本の窓 7

<本 7>





49.『暗いといころで待ち合わせ』 乙一  平成14年 幻冬舎文庫

本のあらすじを読んだ時、映画「暗くなるまで待って」に似せた小説かと思い、読むのが怖くてためらった。馬鹿だったな-そんな事考えるなんて。

視力を失い静かに一人で暮らすミチルという女性の家に、ある日殺人犯として追われる男アキヒロが忍び込む。アキヒロは居間の隅にうずくまり、気付かれないように日々を過ごす。ミチルも次第に変だ、誰かが家に居ると思うようになり、身を守るために 気付かない振りをする、、、。物語は二人交互の一人称で章が進み、二人の過去や普段の生活、気持ちなどが丁寧に書かれていてどちらにも自然に入っていける。難しい文じゃないので、どんどん読み進められる。作者は視覚障害の人の暗闇の世界がどういうことかをミチルの側から丹念に描いているので、それがよくわかってくる。彼女が家に閉じこもり、ただ毎日じっとうずくまっている様子、TVを少し聞いたり食事を作る以外は何もしないこと、このまま死んでいければいいと思う様子、唯一人の友人カズエとしか話をしないこと。

二人は出会うまで孤独だった。むかし友人や同僚達から小さな苛めを受けたこと、傷つくのが判っているのだから周囲とは接触しないで一人で生きようと思っていたことも同じ。それが互いに全く会話が無いのに、「そこにいる」という互いの感触を得て、どちらもが変わり始める。お互いが孤独からの脱出のきっかけになっていく。アキヒロは同僚を殺した疑いで追われている、という設定が話をサスペンスにしていて、最後まで緊張感をもって読める。伏線の張り方、信頼が生まれ始めてもそれをなし崩しにはしない二人の気持ちの有りよう、なども上手い書き方だと思う。またアキヒロは自分の今までのあり方を省みて、次第にあることに気付き始め、ミチルも自分の中で固まっていた部分に気付く。。。全体に静かで地味な成り行きなのに、じわじわ涙腺がほどけてくる。多くの人の心を動かすものって、何なのだろうと不思議に思える。

父親が打った点字のメモをミチルが読めなかった箇所には微笑んだ。「るくてっいにのもいか」・・・父は普段自分が書くように、文字を左から右へ打っていたのだ。
昔1冊だけ詩集を点字で作ったことがあり、文の位置は読む時に逆さになることはわかってたのに、字の凹凸が逆になって出ることには気付かないまま、打っていた。

この人のは3冊目で、短編がいいと思ってたら長編も面白い。乙一さんを心から応援したいと思う。(2006年.4月)





48.『仮面の告白』 三島由紀夫  新潮社

ミシマというと、いろんな意味で構えてしまう。私には絶対的天才に思え、本当は感想を書くのもおこがましく畏れ多い気がする。同じ文豪でも漱石や太宰、川端などのは平気で感想書けそうなのに三島は「論じなければならない人」に見えてしまう。それだけ作家としても思想家としても社会的に影響が大きい、と私が思っているからかもしれない。どんな批評や感想をもってしても、彼の思想を完全に理解し把握できたとはいえないんだろうな・・・という完璧さを感じるから。

でもやはり普通の人でもあったのね、とこの本から思った。案外小心ものの面も見てしまったし、アブNO○な自己に懊悩している所や、コンプレックスについてもしっかり読んだので、前ほど高所にいる三島を見上げている風でもなくなった。 そうはいっても、三島式劣等感は、本当に「人より劣っている苦しさ」にはどうしてもみえない。百科事典で自分を説明しているような、徹底的に分析しきった上での自己評価なので、どこか劣等意識を苦しみつつ同時に楽しみ、自虐のたねにし、話のたねにもしていて。。。(まぁ作家自体がそういう人が多いのだけども。) 結果、本当にどれ程の劣等感があったのかどうか、こちらにはわからなくなる。騙されちゃったみたいな。三重、四重の裏読みが必要といったらいいのかしら?そして彼は書くことでカタルシスとか気持ちよさを絶対感じていたのだろうなと思う。

