本の窓 6

  ◆◆   本 6  ◆◆



 41.『ブッダの世界』  玉城康四郎/木村清孝  1992年 NHKブックス

この春から秋まで、就寝前に少しずつ読んでいた本です。仏教の世界は広くて深いんだろうなーと思い、私にもわかりやすい入門書があったらと探しました。本はできるだけ原典を読むのを心がけたいところですが、仏教は資料が膨大で読みきれません。。。宗教はよくわからないと思いながらも、昔から興味があって。大学教授の玉城氏が対談を元に書かれた入門書ですが、筆者が悟りに辿り着くまでの体験記としても読めました。仏典や教団の紹介があったり、ブッダの一生や禅定と解脱、弟子との交流などが中心に書かれています。その専門的な事柄や説明は、これ一冊読んだだけではやはり本当にわかったとは言えませんでした。むしろ仏教は何を教えようとしているのか、という大まかな根本を筆者が平易な言葉で伝えようとしていて、いくぶんかは理解できたように思います。

   ***

ブッダは、「人間をはじめ 生きるものについてはすべてわからない」 、としている。この世を流れ、さまよっていることの根本は何もわからない。(仏教でいう輪廻については、原始人も、大きな天地の運行とともに生も営まれていると感じていたし、古代ギリシアでも同じ考え方があったという。)はるかな過去からの行為の積み重ねの結果として、いまここに生きつつある我われ自身ということ。私自身がそのまま宇宙共同体であり、もっとも公のものということ。自分は「私」ではなく「公のもの」 というのが、印象的だった。

また、けっして自分一人だけが仏に帰依して誓うのではなく、衆生と一緒になって仏の道を体得し、究極の悟りに目覚めようという目標がだいじ。(衆生とは業熟体とも言うらしい。) 頭で理解するのではなく、全人格体で頷いていくところに深い味わいがあると。それから「法に帰依する」とは、現代的に解釈すると、全ての宗教や思想を受け入れること。形なきいのちが、われわれ自身に顕わになる、ということを理解するのがだいじだ、という。仏教だけでなく、あらゆるものを筆者は「いのちの言葉」として見なしている所に、私は共感を覚えた。

解脱や悟りを開くのにも段階があるらしい。その途中では幾たびか前進後退を繰り返すらしいが、終いにそれが一つの所に落ち着く。その時には、どうも自分(自己意識?)というものが自然に消えるというか、消えたように体感するものらしい。如来というのは形なきいのちそのもの。いのちが自分に露わになり、自分と融けあうと、煩悩は尽き果て、なすべきことはなされ、あたかも樹が根こそぎなくなるように、迷いも煩悩もすべて無に帰して空になってしまう。(ダンマが顕わになる、ともいうらしい)…こういう感覚は体験したことないけど、たとえば自然の中にいて心がふっと静まったりやすらいだり、夕焼けに見入っていて同化してしまいたい…と感じる時に近いのかな~?と思う。 

ブッダの教えの究極は、難しい反面、意外とシンプルなのではと思える。
<一切はわからないことだ。自分のも人のもいのちは大事にしましょう。内側から吹きあげてくるいのちに従って生きよう。日常生活がそのまま仏の世界。>
等など、、、。求道者や修行僧だけが会得できるものではなくて、もしかして数十年生きていると、凡人でも自然にわかってくることなのでは?とも思える。(←やや暴論。わかるというレベルも相当違うんだろう。)

筆者は仏教を学びながら長い間坐禅も行い、見性体験(一種の解脱)を重ねたり、またそれが元に戻ったりを繰り返したらしい。解脱してもまた後戻りしてしまう、というのがやはり人間なのかなと思う。がそこで諦めずに禅定を続け、絶望しながら勉強もしていたら、60の時にやっとダンマが顕わになり、70過ぎて仏教の全体が見えてきたという。修行や信仰は厳しいものなのである・・・。

私は特定の宗教を信じている人間ではないけど、宗教って、知識や理解で終わるものではなく、行動に結びついてこそ意味のあるものだと思う。ともあれ、ちょっと賢くなった気がする。(2005年.9月)





  40.『行人』  夏目漱石 新潮文庫 

漱石は『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『三四郎』『夢十夜』くらいしか読んでない。芥川の短編などに比べると漱石は何となく面白くないと思っていたのに、この作品で魅力を発見してしまった。

