではない、という点が抜けているように思えなくもないかなぁ。
後世の哲学への影響と、キリスト教への影響、複雑な関わりあいもたくさんあるようだ。新プラトン主義とか?… これからも勉強。

+ 少しずつ、ゆっくりいろんなことを考えられた。
作品で示された以外の、さまざまな形の愛についてとか。
葉隠』で有名な、至極の忍ぶ恋との違い。 無償の愛や、自己犠牲の愛と違う点と共通点。所有や支配とは異なるもの。エディット・ピアフの『愛の讃歌』と歌にまつわるエピソード。マザー・テレサ。宗教の中の愛、慈愛。親から子へのそれ。家族関係とは別のところに成り立つ愛.......。

+ ドストエフスキーを読むときに、今まで考えなかった視点から読めそうだ。<働きかけ/能動的な愛> を実行する人物の多さに気付く。
―ゾシマとアリョーシャの関係。俗世にゆくように、とのゾシマの言葉の意味。アリョーシャから他者へと働きかけるそれ。ネリーから主人公への、言葉にできなかったけれども確かなそれ。ムイシュキンとナスターシャが互いの心の中に美しいものを見たこと。肉体に魅了されすぎた人物たちの、永遠に出口の見えない姿 etc......
少しずつ彼らの行動やこころの中が読めてくるようだ。

+ あとソクラテスや演説者たちが、真剣な演説の合間で和気あいあいと談笑している雰囲気がよかったかな。…論争風でもディベート風でもなく、こういうの何ていうのでしょう、やっぱり対話? 「共有対話」とでも呼びたいような。
『リュシス』『クリトン』も読んだので、あとは『国家』も読んでみたい。

*  *

最後に愛や中間についての、S・ヴェーユとアランの言葉を少し。(昔ヴェイユを読んでいる時は、ほとんどプラトンは意識してなかった。)

< 純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだにあるへだたりを何よりも尊重することである。>

<  わたしたちの内部にある、卑しい凡庸なものは、すべて純粋さにそむくものであり、自らの生命を失わないために、純粋さを汚すことを必要としている。汚すのは、変化させることであり、触れることである。美しいものとは、変化させようと思うことのできないものである。>

<  この世にある本当の幸福は中間的なものである。人は、自分の所有する幸福を、単に中間的なものにすぎぬとみなすことができてはじめて、他人の幸福を尊重することができる。>
 (ヴェーユ~『重力と恩寵』)


*  *

< プラトンが、われわれ人間のいっさいの愛を集めているのだということを理解しよう。
われわれは何を求めているというのか。信頼を、同意を、こころからの自由な一致を、求めているのだ。じっさい、誰にしても、愛は、自由なものであってほしいと願っている。つまり、精神の約束をのぞんでいるのだ。>

<  プラトンはけっして欺かない。わたしをわたしのありうるままの姿に、いやそれ以下の姿にわたしに描いて見せながら、同時にわたしを、現にあるがままのわたしの姿のままで、不滅であると認めるのである。>
(アラン~『プラトンに関する十一章』)




本の窓 9

◆◆ 本 9 ◆◆ 



     


64.『戦争という仕事』 内山節(うちやまたかし) 2006年 信濃毎日新聞社

 著者は群馬県上野村と東京に住みながら、畑を作り森をたずねて思索している在野の哲学者。前から著作を読みたいと思っていたので、この新刊エッセイ集と、他に『自由論』を斜め読みした。テーマは経済、労働、地方、消費、近代思想、社会主義と資本主義についての考察などで、はじめはとっつきにくいかなと思ったけれど、新聞の読者向けに書かれているので、読みやすかった。

 伝統的な仕事や自然の中で営まれる仕事と、効率を追求する近代的な労働の違いはどこにあるのだろうかという問題。たぶん何割かの人びとが心の中で市場経済に疑問を感じ、何かおかしいなぁ…と思っている事とか、昔と現代との暮らしや働きかたの相違などを、やわらかい言葉で穏やかに説いている。もっと伝統(的な働きかた)や、自然とのつながり、かんけいを見直してもいいのではないかと。かといって懐古主義や伝統復活派なのではない。今、あたりまえに暮らしている(近代的な)社会の価値観や考え方を、もとから考え直してみようではないか、という内容である。