読み始める前は、たぶん難解だろうし、いつもの美文調に抵抗を覚えるんだろうなと思っていたら、わりと読みやすく、修飾語や修辞法の勉強になり過ぎるような独特な文にも段々慣れてきた。若い頃読んだら、きっと受け付けない話だったろうな。こういう内容のものを読むこと自体、背徳的・・という気もする(笑)。なのに読んでると純粋に面白い。人の秘密・告白を聞けるという興味もあるんだろう。懺悔とか告白は、どこかそそられるものがある。そんなこんなを思ってると、既に三島的誘引術にはまっていそうだ。(というかやっぱり身構えすぎ?わたし。) 「仮面の」と付いているからには、本当の告白かもれないし、そうではないことも有り得るんだよ?という含みもあるわけで、なんだか狡知を感じる。

まずごく幼い頃から男性に妙な情動や憧憬を感じていた描写(それが本当のことだったとして)には驚いたし、噂に聞いていた彼のそういう面をごく理性的に描写している面に、まず引いてしまった。それに加えて有名な「聖セバスチャン」の絵に対する尋常ならざる情欲、、、。その絵を見てみた私には何の感情も湧かなかったけど、それを真似たデビッド・ボウイや、どこかで見た三島の扮装写真には、何だかギョッとさせられる鬼気を感じた。本人達はどこか嬉嬉としていたとも言える? ただ美しいものに憧れるだけじゃ済まなくて、それを暴力的に傷つけたい痛めつけたいという。。。例えば私が天海祐希さん(元宝塚女優)や、ダヴィンチに描かれたマリア像などを見て、うっとりしてしまうのと似てるような気もするけど、彼女達を傷つけてみたいとか苦しい表情に何か特別な感情を感じる…といったことはない。(TV「女王の教室」で生徒と死闘を繰り広げていた彼女を見ても、なんにも。)本にも書かれてたように、憧れを超えて対象に対する激しい嫉妬…自分がそうありたいのにそうできない、だから…という嫉妬の極限に達した果ての感情なのかな。ここに彼の物凄い意思…何といったらいいのか表現できない複雑な力(志向力)のようなものも感じた。

三島ってスタヴローギンに似ていると思う。何もかも知ってしまった超人。そこからくる虚無的な考え方、見方。。。三島の方は結婚して社会的な活動もし地位を得ていたけれど、どこか全てを見通して悟り切った上で、社会人を演じていただけのようにも思える。
でも逆に何もかも知り尽くせなくて、ずっと足掻いていたようにも見える。

やはり謎めいていた点は、一方では若い無智な男性に肉欲を感じてしまうのに、清潔な若い女性にも精神的に惹かれてしまうという部分。彼は完全には同性愛者じゃなかったんじゃないだろうか。う~ん、でもやっぱり分からない。三島について考えていると、自分が分裂してきそうだ。。

何となく、三島の女性への感じ方が、そのまま私の三島への感じ方にちょっと似てるかなと思った。説明は難しいのだけど、なんとなく。

・・・・・・・・・ここまで書いて力尽きました(笑)。後半の感想を何か書くかもしれませんが、とりあえずこれだけで。

作品の中で一番いいなと思ったのは、園子という女性に会う場面の描写。朝のような姿だとの比喩で。(また時間がある時に引用します。) (2006年.3月) 





47. 『詩集 見えてくる』 塔和子   編集工房ノア
 『素直な疑問符』 吉野弘  理論社
 『ぼくの航海日誌』 田村隆一  中央公論社

********************

独楽 (コマ)    塔和子

自らの虚しい重さ
円形のかなしい広がり
コマは孤独であった
少年の手に廻されるまで
ひとたび廻されると
孤独はエネルギーとなって
心棒から外界へ力強く
はてしなく展開し廻りつづけ
廻っていることを感じないこのとき
コマはいっしんに見ていた
いのちのしんの
地から天に向かっている充実
ゆるぎないバランスの中にある自分
神秘な勢いの中で
静かに成熟してゆく時間を


独楽は「独り楽しむ」と書くんだな。
「コマはいっしんに見ていた 地から天に向かっている充実 ゆるぎないバランスの中にある自分  静かに成熟してゆく時間を」
このフレーズがいいな。コマを見ている人はコマに同化できる。いつか止まりコトリと倒れるはずなのに。永遠に回り続ける気がして見てしまう。回っているのに静止していると錯覚して。何かの比喩だと思えば面白い。