初めの章「友達」は、主人公の二郎 が友人三沢のいる病院へ毎日見舞いに行くだけ。そんなに暇なのと突っこみたい悠長さ。でも三沢が大切な思い出にしている女や知り合いの入院患者など、伏線になる女性が出てくる。漱石は意外と男女関係にこだわった作品を書いていたんだな…。何の予備知識もなく読んだので、物語が次第にじんわり沁み込んできた。二郎の兄の一郎、嫂(あによめ)、父母、妹、友人Hらが登場する章では、すっかり漱石ワールドに慣れてきた。地味な成り行き、簡潔なせりふや情景描写にもなじんできた。(ドストエフスキーと比べて漱石の個性もよくわかり、話の先が想像できそうな作品は何ていいのだろうーと思った。)

一言でいえば、【兄一郎の深く重苦しき悩みと不安】←(それを周囲の人間がどうみているか)を描いたものだ。
漱石はごく克明に人物の気性や心理を書いている。とりわけ弟からみた兄像と、友人のHから見た兄像が鋭かったと思う。兄という人はどこか人間存在の不安を感じている。「自分のしている事が、自分の目的になっていない。方便にもならないから苦しい。」 他人の心や、親の心でさえもわからない、信じられないことを非常に苦にして孤独を感じている。妻とも心が通わず、実の弟との仲を疑っている。

  誰にとっても、"他者の姿、ありよう"というのは、周囲の人との関係の中でしか浮かび上がってこないのではないか。人の心の中など、考えればかんがえるほど謎だ。それを兄という人は余りわかっていないと思われる。・・・ように描かれている。「周りのニンゲンのほんとうの姿はどれだ、どれだ?」と疑心にかられてばかりだ。いえほんとは分かっていて、こころというものが謎だからこそ苦しいのだ、という気もする。他人のこころだけでなく、自分の心もわからない・・・それがまた苦しみを増す。
一郎は心から愛した人(というか惚れた相手)はいなかったのか。愛された記憶はなかったのかな。その辺りが過去の出来事としてもまったく書かれていないので、なぜ生真面目で誠実そうな兄が苦しみ続けるのか、初めはわかりにくい。(友人の手紙で次第にわかってくるのだけど。) 兄がたった一人だけ気に入ったと思われる、お手伝いの貞という女性がいた。彼女はまったく欲や我(が)というものがなく、飾り気なく無印良品のような女性だ。貞が嫁ぐ時、一郎とわずかな時間を二人だけで過ごす場面があって印象に残る。

一郎がどうしても心を通わせられない妻の直は、モナリザをもっと冷ややかにしたような笑みを浮かべ、どこか内にこもった感情や情熱を感じさせる。義弟の二郎に対しては、二人だけで過ごす夜に誘うような態度もとり、不可解でそら恐ろしくもある。兄と弟との奇妙な心理的三角関係にも見え、何を考えているのかずっとわからないままだ。
でも、嫂も本当は苦しんでいたのではないだろうか。夫に寄り添おうとする気はあるのに、どうしてもそれが出来ない(何かの別な理由があるのかどうか…?)、愛想下手なイヤな自分への嫌悪感とか、諦めとか、夫に言いたいことを言えない立場への静かな抵抗やら。『白痴』のナスターシャの忍従度が増したら、この嫂になるのかな-と思ったり。 彼女の心の内が書かれていないのは、漱石さんずるいよ。謎めいた所を幾らでも推測できる面はおもしろいけど。哀れな人にも見えた。(彼女の側から描いた『行女』とかがあってもいいのにね。)
ともあれ二郎は、彼女を様々に分析していた--しっかりもの、囚われない自由な女、天真の発現、忍耐の権化、結婚当初から何もかも超越していた等--けれども結局理解し尽くせないようだった。なんとなく嫂は封建制度の中で自我が出しきれず抑えられたオンナにも見えた。夏目漱石の生涯で女性関係はどうだったのかよく知らない。互いに深くまで理解し合えた女性はいなかったのだろうか、、、気になった。

後半、兄と友人Hが旅行に出て、Hからみた兄の人となりが書かれた長い手紙が二郎に届く。これがとても良かった。兄とHは身辺の話から次第に神や人間存在へと真剣に話し込み、禅問答のようになったりもする。一番心に残ったのは、

<モハメッドは、山を呼び寄せようとして山が動かなかったので、自分から山の方へ歩いていった。一郎は、山がこちらへ来るべき義務があるのだから、自分からは行かないと言う。しかしHは、こっちに必要があれば幸福のためにこっちから山へ行くだけだ、と言う。> 

そんな話が出る所だった。「兄さんは是非、善悪、美醜の高い標準を生活の中心にしなければ生きていけない。さらりとそれを投げ打って幸福を求める気になれない」と友人Hは言う。それを本人も知りながら、どうすることも出来ない苦しみがあるのだ。「自分は矛盾だ、迂闊だ、しかしそれを知りながらもがいている。」そんな兄の弱点を、Hは心から敬愛し親しみを持って眺める。こんな友がいたら最高だな。