    **********

~印象的だった部分の要約~

* 日本の伝統的な仕事の中では、「私がこれだけの時間働いて、これこれの価値を生みだした」といった「私」の側から話すのではなく、仕事の側から「今日はハカがいった」と言う。それは自然の前で一歩身を引いて、自分を主体にしないで生きる形を表しているのではないか。木や土に教わった、自然に教えてもらったという表現。こういった日本の精神風土は、自分の労働力の成果を商品として評価することを求めるような(西欧由来の近代的な)制度には向かないし、(市場経済という制度や評価主義は)ストレスを与えるので日本には定着しないだろう。資本主義的な経済の下でも、世界にはいろいろな仕事の世界が形成されるのが正常だろう。

* 「戦争を仕事」と捉える仕事観を、兵士だけでなく、現代人の我々も持っているのではないか。仕事の命令に従うという時、自分の仕事がどんな役割を果たし、社会にどんな有用性やマイナスを与えるのかを問うことなく、自分の判断を棚上げすることに仕事の退廃が存在するのではないか。 私たちの時代が戦争を続けるのは、戦争と同質の論理ーー市場における闘いや自然との闘い、生きる過程での闘いーーを社会が内蔵しているからではないか。「戦争という仕事」は、国家や政治は常に正しい判断を下していると虚構を成立させることによって、「虚構の労働の誇り」を生み出す。(戦争は人間の歴史上様々な形で見られるが、戦争のない期間の方が長かったはずだと著者は考える。)

* 現代の戦争では、敵の社会に内蔵された歴史の破壊、記憶の破壊、文化の破壊といったことが目的にすえられるようになった。敵の文化を自分たちに同化させることを通して、自分たちが中心にいられる世界システムをつくりだす。戦争は特別な行為ではなく、政治のありふれた一手段ににさえ成ってしまった。

*(レヴィ・ストロースの問い):「自分の力の限界を認識しなくなったときから、人間は自分自身を破壊するようになる。フランス革命の理念の中に、人間の権利を絶対視し、つづいて自分たちが掲げる正義を絶対視して「戦い」を仕事にする、そんな基礎がつくられていたのかもしれない。」

* かつては多くの人々の労働の中に自然が展開していた。自然の大いなる働きや動きをみながら、自分の役割としてつくりだし自然と結ばれ共振していた。現在は自然や人間を認識の対象にするようになった。それは文明の歴史にとって本当に避けられない道だったのだろうか?

* 「精神」の考察だけでは説明できないことがある。美しい森を歩いて心地よさを感じること。肉体でもない精神でもない何か。それを 魂 や 生命 と言い換えられるのでは。精神の奥に、私たちのつかめない何かがある。

* ひと昔前までの快適さには他者が存在していた。地域の自然や人間、歴史、文化といった他者が必要だった。現代では人は個人、自分だけの世界をみつめ、他者は快適さをともにつくりだすための協力者ではなくなり、自分だけの世界を侵害しかねないものとしてある。

* いまの現実では人間の労働が大事なものをこわす方向で作用している。私たちの仕事がさまざまな「権力」とどこかで結びついているからである。お金自体が一つの権力として機能している。「権力」は他者を支配下におこうとする。(たとえば貨幣は、お金ではつかむ事のできない価値の世界を破壊していく。) 私たちは今、労働と他者(他の人びと、地域、世界の人びと、自然、文化、歴史、、、など広い意味での他者)との結びつきを考察しなおすところから答えを見つけだすしかない。


