本の窓 4

 

◆◆ 本  4◆◆


     

21.『蘭の影』 高樹のぶ子 新潮文庫

この人の作品は好きなのでわりと色々読んできた。品があって凛としていて、どこか官能的。人生も折り返し点に来た、もしくは終点にさしかかった女性達の物語。前の『イーストリバー…』が男性の象徴的な(と言いきっていいわけでもないけど)生き方を描いているとしたら、これは女性の平凡な生き方…妻だとか母だとかを書いたもので、対照的といえるかもしれない。

生き方や表面が同じように見える女達だって、十人十色、百人百様の生があるのだと思う。どの物語も、現実にちょっぴり幻想的な思いが交錯していて、生々しさを和らげていた。人は誰だって人には言えない思いや悲しみを抱いて生きているのかもしれない。命を長らえるほどにそういう思いは積み重なり、その人の人となりや行いに繋がっていくのだろうか。高樹のぶ子の描く女性は、私にはどことなく日本的なたおやかさと共に、表情に出ない芯の強さみたいなものを感じるから憧れる。(2004.5月)



22.『陽炎の。』 藤沢周 文春文庫

インタビューの記事で、「狂わないために書いていた」という藤沢氏の言葉を読み、どんな作品か気になっていた。(たまたま手にしたのが、また短編集。)表題にもなっている『陽炎の。』の主人公が、「呉服屋の元販売員」という設定が面白かった。彼の失業後の様子を主に描いていて、ところどころこれは本物の知識だ…と思わせられる着物の話が出てきて、唸った。いえそんな話は二の次で、要するに狂気と暴力の一歩手前なんじゃなかろうか??という主人公の胸の内、くすぶり、虚しさ、苛立ち、怒り…などがトグロを巻いているのがひたひた伝わってきた。

前の『蘭の影』にも見えたような幻想が、この本にも現われる。『海で何をしていた?』は、海辺に住む祖父、父、息子らが、多分私とは全く違った景色と暮しの中で、でもどこか似通ったように、言葉少なく心を通じ合わせ、時に心を逸(そ)らせながら日々を生きて行く。異性への荒々しく強い欲望を伴って。夏の熱いアスファルトの上を裸足で歩いているように。「何故雪はきれいなのか?」と聞きながら。でも主人公が好きになる女は、何故雪がきれいか…なんて気にも止めないんだろうな。

藤沢氏の作品が好きなのか、まだわからない。なぜ惹かれるんだろう。自意識が崩れてゆくような危うさを主人公達に感じるからだろうか。何か言葉にならないものを必死に探し求めているようで、、、これも不条理への抵抗? 時々出てくる日本海の景色が綺麗で、少しづつ現代に近付いている「あの頃」、といった風情で懐かしさも覚えた。何か長編も読んでみたい。(2004.5月)




23.『シンセミア』(上巻のみ) 阿部和重 朝日新聞社

数週間まともに本を読んでいなかった。ふと手にしたのが、前から読みたかった阿部氏のこの本。何の前知識もなく選んでみたけど、"シンセミア"って大麻の花の名前らしい。ジャンルは何なのだろう。ノワール小説とも言われているらしい。前巻をパラパラ読んだだけで、これってこれって何だかヤバイ。。。(刺激が強すぎ)と思ってしまった。阿部氏の初読本としては間違ってしまったのだろうか。彼にはどんなファンがいるのかと想像した。どちらかと言うと若い男性向けで、余り女性向けではなさそうだけど、、、。

作者の出身地である東北の地方都市を舞台に、性と死が溢れかえっている話。三世代の男女70人位が物語に出てきて、ほとんどの人物が人間の隠しておきたい悪の部分を表わしながら行動する。どうしても目が行ってしまったのが、青年団がやっているビデオによる盗撮、それもかなりキワドイ。というかほとんど戦慄を感じるほど。なのに嫌悪感を感じながらも、つい読んでしまうというか。。。自分の中ののぞき嗜好とか病的な心理部分を自覚させられる感じ?これは夏休みの読書感想文には絶対選ばれないような作品だろうな。(これを選ぶ中高生がいるとしたら、尊敬してしまう。というか、この本は18禁?、もしかしてこの感想ページも有害排除ソフトからプロテクトされたりして?…)

青年団という存在、放火や不審な死、行方不明者、不吉な事件や出来事が続けて起きる。(どこか『悪霊』に似ているとも思った。)そういう時人びとは、それらの出来事を偶然だと思えるだろうか。私など一番に何かの災いだ、祟りだと思うほうだ。作品の中でも、橋のたもとに出る幽霊だとかUFOだとかが現われたと噂になっては、不吉な出来事の原因や前触れとされる。他所から来た人物も、「町全体が呪われているようだ」と言う。どこかがおかしくなりかけている町。でもそれは全国どこでも、また日常生活のいつでもに潜むものなのではと思う。何だろう? 