作者は15歳でハンセン病を発病し、療養所で半生を過ごした。詩の多くは、どこか哀しいのに生への喜びも表れていて、透明感があって読みやすかった。

**************************

田村隆一の詩集は以前読んだことがあるような。マリ・クレールという女性向け雑誌に掲載していた詩。戦争体験があちこち書かれていて、いいなと思える詩は少なかったけれど印象的な幾つかの言葉をところどころ拾ってみる。

  ぼくの内なる「モナリザ」は失踪する いれかわって大量殺戮の嵐が来襲して ―

  「個性」などというものは信じない ぼくらは「個人」になることで無名にして共同なる森がつくられるのだ ―

  一篇の詩は かろうじて一行にささえられている それは恐怖の均衡に似ている ―

  おそらく偉大な詩は 光の速度よりもはやいのかもしれない ―

  白という色を産みだすために ただそれだけのために ぼくは詩を書く ―



************************

吉野弘「素直な疑問符」という題の通り、素直で平易な詩が多い。わかりやすくて具体的。(知られているのは「虹の足」や「夕焼け」など。)

「怏おう」の中に「快」がある
「怏」は、心楽しまぬこと
「快」は、心楽しむこと
(略)
己の屋台骨の大部分が「快」なのに
なぜか心楽しくないのだ
その道理は多分・・・と「快」は思う
快自身が移ろいやすく保ち難いもの
微量の不快にもあえなく崩され
胸中はおしなべて索漠
つまりは「怏」が胸の王なのだと


そのままの意味(笑)。二つの漢字をよく見ないと、意味も間違えそう。楽しさ・嬉しさを感じる時でも、頭のどこかで(これは一瞬のさま。あとで虚しくなる) と思ったりする。熱くなりやすいのに、醒めていてクールで意地悪な自分もいる。吉野弘はもう少しパンチがあるといいかなと思う。ドッキリする言葉が少ない。(2006.3月)





46.『地の群れ』 井上光晴 河出文庫

十代の頃に原爆に関心を持って、本を読んだり広島を訪ねたりした。広島が私にとって最も身近に感じられる戦争とかナチスであり、家庭や学校以外の世の中だと思えて・・・だったのかな。井上はマイナー作家の一人なんだろう。ひと頃に比べれば余り読まれていないみたいだけど、読み終わって私には外せない作家だなと思った。

<地の群れ>とは、戦後しばらくして長崎の「海塔新田」という架空の地域近辺に住んでいた部落の人、朝鮮人被爆者、炭鉱労働者たちだ。かつて確かに存在していた日本人たち。彼らは生まれた時から呻き続けている。叫んでいるけれどそれは周囲に響くことは稀で、彼らの中だけでブスブスと渦巻く。

読み終わって暗澹とした気持ちが残るだけだった。救いがないし。それは作者が、被害者が助けてくれという作品にはしたくない、と言ったというそのままだ。浦上天主堂のマリア像の首を粉砕した少年、被爆時長崎に居た事実を次第にそうではなかったと信じようとする女性、少女を犯して自殺させた医師とその妻、友人、医師は部落出身者だった母を父から離縁されている。そして呻く人々が、互いに加害者となり被害者となってゆく。

正直な感想として、人物達が話す言葉や行為には美しさは感じられない。どこか醜く、耳に障るような語り口、とりとめのないものばかり。けれども登場人物おのおのが、怒りと呻きを、全くそれとは見えない違う形で体現しているのではないだろうか。犯罪や、嘘や、沈黙や、不器用な言葉という形で・・・。もしくは彼らの言葉そのものが、誰にも理解できない(どこか理解を拒むような)ものに聴こえる。理解できないように感じるのに、なぜか迫ってくる。

これが現実。何の虚飾もない。(これと一緒に読みかけた三島の短編が作りものにみえてしまったのは、題材が全く違っていたせいだろうか。どちらも小説という作りものではあるけれど。)地の群れはその後どうなったのだろう。今も存在しているのか、解体していったのか、形を変えて別の群れとなっているのか。。。

解説では、「すべてを許すものをなお弾劾する作家」とあった。作品は1963年、今から40年前に書かれたもの。戦争も原爆もその他いろんなことが今も続いているのではないかと思う。それ以上に、私は何かを本当に知ることが出来ているのかなという問いも残ったままだ。 (2006年.2月)