*****************

 著者は具体的に新しい労働の形や方法を示してはいないため、一体なにをどうすればいいのだろうか・・・とわからない点も多い。それぞれの人が自分の生活をいま一度見直すことが大切なのかもしれない。その兆しは見えている、と著者も感じているし、スローなライフに向かう人々も実際増えてきているみたいだし。今の社会に優勢な価値観が、そのまま戦争を容認する考えに連なっているのではないか、という発想や指摘は意外だった。
けれどもたとえば都市や郊外に住み都市型生活をしている者にとっては、農村や山で働き暮らしている人たちに比べると、すぐには何も変えられないだろうし、別の価値観があると分かって憧れていても、実際そこから抜け出すのは難しいのでは、、、。それでも他者との交流を避け、個人だけの快適な生活を求めたり、貨幣による豊かな生活が唯一の目標、楽しみであるかのように錯覚しているのは、どこかおかしいのかもしれないと思った。(環境や健康を害しつつある現代の問題を考えたとき。)
他に、”知識や情報に価値を求め過ぎていないか?”といった問いかけにも、考えさせられた。




63.『風がページを・・・・池澤夏樹の読書日記』 池澤夏樹/2003年/文藝春秋

著者のは幾つか読んだことがあって、爽やかで後味のいい小説だった。この本は、週刊誌に連載されていた”読書日記兼本の紹介”本。読んでいてとてもいい本だなと感じた。

軽く短く紹介された本ばかりなんだけど、どれも読んでみたいなと思える。今まで興味がないし、これからも私一人ではなかなか読まないだろうジャンルの本が、著者の筋の通った思想の下に数多く紹介されていく。
・・・ミステリもの、食物誌、替え歌集、二十世紀をどう見るか、宗教について、宇宙、沖縄、ウミウシ、市場主義、歴史、ダムと村、、、、
池澤氏の感想(書評ではないと断っている)は、たぶん偏ってはいるのだろうし、氏が興味がある本の一部分しか取り上げてないのだろうけれど、なぜ「面白そうな本ばかり」に思えてしまうんだろう。この紹介文さえ読んでいれば、もうその本を読まなくたっていいと思えてしまうほど。。。著者がそれらの本を読んで、批評しながらも、どこかその本や作家に満足し、この世へのささやかな希望を抱いているからかと思ったりする。どれも本の世界から現実の問題へ・・・と広がりを感じさせる。

面白そうだった本~拾い書き

・『星の王子さま』の作者の妻の自伝。ちょっとわがままで少年性を残したままの夫への、悪妻の噂があった妻の言い分。

・『奪われし未来』『メス化する自然』という環境ホルモンの話。文明そのものが罠にはまったという文明批評と共に。

・『雨水を飲みながら』 島で自給自足的に暮らす都会女性のエッセイ。豊かな自然の中での様子や、都市で生きる人の思いなどが紹介されていて。

・『スプートニク』 ソ連の宇宙飛行士が国策によって抹殺された話。という嘘の?小説。本全体が、いかにも真実らしいノンフィクション調で綴られていて、読者を騙す仕掛けになっているらしい。(これは仕掛けを知らずに読んだ方が面白いかも・・・)

他にも色々たくさん・・・・ずっと読み通すよりもパラパラ気ままにめくり、まだ読んだことのない面白そうな本が山のようにあるんだ、と思って何だか幸せな気分にしてくれる本。





62.『美しい星』 三島由紀夫  新潮文庫

半分まで読んでお休み。 前半は、(外見は地球人の)金星人や火星人である大杉という一家が登場し、地球に対するそれぞれの深い思いだとか救済思想を述べます。三島がSF??…と最初は半信半疑だったのですが、SFというより、異星人に作者の思想やユートピア理想を思う存分述べさせた作品かなと思いました。(それだけ現実の人間を嫌っていた面もあったのでしょうか。) 余り読まれていない作品なのかと思いますが、私にとっては「三島の(政治的)イメージ」がかなり変わるくらいのインパクトがあり、その訴えようとしているものなど痛々しく感じたほどで、どうしても最期の自決の姿と結びつかないような、でもやはり結びつくような、不思議な感じでした。
金沢に住む金星人の若き男(若宮)が、能面を付けて中から外を見た瞬間、実存のなんたるか――真の輝かしい金星の世界――を知った(というような記述だったと思う...)場面の描き方には、何度も読み返すほど引き付けられるものがありました。(2006年 11月)