前の世代から受け継がれてきた、僅かな憎しみの連鎖とか、腐れ縁みたいなもの、新しく入ってきたものへの恐れや好奇心などが、ない交ぜになった感情だろうか。中央(都会)への漠然とした憧れと地元への嫌悪感(豊かな自然に囲まれたはずのこの地では、「豊かな自然」などという言葉自体が無意味になっており、郷土愛とも無縁なのだ。地図で見てみたこの辺りは新しい幹線道路が数本通っていたが、それだけで日本のどこでもある似たような光景を想像してしまった。)とか、やるせなく行き場のない倦怠感、とかをこの本から感じたのだけど。。。作品のどこかにも、”若者たちの閉塞感”という表現があった。そうか、これらの犯罪・事件は、この本の舞台に限らず全国どこででも起きるのだろうし、様々なタイプの病的な心の状態というものは、潜在的に多くの人にあるものなのでは、という予感を持った。現代日本を鋭利に切り取ったシーンに、読者も惹きつけられるのかもしれない。

土着性のある作品、とも言われているらしい。確かに方言は多く出てくるものの、私には余りそういった作品と思えなかった。全体にロマンだとか感傷だとかを一切排しているみたいなのだ。それは地方や郊外にあったひなびた駅が、ある時を境に綺麗なコンクリートで造り変えられてしまい、便利だけれども平凡な外観になり、でも地元の人も誰もがたいして何も思わず、受け入れてしまう…といった風な感じと似ている。(そして今書いた駅についてのイメージも、私の中の勝手な地方ロマンみたいなものかもしれない。)

全体に面白いし、力量がある作家なのだろうと思ったけど、一方で何か救われようがないというか、少し後味がよくなかった。(石田衣良なんかの方が後味がいい。)だって現実の人口密度的には、もうちょっと善い人や、善と悪の中間層みたいな人達もいるはずなのに。(後半からまた違ってくるのかもしれないけど。)・・・まてよ、これは小説だから現実と比べてはよくない。とはいうものの、作品に出てきたような警官による女児連れ回り事件が現実に起きたし、青年団のような「活動」をしているグループだって、全国には数多いのだろうと思う。ニュースになるような出来事と文芸作品とは、どっちが先(先取り)なんだろう…と考えてしまう。どちらかが先ではなく、「どちらも現実」であって、二つは交錯しつつ進んでいるのだろうか。う~ん、下巻を読むべきか迷う。

※ W村上の後続として、阿部氏や赤坂真理、保坂保志その他、私はまだ余り読んでいない作家が多い。知らない間にこういう作風の作品群が出ていたのだなぁ。。。あと、斎藤美奈子お勧めの多和田葉子、松浦理恵子、 笙野頼子(この人の1冊読んだけど、かなり飛んでいて私は理解しにくかった)なども読んでみたい。(2004.8月)



24.『三島由紀夫 文豪ミステリ傑作選』 河出文庫

三島由紀夫の作品は食わず嫌いなところがあった。あの自決や、彼の思想とそこから滲み出てくるものに、近寄り難さと僅かな怖さを感じていた。でもこの短編集を読んで良かったと思う。やはり三島氏は稀有な人、天賦の才能を与えられた人だったのだろう。

ミステリ集といっても、サイコホラーのような作品あり、幻想的なものありで、普通の短編に近いと感じた。(他の長編に比べてこの文庫はマイナーで、余り読まれていない?) 読んでいてやはり唸ったのが言葉の豊穣さ、語彙の遣い方の華やかさ。典雅で美を感じさせる日本語が次々と繰り出される。単なる美文を超えているというか、言の葉の力が迫ってくるようで、文体の力強い流れ、鋭さにも圧倒された。内容も面白いものが多く、私は娯楽作品として読めた。