45. 『梟の城』(ふくろうのしろ)  司馬遼太郎  新潮文庫

~化生という忍者の生き方~

司馬氏は有名なのに、長編のイメージを持っていたせいか今まで読んだことがなかった。今年は大河ドラマ功名が辻」が始まったせいか、本屋に大漁の水揚げサンマのように並んでいる。(というか毎年同じような人気。) ずっと前買っていたこれをたまたま読み始めたらとても面白かった。大衆小説とされてるらしいけど、私は純文学として楽しめた。なんたって忍者がもの珍しくて…(笑)。漫画の「忍者ハットリ君」しか知らなかったんだもの。 聞こえはよくない一種のテロリスト、スパイ。その化生(けしょう)という生き方に惹かれたのでござる。

情景描写も心理描写も一流ではないかと思う。(と今さら私が言うのも何だけど。)時代考証なども非常に綿密で、氏の博学さを感じる。梟(ふくろう)とは忍者をさすらしい。忍(しのび)、乱波(らっぱ)等と呼ばれ、聖徳太子も忍者を使っていたという話には驚く。

時代は豊臣秀吉が天下を取ってから、やや勢力が衰え始めた頃。主人公の伊賀忍者-葛籠(つづら)重蔵が、かつては仲間だった風間五平に追われながら秀吉暗殺を狙う物語だ。そこに重蔵の師匠や、謎の九ノ一で重蔵を慕う小萩、五平の許嫁ながら重蔵を好きな木さる、甲賀忍者のつわもの達、堺の商人、大名・家臣らが絡む。(女としては小萩よりも木さるの方が愛らしくて好きだ。)

作品の中では友好関係にある人達…というのがほとんどおらず、師弟、相弟子、男と女、雇い主と雇われ者、郷の異なる忍者みなが心を許し合っていない。ところが読んでいくと、どのキャラクターもかなり魅力があり、敵対しているのに可笑しみが感じられる会話を交わしたり、互いに好いたり、尊敬の念を抱いていることがわかる。司馬氏はかなりユーモアのある人みたい。

重蔵はただの強靭な忍者に見えて、哲学する忍者だ。どんな物や人にも心を動かされない完璧な仕事師ながら、敵を前にしてふっと心が揺らぎ、相手に情を覚え、忍者意識が消えかかる。「美しい城を見て通力が失われるような」感覚にも陥る。それは忍者として徹底的に仕込まれた技や精神を超えての、<不可思議な反忍者ごころ>といったらいいのだろうか。。。小萩に対して恋心を抱き始めた時も、彼女を警戒し殺すことも辞さない半面、哀れみと情を覚えはじめながらも、彼女と自分とどちらが先に忍者としての隙を見せたのかを冷静に観察する。(このシーンは、息詰まるような、高貴な描写だった。) おのれという存在への疑問を持ち、自嘲もし哀れだとも感じる。そんな感情や心映えが、とても魅力的だった。読後しばらくは忍者マイブームだったので、忍者のフィギュアーとか変装セット(・・誰がどこで使うの?)をネットで見たりした。

実際に重蔵のような忍者がいたかどうかは分からない所だけれど、、、虚仮(こけ)という人間の影、闇の部分で生きようとする人があの時代に生きていた、という事実に何よりも引き付けられる。現代で探しても「どこか」にいるように感じる。それは社会には見えない非(否)社会的存在(非合法な人たち、アウトサイダー?)として居るのだろうか。ともあれ去年の夏目漱石と同じく、私にとってのホームランだったかもニン。


<忍びの心には他国の武士のように一定の規律がない。常に事象に対して過敏に変幻し、ついには古い忍び武者になると、おのれの心でさえつかめなくなるという。・・・・・・・この男は、自らの心の変幻さを、自ら批判することさえできぬまでの流動の中で生きている。それは、事実化生ともいえた。>

<この目は、自分の人生にいかなる理想も希望も持ってはいまい。持たず、しかもただひとつ忍びという仕事にのみひえびえと命を賭けうる奇妙な精神の生理をその奥に隠している。その奇妙な生理が、この男の目に名状の仕様のない燐光を点ぜしめている。>

<諸国の武士は、伊賀郷士の無節操を卑しんだが、伊賀の者は、逆に武士たちの精神の浅さを哂う。伊賀郷士にあっては、おのれの習熟した職能に生きることを、人生とすべての道徳の支軸においていた。おのれの職能のみに生きることが忠義などとはくらべものにならぬほどいかに凛冽たる気力を要し、いかに清潔な精神を必要とするものであるかを、かれらは知り尽くしていた。>