・・・・・と書いていたのですが。後半へ読み進むと、なんと金星人だったはずの若宮は、実は"女たらしの地球人"であったことが判明! ちょっとちょっと...。
まぁ彼の事はいいとして、彼と一時の素晴らしい時を共有した長女(金星人)は妊娠して処女懐胎となり、一方で主人公の家族達に対抗すべく、地球を破滅させようと企む秘密結社のような羽黒一団が東北からやって来て、大杉氏と対決します。この両者の応酬・議論がかなり長く、作者の思いのたけを述べているようで、難しい内容だったのですが、ふむふむと感心しきりでした。

作者は(大袈裟なようですが)地球や人類、平和について、(救済や核戦争についてなど)心から考えを巡らし、悩み、心痛していたのかもしれないと思え、人間嫌いや社会批判を露わにしながらも、一方でさまざまなものを慈しみ、尊んでいたのではないだろうか・・・と感じました。三島がどんな思いで人間や社会を見ていたかについて、もっと先入観を捨てて読んでもいいかなと思えた作品でした。(なんとか我慢して読み終わって良かった...)

<「あなたがどう思おうと」と重一郎は喘ぎながらも、心の平静を取り戻して言った。
「今、あなたと私との間を流れているこの時間は、紛れもない『人間の時』なのだ。破滅か救済かいずれへ向かっていようと、未来は鉄壁の彼方にあって、こちらには、手つかずの純潔な時がたゆとうている。この、掌の中に自在にたわめられる、柔らかな、決定を待っていかようにも鋳られる、しかもなお現成の時、これこそ人間の時なのだ。人間はこれらの瞬間瞬間に成りまた崩れ去る波のような存在だ。未来の人間を滅ぼすことはできても、どうして現在のこの瞬間の人間を滅ぼすことができようか。あなた方が地上の全人類の肉体を滅ぼしても、滅亡前のこの人間の時は、永久に残るだろう。・・・・」>





<番外>

・『飢餓海峡』上巻 水上勉

これも上巻のみ。 映画がとても良かったので原作も読んでみたくなり、読み始めたら結構長いなぁ...と思いつつ。映画で観たよりも、酌婦八重の内面や性質がとても詳しく書かれていて、生い立ちや東京へ出てからの経過がよくわかった。(その反対に、もう一人の主人公である犬飼多吉のことはほとんど出て来ない。下巻に出るらしい。)推理娯楽小説というより、私には純文学として読めた。戦後まもない日本の混乱状況や貧窮が立ち上ってくるように理解できたし、全体に暗くて地味なのだけど、こういうのは好みなのでとても面白かった。

・『カンガルー・ノート』 安部公房

著者の遺作らしく、名前も変わっているので前から気になっていた。本編の「カンガルー・ノート」は読めず、ほんとの最後の「飛ぶ男」を読んだら面白かった。
ある家で父と息子が会話しているシーンから始まり、二種類の薬を取り出した父が、息子にどちらかを選べと迫る。"透明人間になれる薬"と"飛べる薬"。(この親子関係の描写が現実離れしていて、どこかしら漫才みたいで可笑しい。真剣に話しているのに。)息子は飛べる薬を選び、父は透明人間になる。その様子と息子の反応には、くすくす……。




61.『秋の森の奇跡』 2006年/林真理子小学館

林さんが介護の本?という意外性に引かれて読んでみました。
といっても介護と、彼女お得意の恋愛との2本立てです。(最近ではTVドラマ『Anego』が、篠原涼子の好演もあって面白かった。)






60. 『一本の鎖』 広瀬隆  ダイアモンド社

ネットで教えてもらって読んだ本。こういうノンフィクションは自分ではなかなか手に取らない。
最初、世界情勢の裏社会を暴露した内容のようだったので、恐る恐るというか本当の事なんだろうか?と疑いつつ読んだ。
で、次第に驚愕の事実に引き込まれ、新聞やTVニュースでは知る事のなかったあれこれに呆然。著者の非常に緻密な取材力や、情報を調査分析し読み取る能力を、信用してもいいかなと何となく思えた。