『復讐』 はホラー映画にありそうな暗い始まりだ。海辺に住むある一家が、一人の人物に怯えている様子が描かれる。その人物は初め、幽霊のような実体のない対象かと思って読んでいたら、「玄武」という老齢の男らしいとわかる。この玄武という名前が、妙に恐い響きを持つ。(中国の四神で、蛇が巻き付いた亀であるこの名を、なぜ付けたのだろう?などと考えたり。)一家の脅えや恐怖、不安が次第に高まってゆき、ついに玄武の正体が明かされる。(ネタばれすると、戦争中の罪をなすりつけられた人の父親だった。)一年に一度届く玄武からの手紙は、どこかテロの匂いがする。

『孔雀』 は動物園の孔雀が大量に殺された話で、その犯人は誰かを推理していくもの。謎めいた主人公の見た孔雀の表現が、素晴らしく流麗。実際に孔雀を見るより、また孔雀の写真を見せられるよりも、鳥の魅力的な姿が伝わってくるようだった。その男の少年時の写真が美少年だったという設定。これはもしかして作家自身のこと?と思い三島の写真を見てみたら、やや美少年的な顔立ちに見えた。(私は三島氏の少年期や20歳ごろの顔は余り好きではなく、30歳頃が作家らしくて好きだ。)

彼は19歳で既に完成していた、と文庫の後書きにあった。早熟で頭脳が優れていた三島は本当にそうだったのだろうと思う。成人後は精神的には老年、余生と感じていたのでは。既に人生の何たるかや、どう生きるべきかなど、若くして悟っていたのではなかろうか…。作品を読んでいると、全てに葛藤、逡巡、迷いが感じられない。登場人物が迷っていても、それは心底からの迷いではないように感じる。(またこの作品集を読んだだけでは不明だけれど)脆弱だったり、みじめな登場人物…というのが、ほとんど見当たらないとも思った。

三島作品は私にとっては共感しにくいもの、完成し過ぎていると感じられるもの、美的過ぎる点も多い。けれども作品が持つ悪魔的な面も確かに私の中にあって、それに引き寄せられたのだと思う。この本だけで三島の思想や魅力がどの程度わかったのか怪しいものの、見直したい作家だと思えて良かった。詮無い事だが、もっと生きて書き続け、作家として読者や社会に問題提起や希望を与える生き方を選べなかったのだろうか…と思ったりした。(2004.10月)

(作品目次)
サーカス/毒薬の社会的効用について/果実/美神/花火/博覧会/復讐/水音
月澹荘綺譚/孔雀/朝の純愛/中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋



25.『デスペレーション』 スティーブン・キング 新潮社(1996年)

~「ミイラに追いかけられたら、もっと速く歩こうな」~

2005年の読書感想第一号。デスペレーション(絶望)とは、新春にふさわしい題名…(なの?) キングは『スタンドバイミー』と短編集くらいしか読んだことがなく、むしろ映画で観た作品の方が多いと思う。狂犬病の犬が襲ってくる『クージョ』や『グリーンマイル』、『ショーシャンクの空に』等など。キングと知らずに面白いと思って観たものも数多い。彼は多作でカルトファンが多く、モダンホラーの帝王と呼ばれているのもわかる。この『デスペレーション』には冒頭から引き込まれ、ページをめくるのがもどかしく、ラストを読みたい衝動に何度もかられた。長編を一気に読めたのは久しぶり。ホラー小説として読み始めたのに、キングが悪や神をどのように描こうとしているかに興味が出てしまった。(ただ神に関心がなかったり無神論の人には、作品の流れがなんでそうなるの?と腑に落ちずあまり面白くないらしい。)

<あらすじ>  「デスペレーション」という名の寂れた砂漠の鉱山町を通りかかった人達が、邪悪な警官に拉致され、町の住民共々殺されていく。生き残り一行の男女7人は、警官…町の奥深くに潜む<形無きもの>からの容赦無い攻撃と殺戮に立ち向かう。初めは逃げようとしたが、最後にはそれを封じ込める(ここが強調されていた)話だ。主人公になるのがデヴィッド少年と落ちぶれかけた中年作家マリンヴィル。ほかに少年の父、作家のサポーターの男とそのガールフレンド、30代のインテリ女性、町の老獣医らが登場し、それぞれの心理の変化や逡巡、生活背景も詳しく語られている。