★お薦め本 (2006年 2月)




<苦しまぎれの?番外編>・・・半分辺りで止まったままの本 

『李歐(りおう)』 高村薫 文庫

この作家の長編としては初めてでした。小道具になるピストルの作り方が精緻を極めて描かれてあり、良く調べたもんだと感心したり、登場人物の描き方(男性達の濃い友愛とか)も面白く、一気に半分まで読みました。その後他の本に移ったためかよく覚えてないのですが(笑)、何となくそのままに。

ファウスト』 ゲーテ  文庫&ハード

第一部は訳が分からないながらも面白かったのですが、二部に差し掛かった所で止めてしまいそのまま。 魔女が登場しメフィストフェレスが出てきたりで、戯曲という形式もあってか読みやすかったです。けれども。引用されている各言葉や 文章が古今東西の名作から来ているんだろうなーと感じるものの、肝心の元の書物などを知らないため(悲)引用や隠喩の面白さを 楽しめず、もどかしくて。高橋訳で読み池内訳でも挑戦しましたが、自分の性質に合わない?完全無欠なゲーテ氏?を感じたのが原因かも。。。(なんて理由だ)

『理由』  宮部みゆき  文庫

彼女のは短編ばかり読んできたので長編も…と思い半分まで読みました。主人公は特定せず、一人ひとりを丁寧に書いていて 良かったのですが、前半が裁判の尋問調書みたいで(私は理路整然としたのが苦手なので)だんだん疲れ、放り出したままです。なので他の人の感想を読んでみたり。事件のその後は気になったし。

上弦の月を喰べる獅子』  夢枕獏  ハードカバー 

宮沢賢治を題材に取り上げた小説―というふれこみに惹かれて読みかけました。「仏教の宇宙観をもとに進化と宇宙の謎を解き明かした空前絶後の物語」ということなので、内容は興味ありました。妹との関係がかなり刺激的かつ驚きの視点で捉えられてました。まぁ想像だから何とでも言えるねと読んでました。この世の全てが螺旋(らせん)で表される・・・という解釈には、な~るほどと思いました。今それを説明せよと言われるとできません(笑)。アンモナイトなどの挿絵がエッチングのようで綺麗でした。

『ペスト』 カミュ 新潮文庫

再読本。以前読んだ時はカミュはかなり人気のある作家でした。フランスの学生運動に影響を与えたの?か、日本でもまだ話題に上ることが多かったと思います。彼の短・中篇も好きでわりと読んできました。ペストが次第に街の中にはびこり、人々がやっと 状況を受け入れ始める……ところで止まってます(笑 これからが面白いのに)。これはいつか読み切りたい本。





44.『脳と仮想』  茂木健一郎  新潮社  2004年

著者の名前は少し知っていて、何か読んでみたいと思ってたら友人が借してくれた本。

・「仮想」は imaginationと書かれていたが、「想像」「空想」とはまた違ったニュアンスにとれる。著者は、現実に比べて価値を認められにくい「仮想」というものについてその切実さを説き、創造を育むもの、他者や現実を自分なりに理解するための手立て、として重視している。(本の内容のすべてが理解できたのではないので、わかった範囲だけでの感想。) 読んで一番の感想は、やっぱり脳科学の話は難しい。けれど脳が意識を生み出し、人がこころを持つことの不思議さや素晴らしさを、分かりやすく懇々と説いていたと思う。人間の経験の中で計算できないものを脳科学では<クオリア>(質感)と呼ぶらしい。この主観的な体験こそが人を人たらしめ、仮想となって現実を豊かに把握することができる、という。

・「脳の中に用意された仮想の世界の奥深さによって、現実を認識するコンテクストの豊かさが決まる。」
――これは小説を読んでいる時なんかに、特によくわかる。登場人物の奥行きが感じられる時、その作家は現実を深く見ているのだろうなと思える。逆にいえば、私自身が何かを感じられない時、もしかしたらそこに自分の仮想の限界があるのかもしれないとも思う。漱石三四郎』の中からの「日本より何より広いのは、頭の中だ」という箇所の引用は、私も『三四郎』を昔読んだ時、同じく印象に残っていた。他にもワグナーのオペラや小林秀雄の蛍の体験、樋口一葉などを紹介している。脳科学者なのに(なのにといっては失礼)文学や芸術に造詣が深い人のようだ。