というか自分の知識・常識の少なさにガクゼン…。この頃新聞も読まないし…。近所の新しいスーパーの開店を楽しみにしてる身には、こういう本はなんともお門違いの感があるのです(笑)。

イスラエル原水爆保有量が世界で5,6番目なのにそれを隠してて、 アメリカから莫大な軍事費を引き出してるとか、アメリカのネオコンが しっかりイスラエルと結託してるので、アメリカ政権はイスラエルの思いのままだとか色々。陰謀とか裏で糸を引いている者の行動については庶民はなかなか知り得ないが、確かにそういう事実はたくさんあるようで、映画『ミュンヘン』のモサドをちょっと思い出してしまった。

こういうノンフィクションは一定の立場、思想が明確になるものがあり、この本もそれはそうなのだけど、

<私たちが常日頃接している情報を、全く逆の立場から見るとどうみえるのか?> とか、
<知らない・知らされない情報とは何か?>

というのが判って良かった。
あぁでもやっぱり、思想信条の異なる者どうしの相互理解って難しいな…。

日本に居ればどうしてもアメリカ・ヨーロッパの価値観とか考え方にばかり関心が行くし、そのプラス面を偏って見てしまう。イスラム社会とかアラブ人の考え方なんてほとんど知らないし、興味が持てない。
著者はそれを戒めて、見えない世界情勢のカラクリを詳細に説明し、アラブ社会への理解を求め、戦争を起こしている国(表には見えない国も含めて)への非難、糾弾を述べていた。

著者の見方も客観的に見る必要があるのだろうけど、こういう本ももっと読んだ方がいいかなと思った。(2006/10月)





<番外編>

・『優しい音楽』 瀬尾まいこ

 作家名を聞いたことがあり、短編集を1冊。どれもほのぼのとしている話だったけれど物足りなさが…。「タイムラグ」という、浮気相手の娘を一日預かることになった若い女性の話がちょっとだけ面白かった。

・『本格小説』 水村美苗

 「嵐が丘」を思い浮かべる激しい恋愛小説。話運び、文体などとても上手いなと思った。(といっても上巻だけです。。。)

・『夢の島』 大沢在昌

 この作家もいつか読もうと思っていた人。(昔見た「新宿鮫」のTVドラマで、 舘ひろしがカッコ良かったので。)2段組で長編だったので、ざっとあらすじしか読まなかった。登場人物へのまなざしには仄かな人情味があり、こういう作風は好きかも。
夢の島はゴミの島ではなく、あるブツを栽培している所でした。)

・『軽いめまい』 金井美恵子

 名前は知っていたけど読んだのは初めての作家さん。
ごく平凡な都会住まいの主婦の日常を、読点を打たない長い文章で綴っていた。あ、こういうのあるなと苦笑したり、女性を奥深くから捉えていて共感する内容。でも特に感動する箇所もなく途中でやめてしまった。(他の作品も読まないとわからないけど、何となく作風が私には合わないような気も…。)


・『A2Z』 山田詠美

 スタイリッシュで都会的な印象の作家さん。何冊か読んだことがある。(「風葬の教室」だったか、子どもの心を上手く描いていた印象あり。)
この作品は、35歳くらいのディンクスの女性の日常風景。周囲の人との会話が軽妙でウィットに飛んでいて楽しい。(でも普通はこんな風に楽しくばかり会話は弾まないな…と突っ込みを入れたり。)
先日TVに出ていて、幻冬舎の編集者との付き合いが紹介されていた。話が魅力的で、さっぱりした雰囲気の人?