読んでいてキング作品の特徴のようなものが少しずつ分かってくる。
・様々な食べ物、流行もの、音楽、文化をやたらとはさみ、どのような時代かを表す・・・といってもアメリカ文化を詳しく知らないこちらには、「グレートフルデッド※」って何?とわけがわからないのだけど。(※ロックバンドの名)
・悲惨な状況でも必ずジョークが入っていて、可笑しみと軽さが出ている。
・舞台の鉱山町や登場人物が抱える影に、奇怪な過去の歴史が見え隠れする点…例えばチャイナ・ピットと呼ばれる廃墟の鉱山で、昔中国人が何十人も事故で死んだことや、核爆発があった砂漠のこととか、作家がルポしたベトナム戦争が思い出されるとか、インディアンの歴史とか。。。
文体は村上春樹などによく似ていて(というか春樹氏がキングから影響を受けたらしい) 読みやすくテンポもいい。一方舞台である荒涼とした砂漠地帯や鉱山町その他は、やはりアメリカならではの歴史を感じ、日本とは全く異なる環境とか異文化を感じた。

最後まで解らなかったのが、太古の昔に鉱山の奥深くに封じ込められた<正体不明の何か>、<それ>…だった。これが作品の通奏低音のように流れ、ある時はおぞましい動物達の祖先のように、また神に対する<邪悪>の象徴のように描かれていた。その正体をキングがはっきり書かなかったのには、何か理由があるのかもしれない。悪魔(タック)とも書かれていたが、悪魔とは何か。。。人間たちの邪悪な部分、歴史の暗部…とも思え、それらの積み重なりを表わしているのだろうか。
あるシーンで「邪悪というのはもろく、愚かで、環境が毒されてしまうと、じきに死んでしまうものだ。・・・・この町の土地は毒された。土が死にたえてしまい豊かになることがないのは、この土地が神に対する侮辱であり反逆だからだ。」とあり、神をも恐れぬ人間の行為をキングは書きたかったのかな、と思った。作品のテーマは、キングお約束の「善と悪の対決」という単純なものでは説明しきれないのではと思う。「神は残酷なもの」と何度も書かれ、神=善と考えられてはいないからだ。
(*あるキングファンの人が、神=人生と考えればいいと書いていて、まさにそうだなと思った。)

絶望とは何か…希望の喪失。あるいは自分のやることにどんな意味も見出せないこと、将来への無力感、空ろさ…だろうか。作品中の凄惨なホラー場面も、それらを絵空事としてでなく、この世界の現実のもの ―例えば、今げんざいどこかで行われている、様々な暴力、戦争、人を害する全てのもの― として読んだ時、現実はかなり不条理で、真に絶望的だなぁ・・・とつながる。そういった不条理なデスペレーションの中で、何を信じ何を頼みにすればわからない時、キングが「神」や「祈り」を持ってきたのは何か意味があるのではないかと思わずにいられなかった。(それが本当に説得力があるかどうかは、また別なのだろうが。) 人生に絶望するな…というのがキングのメッセージなんだろうか。 

11歳の少年デヴィッドは、友達が事故で死にかけた際、祈って神に触れる。その時以来不思議な力を持つのだが、神さまはデヴィッドの祈りにいつもは応えてくれない上、はっきりとした答えや導きも示さない非情な存在だ。(おまけに殺人警官に妹と母を無惨に殺されている。)だから「神さまは残酷だ」という大前提、わかりきったことの上で、さらに祈り続ける。もし祈らなくなったらそこでお終い・・・と感じているかのようだ。

「おまえはもう祈っている。声はそういった。 なにに?
・・・デヴィッドは声に出してうめくようにいった。うん、わかってる。それはつまり、誰も尋ねようとはしないことを尋ね、誰も祈ろうとはしないことを祈る、ってことなんだ。そうでしょ?
声は答えない。」

「なぜ神は残酷なのかな、デヴィッド?・・・・・『神の残酷さは精錬されつつあるんだ』 デヴィッドはいった。」

「(ミラーサングラスの男は言った。)信仰とはなんだ?・・・これはやさしい。『望ましいことの本質、見えないものの証拠』 うん。それでは、信仰篤い者の精神の状態をなんという?『えーっと・・・・・愛と寛容。だと思う』
じゃあ、信仰の反対は? これは手ごわい―――じっさい、いやな質問だ。
『不信?』・・・・・ちがう。不信でもなければ無信仰でもない。不信というのは自然なもので、無信仰というのは意志的なものだ。
無信仰な人物の精神の状態は? デヴィッドは降参して首を横に振った。『わからない』 いや、きみにはわかる。またもやデヴィッドは考えこんでから、そうだ、わかったと思った。
『無信仰な人の精神の状態は絶望』」 