・また人は、生きる上で傷つけられることが避けられないし、芸術は人の心を傷つけることで感動させる、という。 傷ついてもなお生き続けなければならない時、仮想の意味が出てくるらしい。傷を受けて脳を再編成しようとする時、仮想が支える魂の自由によって、苛酷な現実に向かい合えるという。仮想は、何ものにも捕らわれずに自由に広がる羽、というのは心からわかる。・・・・例えば大切な人や自分が、とうてい耐えられそうにない苛酷な運命に合った時、これは夢なんだ…と思い込むのも仮想だろうし、宗教的なものへと向かうのも仮想かもしれないと思う。人間が考えつくもの全てが仮想? 著者が言うように仮想の力は人間になくてはならない必然性のある能力の一つなのかなと思えた。

・読んでいてドストエフスキーの『二重人格(分身)』を思い出していた。さえない自分の身代わりに分身を創ってしまった主人公は、現実で傷ついた自分を救うための仮想劇を演出したかのようだ。(ドストエフスキーの作品には、そうした仮想をよすがに生きてるような人がやたらと多いのだけど。) この『二重人格』の主人公のように、破滅への道をたどる場合とか、現実と仮想の境目がわからなくなる人、仮想によって現実との差に幻滅し、さらに仮想へと走る人…だってあるのではないかと思う。その危険性や負の面(一概に負、とは言えないかもしれないけど)については、茂木氏は余り書いていないのではと思った。そう極端でなくても疑心暗鬼とか、人が信じられなくなる場合などあるだろう。仮想が素晴らしい力になるか、破滅や狂気になるかのボーダーラインは何なのだろう。あるいは紙一重? 仮想自体が、もともと混沌とした実態のないものではある。

・仮想の最大のものって何だろうな。「ヒトの心」とか「死」? そういえば、人の心が完全に読み取れる人は誰もいないし、死や死後の世界がわかる人も誰もいない。

・「太古から延々と続いてきた人類の仮想の系譜の中に連なること」 …私たちの生命、身体、意識が日々生成していること…それを真に知ることが、生きる悦びにも繋がるという。 これ、自分で体感できることは何だろうな?と思ってみる。そんなに毎日、瞬間ごとに何かに感動できるものでもないし。う~ん、読書していて心の底からグッときた時や、人と話していて異様に盛り上がった時とか、深く感じる景色を見てる時とか、、、「心がふっと思わず動かされる時」がそれなのかな。(動く、のではなく、受動態で、動かされる時?)

・最も印象に残ったのは、最後の<魂の問題>の章の言葉。仮想の話から、茂木氏の人生観へと展開しているように思えた。

「私たち一人にとって、自分の魂の幸福ほど大切なものはない。しかし、世界は、一人一人の魂の幸福など、歯牙にもかけないように思われる。悪意がそこにあるわけではない。(略)無慈悲に続くこの世界の因果的進行であった。」
「アンビヴァレンスを回避し、予定調和的に全ての魂が幸福を得る。そのような形で、世界を設計することは、ひょっとしたら可能だったかもしれない。しかし、もし神というものがいるならば、神は、なぜか、そのような形では世界を設計しなかった。」


これってS・キングの『デスペレーション』の内容と同じではないの?と思う。キングも「神は残酷だ」と何度も繰り返し、それに立ち向かう人々や祈る少年を描いていた。キングの意味しているものははっきりとはわからなかったけれど、<なぁ、苛酷な人生に向かおうよ一緒に。>というメッセージを読者に向けているような気もした。
人が、人の力になれるって、どういうことなんだろう。(2005年.11月)





43.『蝶のゆくえ』 橋本治  2004.集英社

母親が18歳の時に産んだ子。母は再婚して新しい男と暮らすが、親として未熟な二人に虐待され死亡。「ふらんだーすの犬」。
二度も二股かけられた男に呼び出され性懲りもなくまた会ってしまうOL。「ごはん」。
友人の妙な言動に戸惑い、自分の気持ちも見つめ直す短大生。「ほおずき」。
深夜コンビニにたむろっている若い男たちに注意したことがきっかけで暴行を受け、夫が殺された主婦。「浅茅が宿」。
夫の仕事の都合で、舅と姑と暮らし始めた三十代の女性。「金魚」。
母親が怪我をしたため、久々に故郷に帰り同窓生に会う主婦。「白菜」。 (一部書籍案内より)