兄はまた、
「純粋に心の落ち着きを得た人は、求めないでも自然に、天地も万有も全ての対象がなくなって自分だけが存在する。その自分は有るとも無いとも言え、絶対即相対となる。偉大なような微細なようなものだ」 ということが解っている。・・・マグノリアの木。漱石の人生観や哲学が少し見えたような気がした。考えを突き詰めていく一郎の姿には、私まで頭が変になりかけたけど。。。

他にもいい言葉があった。 「親しいというのは、ただ仲が好いという意味ではありません。和して収まるべき特性をどこか相互に分担して前へ進めるという積なのです。」

「昔から内省の力に勝っていた兄さんは、あまり考えた結果として、今はこの力の威圧に苦しみ出しているのです。」


漱石ってこんな事を考えたり悩んでいたの?…という驚きと面白さを感じた。私自身が歳をとったせいで解るものもあるらしい。若い時なら地味で退屈としか思わなかったかも。古めかしい言葉遣いも珍しく、日本語は綺麗だと思えた。去年の川端康成に続いて、今年は漱石を見直せて良かった! (2005.9月)





39.『逃亡くそたわけ』 絲山秋子 中央公論新社

題名にインパクトがあったけん、手に取ってみたさ。初めて読む作家ばい。
福岡の精神病院に入院していた花ちゃん、なごやんちう若い男女が病院を抜け出してさ、九州ば車で縦断旅行する話たい。重くなりそな状況を躁病の花ちゃんのこてこての博多弁の滑稽さと、人を和ませるなごやんのキャラクターとのコンビネーションで明るくからっと描いてたばい。
途中は飛ばし読みしたばってん、最後がどげんなるか気になったったい。洋画ではこげん逃避行ば何度も映像になっとるばってん、ラストの多くは悲劇的な結末のようたい。この話さ え、そんだけ?と思うほどあっさりハッピーに終わったばい。
全体、もっとハチャメチャな道中になるのかと期待してたばってん、ほかん人とのからみはあんまし出てこんたい、物足りなさもあったとさー。

最近の文芸作品に多いと思うのですが、濃いめの男女関係や人間関係を避けて(越えて)、淡やかに互いを認め合っていこうとする関係(・・ほんとに?)が何となく出ているようでもありました。行動はでたとこ勝負で大胆なのに、二人の気持ちの繊細さは伝わってきて。病院から遠ざかるほど何かしら虚しさも感じているような。帰る場所がわかってて、やけっぱちにもなってるし。まぁ今ここから逃げ出したいと思う人は多いわけで。…逃亡は楽しい?  (2005.9月)




<番外>・・・途中でやめた本

・『鬼哭の剣』 北方謙三
ハードボイルドな侍が出てくるのかと思いながら、この作家を初めて読みました。面白そうだったけど、返却期限がきたので(ほんとはとうに過ぎてたので)10ページで返しました。

・『劫尽童女』 恩田陸 
この人のも初めての本。1章だけは先がどうなるのか気になって読んだものの、う~ん余り面白いと思えなかった。

・『収奪された大地』 E・ガレアーノ
5,000円もする!ぶ厚くて資料が多くて難しい本。でもホントはこういうのをしっかり読まなきゃいけないんだろな。最初の数ページと今までの私の知識から言えそうなことは--

* ラテン・アメリカは500年前から白人によって収奪され続けている。
* それは現代でも変わらず、先進国の繁栄はラテンアメリカ他の貧しい第三世界によって支えられている。
* その仕組みを変えることは不可能と思えるほど強固である。
* ラテンアメリカでは今でも圧制が続く国が多い。政府による国民の拉致、殺人等など日常茶飯事である。思想・発言・出版の自由もほとんどない国が多い。
* それらの国の権力者は、先進国の政治その他の権力や企業と結び付き、自国民を利用しながら肥えている。etc・・・。

日頃薄々感じている事柄を直視させてくれそうな本でした。(でももっとやさしく書いてある本がいい。。)(2005.9月)




38.『針女』(しんみょう) 有吉佐和子 新潮文庫 (S 56年)

 この本はまだ手芸に熱中し始める前に、何となく題名と裏表紙の作品あらすじを見て買ったものです。(『はりおんな』ではありません。笑)読んでみると舞台となっている東京下町の根岸周辺に、ちょっと私的な繋がりもあって偶然を感じました。