59.『幼年期の終わり』 アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫

SFファンが選ぶベストテンの上位作品ということだったので。
映画「2001年宇宙の旅」の原作者でもあるクラークの長編(1952年)は初めてだと思う。謎や不可解なところは少なく平易でとても読みやすかった。
(でも『ソラリス』を読んだ後だったせいか、最終章までは少し退屈だった。)

私は本を読んでも自分の生活体験と重なったり、実感できることしか感想に書けないので、こういった現実離れしたSFは、どこに共感して感想を書いていいのか困るのだけど。クラークは読者が抱きそうな疑問や反論にもきちんと目配りしており、上質な感じの作品に思えた。

地球にやってきた宇宙人("上帝"オーバーロードと呼ばれる)が、その高度な知性と文明と善意によって、地球を「完璧に平和で安寧な惑星」に変えてゆく。進化が停止し、創造もなくなった状態に慣れてしまった人間がほとんどの中で、上帝の最終的な思惑や、中止を命じられた宇宙開発(これには理由があって、上帝だけが知っている設定)に疑問と不満を抱く者もいた。

この上帝、”姿は悪魔”なのに行為は神様に近い、みたいなところが何とも滑稽だ。 要するに、地球は宇宙人に支配されちゃったのね……?と思っていたら、実は上帝らは進化ができない袋小路におり、地球人こそ次の段階に至る「見えざる超能力」があったらしい。それは心に関すること、精神感応や潜在力など…。
上帝は人類の行く末を予測し、その通りになる(この辺り、映画の「2001年宇宙の旅」を彷彿させられる情景)。
最終章でやっと面白くなった。(ここまでが長かった-)
クラークの考える、やや神秘主義的な「オーバーマインド」(最終的な見えざるものの意志)については説明も少なかったので、少し物足りなさが残ったかな。

<世俗を超越するのは結構なことだ。だがそれは、きわめて容易に、世俗に対する無関心に変わる惧れがある。>

<あらゆる人間の心を、大海に囲まれた島のようなものだ、と想像してごらんなさい。島は一つ一つ飛び離れているように見える。しかし実際には、海底の岩層によって、みな一つにつながりあっている。もし海が消失したら、それは同時に島の終わりでもあります。それらはみな、一つの大陸の一部となるのです。しかし、その時、それぞれの独立性は失われてしまう。
あなたがたのいう精神感応は、これに似たものです。適当な状況さえ与えられれば、心はたがいに他の心の中に没入して、その内容を分かちあうことができます。そしてふたたび引き離された時にも、その経験のきおくを持ちかえることができるのです。もっとも高度な形になると、この力は、時間とか空間とかいった一般の限界には左右されなくなる。>


作品全体で、地球の文明批判をしているような、一種の預言書にも読めた点は面白かったかもしれない。




58.『ソラリス』  スタニスワフ・レム  国書刊行会

以前から読みたかった本。(『ソラリスの陽のもとに』の新訳版だそうです。)(私はいつもスタニスワフ・・・ときちんと覚えられなくて、スタニスラフとかスタニスラス、と言ってしまうんです。ほんとにどうでもいいんですけど。)SFファン投票ではベスト上位に入るらしく、読み終えて、今年読んだ本の中では私の一番かもしれないと思いました。(読んだ人のほとんどは絶賛していて、私ももっと早く読みたかったです。。。)

      **************

レムは宇宙とのコンタクトは、「人間が決して理解できないものかもしれない」との想像の元に、この作品を書いたらしい。宇宙人や未知との遭遇は、ある程度人が理解できる範囲か、人間に似せたものか、取り敢えず想像し類推できる範囲で…となっている話が多いのだろう。 決して知ることの出来ない存在・・・不可知なものとして、一体全体どのように描けるの?と素朴な疑問も出るし、語義矛盾にも思える。不可能なものを可能にしてみたいという一つの試みではと感じ、それを描くことにレムは成功してると思った。

―― ソラリスという不思議な惑星を人類が知ってから100年位経つ未来。余りに訳がわからずソラリス研究も無駄になるというので、もはや地球から見放されつつあるソラリスのステーションに、ケルヴィンという心理学者がやって来る。惑星には巨大なゼリー状の海があり、それを見たものの前に、脳の奥深くに眠っている記憶から形成された「物体」(お客)が現れる。(この物体の描写が微に入り細に入り描かれていて、淡々としているのに文学的だったりする。) ケルヴィンの前には、数年前喧嘩したせいで自殺してしまった妻ハリーが現れ、驚くケルヴィンを前に何事もなかったかのようにふるまう。荒れ果てたステーションにはスナウトとサリトリウスという二人の科学者もいるが、互いの会話も少なくどこか不信感を抱き、別々の部屋で何かを恐れながら暮らしている。――