 ***

これも偶然手に取った本で、女性が主人公の短編集だった。前の「花物語」に比べて、歳をとり人生を生きてゆく上でどうしても向き合わなければならない現実が、淡々と示される。それぞれの短編は、少しずつ書き調子の違うものだった。

最初の「ふらんだーすの犬」は、この本の中で際立って良かった。悲惨な虐待の話を静かに書き進め、TVで報道されるような虐待に向かう若い夫婦達の姿が、決して特別なものではないことを何となく教えているように思えた。子どもが主人公のように見えるけど、母親が主人公なのでは。。虐待する母親もまたその母から虐待行為を受けていたこと、子どもへの話しかけがぞんざいで、”子を育てたい、育てよう”という気もちが無いのが印象に残った。私が子育てしていた時の、似た感情や日常のあれこれを思い出す...。
でも作品の最後の一行に救いが用意されていて、ほっとした。

それに比べて「ごはん」と「ほおずき」は、「花物語」の延長にあるような主人公達で、元気で明るさのある話だった。この二編はけっこう面白くて、私にはない感情とか気持ち、あるいは同じ感情を持った主人公達の会話、心理が飽きずに読めた。この若い女性達のその後をもっと読んでみたいと思った。女の19歳は問題が多い・・・ある日急に何を言い出すか、しでかすかわからない、と書く作者の目にはかなりの観察眼を感じて、女性の描き方が上手いなと思った。

「金魚」は、見た目は立派なインテリの家庭が実は秘密を抱えていて、ある日がらがらと音を立てて崩れていく…穏やかな外見は変わらないまま、姑のふと漏らした一言で嫁がそれを感じる…という話で、ちょっと後味の悪い結末だった。
浅茅が宿」は夫を殺された妻が、殺した犯人にはなんの感情も抱かず(これは現実には不自然なのだけど、それを案外感じさせないで、死んだことを知った後の心の混乱を丁寧に書いていた)、結婚して初めてといっていいほど、死んだ夫とこころを向き合わせ、自分が本当は夫と何をしたかったのか、なにを求めていたのか、をしみじみ感じる過程が良かった。でも戦後の経済成長と歩調を合わせて生きたことについて説明が多すぎ、それは要らないのではと思った。

この作家はいちいち主人公の心理を、その人物自身で意識化させているなぁと思った。「こう思った自分は、だからこうなのだ」とその時々で気持ちを整理したり客観化してるようだ。(2005.11月)





42.『花物語』 橋本治/  絵・さべあのま 集英社 1995年

この人の本はたぶん初めてです。名前は知っているけど何となく読んでないな、という作家が私にはけっこういます。読んで良かった時は、あ、もう少し早く読んどけばよかった、今まで損したと思うのです。この人もそうでした。

思春期の人向けの童話のような本で、全体にほんわかした雰囲気が漂ってます。この作家ってこういう文を書く人だったんだぁとちょっとびっくり。これが『青春つーのはなに?』とか『上司は思いつきでものを言う』という本の、同じ作者なんでしょうか?「花物語」を初めての橋本本として偶然選んだのは、よくなかったのかしらん…いいですよね、きっと。

正月を留守にするので、部屋を掃除しなさいとお母さんから言われてふくれるマホさんの「大掃除」、田舎のおじいちゃんが同居するようになり、TVを一緒に見ているのがどこかウソだな、と思ってるトシオくんの「夏休み」、初めて失恋をしてそれまで気付かなかった日陰のあじさいを見つめるミチヨさんの「紫陽花」など、、、。

誰でもがいつもの生活の中で思うこと、感じていること、揺れていることを、まっすぐな眼で書いています。その、さらっとしたあったかさがいいです。主人公たちはいつも何か小さな発見をして、すこしづつ変わっていきます。なぜだろう、何の力なんだろう。。。その人の中にある何かが、あることをきっかけにだったり、ある花を見ていてだったり、なんだかわからない理由で新しくなり、変化していくのです。あかるい方へ。

さべあのま(変わった名前・・)という人のイラストも、何気ないいまの風景を昔なつかしく描いていて物語とよくマッチしてました。(2005.11月)