<あらすじ>
針仕事をしている孤児の矢津清子は、仕事先の三五郎とお幸に引き取られて暮らしている。三五郎夫妻には弘一という一人息子がいて、清子は密かに思いを寄せていたが、針を踏む事故で足が不自由になり、それを一生涯結婚できない運命と思い、仕事に打ち込む。出征が決まった弘一が留守中、清子はたまたま彼のノートを見るが、そこには清子への狂おしい恋心が書き綴られていて驚く。しかし弘一は何も言わず出征し、彼の帰還を待つ三五郎夫婦と清子は戦禍を生き延びる。

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針を運ぶ、布を縫う、編む…といった手の営みは昔から続いてきたのだろうな。初めはたぶん、森に生えた野草の蔓や柔らかい枝を編み、何かの容れ物をつくるという所から始まり、次第に麻などを衣類の形に作るようになったのだろうか。無心に縫う時もあれば、何かを考えながらの時もあり、、。手を動かし何かを作ることって、楽しく心休まる。(義務やお金のための仕事だったら、また違うのだろうか。)布は柔らかくしなやかで、手にするとそのまま心の落ち着きに繋がるのかもしれない。

清子は昔風の女性というか忍耐強く控えめな女性で、たまに歯がゆくなるほどだ。その性格や、孤児という身の上、体への劣等心もあってか、弘一への思いを隠し続け封じようとする。一方、勢津子という友人は、明るく積極的でたくましい。主人公や友人、弘一、育て親の三五郎ら周囲の人びとの生き方、戦争の捉え方はそれぞれが少しずつ違いながらも、皆が戦争に翻弄される。庶民のたくましさ、本音や愚痴、希望や失望が生き生きと表現されていたと思う。清子の仕事も、着物の仕立てから戦後は洋服へと移り変わり、時代が大きく動いていたのを感じる。

文中で清子が何度もそっと取り出して見る弘一のノートは、読んでいて私もドキドキしたが、ただ清子への恋慕だけが書かれていたのではなかった。恋情のかたわら、戦争の虚しさ、人間への根本的な疑惑や不信も載せ、清子が不自由な体になったのを見て、「自分は傷痍軍人としては生き難い。散華したい」とまで書いていた。清子にとっては自分への思いに悦びを感じると同時に、不安と混乱と残酷さをも感じさせる、彼の一種の遺書だった。

驚くのは、戦後弘一が帰還してきた時の様子。彼は出征する前とは変わってしまっていた。憑き物が落ちたかのように明朗になり、戦後を受け入れていく。私は戦争という体験で陰鬱な人になっているのではないかと想像していたので、予想が外れてしまった。(本当は戦争の傷跡は彼にしっかり残っていたのだけど。) 周囲の人間はそんな弘一に戸惑う。やがて清子と気持ちが通じ合い結ばれそうになった所で、母親(お幸)が邪魔をする。お幸は息子を取られたくない一心から、心に変調をきたしていた。(この辺りの描き方は、話が急ぎすぎて展開が粗いとも感じた。) 母…という女の業のようなものを感じさせられる場面だった。

清子は終わりまで弘一と一緒になるかどうか心迷っていた。けれども最後にきっぱり「弘一と別れてもいい、一人で仕事に生きよう――」という決心をしたのには、えッと思った。これは戦後の新しい女性像の一つだろうか。作者は、細く折れそうなのに芯が強い、針のような女性を描いたのだろうか。  (2005年.8月)





37.『 葉隠 』 山本常朝/講述. 神子侃/編訳  徳間書店

「武士道」と「葉隠」を平行して読んでたら、違いが感じられて面白かったです。 封建体制の只中にいて現役の武士だったこの人の話は、「武士道」と比べるとえらくシビアで、何をするにも考えるにも藩を支える者としての緊張感があったんだなぁと思います。また戦乱の世が治まり、徳川政権も軌道に乗ってきた時代なので、戦争に出る心構えよりも、日常的にどう家(藩)を守るか、組織のあり方うんぬんが使命のように書かれていました。あと、どこそこの誰それはこんな事をして・・・と『徒然草』にも似た、エッセー風に生活や出来事を見る目も持っているようです。山本常朝は九歳から藩主に仕え始め、藩主が死ぬまでの三十年間を藩体制の中で過ごした人です。必死の修行の甲斐あって出世し、藩や藩主だけを命を懸けて守り通す生涯だったことが分かります。違う時代の人がこんな風に毎日考えていたとは、異世界の人に見え、滑稽にもまたカッコよくも見えました。それにしてもなんでこんなものをわたしは読んでるんだろう?(笑)