タルコフスキーの映画とは別物として読んだけど、登場人物たちの会話やステーション内の様子は、やはり原作の方が詳しくて面白く、一方で映画を思い出すことで雰囲気はつかめて良かった。

    * ソラリスの海の不可知性や形状についての描写は本当に難しく、言葉も難解で、1つの章まるまるこれに当てられたりしていて、難儀をしながら読んだ。理解力+読む気力も萎えかけて、何度挫折しそうになりかけたか。ミモイドとかニュートリノとか物理学用語が次々と出てきて、私にはさっぱり・・・。(というか途中で退屈になったし。これらが分かりながら読めたら一層面白いだろうにと思った。)

作家というより、相当広範な知識を持つ科学者であるらしいレムは、存在の実態を知ることのできない「海」を淡々と描く。ソラリス学という架空の学問の説明なども呆れるくらい長い・・・。他のSF(といってもそれ程多くは読んではいないけど)に比べて非常にSFらしくなく、哲学や宗教を語っているようでもあった。本全体に静謐感が溢れ、文章がありながら沈黙が漂っているような印象を受けた。

    * 私はケルヴィンがケリーを前にして自分が狂っているのではないかと悩み、自分がケリー(つまり謎の知性体)に騙されているのか試されているのか、あるいは彼女を騙しているのか何をされているのか、ずっと全くわからない・・・という点にとても惹かれた。(彼は自分が狂っているかどうかを調べるために機械にある計算をさせ、自分の計算がそれと合っていることで機械が現実に存在し自分も存在し狂っていないと確かめる。このシーンはとても印象的だ。)

コミュニケーション不能な相手とは、地球上では言葉が通じないとか動物とか(異星人もだけど)、、、。会話が成り立たないだけでなく、「それが何であるのか」全く理解できないというのは本当に恐ろしいのではないか。さらに恐ろしいこととは、「それ」を前にしていると「自分が何であるかわからなくなってしまう」状態なのではないだろうか。 

海の描写に比べ、ケルヴィンとハリーとのシーンはとても読みやすく、哀しい恋愛物語にも思える。映画でもそうだったけど、ハリーが次第に自分は何かと疑いだし(…物体なのに)、ケルヴィンが自分を疑っているのにも気付き、再び自殺を試みたりするのは、もし現実なら見るのに耐えられないだろうと思った。・・・物体なのに、物体ではないかのように次第に思えてくる・・・という不思議さが、読んでいて不思議だった。

    * 無機質なソラリスの海を形容しながら、それに入れ替わるようにケルヴィンとハリーの遣り取りがあって、人間臭さを感じてどこかほっとした。なのに途中から海がまるで生きもののように私には見え始め、同時にケルヴィンが絶望し少しずつ無気力になってゆく姿が、人間らしさから離れてゆく(人間嫌い・懐疑)ようで、その対比や入れ替わりが面白かった。

< ぼくが言っているのは、不完全さを、もっとも本質的な内在的な特徴として持っているような神のことなんだ。それは全知全能さえも限られているような神であるはずなんだ。自分の仕事の未来について予見しても間違い、自分で作り出した現象の進展に自分でぞっとしてしまう。それは神といっても・・・・欠陥の神で、いつも自分にできる以上のことを望んでしまい、しかもすぐにはそのことが自覚できない。・・・>

最後の方で、主人公とスナウトが話す神論議に引かれた。地球上の伝統的な神でもなく、ソラリスの海でもなく、ヒトでもなく、一種の進化する神、<絶望する姿をしている宇宙の中の神>。そのゆりかごの中の地球。 レムの最も言いたかったこと(対話や理解不可能なものに対して人間は何ができるか、どうすればいいのかといったこと)は、終わりのほうで語られているようです。が、難しくて理解できたとは思えないので、いつか再読しなければ・・・