キングが神を信じているのかどうか、結局わからなかった。ただアメリカに代表される現代文明とか現代社会を支えているものに対し、キングが何らかの危機感や不安を持ち、こころや愛(…と書いても漠然としたままだけど…)を手がかりに、抵抗しようとしているのではないか、そう思えた。

<追記>
新聞を読んでいたら、『苦海浄土―わが水俣病』を書いた石牟礼道子氏の記事を目にした。どこかキングの言いたかった事と繋がっているような気がしたので、少しメモしてみた。
石牟礼氏は、<公害であれ不祥事であれ、生産優先のため企業や行政が時に命を後回しにする事象が続いている>という。昨夏、水俣病を能にした「不知火」が演じられたが、これは<公害、戦争などさまざまな文明の陰で理不尽な死を強いられた生命の願いを映している。>という。この理不尽な死を強いられた生命の怨恨の声が、もしかしたらキングが描こうとした<形無きもの>だったのでは?という気がした。さらに石牟礼氏は、<極限の状況で現れる人の心の崇高さ>にも触れ、極限の状況と向き合った時、人間は声高に多弁になったりはできない。大人が一心になり、あがないを求めない行為を身をもって実行することが大切では・・・という。
デヴィッドの祈りは神との契約の形に見えたものもあったが、本質的には、あがないを求めていない祈りであり、行動だったのではと思う。(2005年 1月)




26.『遊動亭円木』 辻原登 文春文庫 2004年

この作家のものは初めて読んだ。遊動亭円木という名の盲目の噺家が主人公。彼を取り巻く人々との生活が、特に大きな事件や出来事が起きるわけでもない中で淡々と進む。その書き方は、どこか落語を聞いているような、軽妙でくすりと笑ってしまう語り口。 なのでこの噺家の物語を、さらに「一つの落語」として読めるようにしてあるのかなと思う。出てくる人々も主人公が住むボタン・コートという小さなマンションの住人達が主で、これが現代長屋にも見える。(ボタンは、円木の妹の旦那が栽培している牡丹から。)前の『デスペレーション』はもともと若人の読み物?で、少々自分に無理な文体と感じつつもつい夢中で読んでしまった。それに比べると、こちらは何ともしっくり肌に添ってくる大人向けの話だ。江戸っ子や下町生まれではない私でも、金魚池、大銀杏、船堀、江ノ島、日本酒に柳橋・・・などと出てくれば、やっぱり日本の情景ね…と思う。連続1週間マクドナルドのハンバーガーを食べ続けた後に、お鮨をちょいと口にしたような。

円木の昔付き合った女性や、ひょんなことから知り合った今の彼女、また円木の妹、 ボタン・コートの元住人の中国人の女性まで、様々な女性が出てくるが、どの人も艶っぽくて茶目っ気があり、優しく可愛らしい。

時たま不意にチェーホフが出てくる。辻原氏が好きなのかな? 幾つかの落語も織り込まれ、それを披露する円木が出てきたり。けれど真面目に落語をやる風体でもない。どこか遊び人がふらふら飄々と生きている感じだ。―――落語界の寅さんか? 短編形式のそれぞれの話の終わりは、現実だか幻だか判然としない成り行きとなり、次の話ではまた夢から覚めて現実に戻って…となる。

最も面白かったのは、最初の話の締めくくり。友人と相撲を見に行ったが、円木以外はTVに映るのを嫌がり帰ってしまう。そんなことも気にせず折詰を土産に持って帰った円木。それを食べた友人の彼女達は食中毒になる。

「円木さん、すまなかったな」と山下の声がしたかとおもうと、円木は三人にとりかこまれた。「悪かったなぁ。おいてけぼりくわせちゃって。」二、三秒、しずまり返った。「だけど、あれはないぜ。あんな意趣返しはないぜ」次の瞬間、円木は三人の手で池に突きとばされた。円木は暗い水の中をおちていった。 ・・・・・・まあいいやな。おれが持って帰った折詰で女たちがあたった。おれも食ったが、なんともない。おれが何か細工したって考えたくなるのもあたりまえだ。池は十メートルの深さがある。円木はゆっくり沈んでゆく。
沈むほどに視界がだんだんあかるくなる。なんだかとても自由になったような気がした。三尾のコメットが口からひょいととびだして、すいと泳ぎ去った。もうそろそろ底につくころだろう。のたりと、大きな赤白まだらのランチュウが目の前をよぎった。


池に落ちた円木、その後も元気にパトロンの明楽のだんなを迎えるのである。(2005年、1月)