◆『葉隠』データ

・ 佐賀鍋島藩に伝わる武士道の秘本。徳川政権が確立して約百年後に書かれた。「葉隠聞書」ともいう。
・ 口述者―鍋島藩の二代目藩主 鍋島光茂 の御側役だった山本常朝(つねとも、1659~1719)。筆記者は、その後輩の田代陣基(つらもと 当時33歳)。
・ 山本が隠遁した10年後の52歳の時から7年にわたって話し、「これは後で燃やすように。」と言って書き留めさせた。でも筆記した田代は残し、それが写本として後世へ残されたらしい。
・ 全部で十一巻千三百四十三章の膨大な資料。(私が読んだ本は、その中の百二十章の抜粋)
・ 内容は主に”武士の心構えに関する教え”だが、修養書としてだけでなく、集団共通の目的を遂げるための個人のあり方、心構え、生活技術的な処世術などが具体的に書かれたものもある。


私が読んだ本では、章ごとに原文、訳、その解説が載っています。たとえば、

原文: 「生附うまれつきによりて、即座に智恵の出づる人もあり、退いて枕をわりて、案じ出す人もあり。此の本を極めて見るに、生附の高下はあれども、四誓願に押当て、私なく案ずる時、不思議の智恵も出づるなり。皆人、物を深く案ずれば、遠き事も案じ出すように思へども、私を根にして案じ廻らし、皆邪智の働きにて悪事となる事のみなり。愚人の習ひ、私なくなること成りがたし。」

訳: その人の生れつきで、即座に知恵の出る人もいれば、あとになり、枕をくだくほどに思案して、ようやく考えをまとめる人もいる。このような才能、性格の違いというものはあるけれども、四つの誓いに基づき、"私"を捨てて考えるならば、誰しも思わぬ知恵が出てくるものである。よく人は、じっくりと考えさえすればむずかしいことも考えつくと思っているけれども、一身の利害や主観的な判断をもととしては、いくら考えても、すべてが悪知恵となってしまい、役には立ちえないものである。

解説: 常朝は、着想と判断力を生む法としてこういっている。1.原則に照らしてみる。2.個人的な利害、小主観を離れて考える。3. そのこと自体から離れて客観的にみる。4.小主観を捨てるためには、古人の言行に学び、利害関係のない人に意見を求める。(一部略)



といったふうに。原文は難しく読みにくいので、ひたすら訳と解説を読んでいたら、なんだか現代サラリーマン向けの会社処世術にも読めてきて、幾つかは 「使える葉隠として、いけそうだと思いました。(この本の訳者がそういう風に編集しているせいもあるのかも。)中にはへぇと感心してしまうような話もあって、人との付き合い方、藩主への諫言の意味など面白かったし、老荘思想に似たところもありました。

「盛衰を以て、人の善悪は、沙汰されぬ事なり。盛衰は天然の事なり。善悪は人の判断なり。されど、教訓の為には、盛衰を以て云ふなり。」

などなかなか深いのでは。けれども山本常朝が、藩や武士を支えていた民衆達をどのように考えていたのか・・・はよくわかりませんでした。(熟読してないせいもあります。罪人を切る練習を武士は恐れるべからず、といった箇所からは、やはり…という気がします。)

 「武士道といふは死ぬ事と見附けたり」 で有名な「葉隠」ですが、一方で山本さんは「寝ることが好きなり」とか「人の一生は短いのだから好きなことをして過ごすのが一番」などとも言っていて、つい本音が漏れたような箇所はおかしかったです。また「男色を命がけでやれ、女色に嵌らぬため」と言ったり、仏教を信仰する他の藩主への苦言などを真面目に説いているのも意外でした。この本を私が読む意味って何だろう?と思います。この本も、読む人の目的や問題意識によって、どんな風にでも読めるものなのではないかなと思いました。斎藤美奈子氏が「葉隠」を読んだら、いったいどんな突込みを入れるんだろう?と気になります。藤沢周平作品に描かれている下級武士は、この本とはまた違った武士なのかと思います。サムライと一口に言うけど、時代によっても実態は実にさまざまなのでしょう。
 ・・・頭がすっかりちょんまげモードになったので、毛色の違うラテン関係の本などが無性に読みたくなりました。(地球の反対側だし)(2005.8月)


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[追記] 武士道という時、二つ種類(士道と明治武士道)があるらしいと知りました。(以下Wikipediaから引用)

―――武士道(ぶしどう)とは、近世日本の武士が従うべきとされた規範をさす。現代日本で「武士道」と呼ばれるのは、明治以降に解釈されたもので、(近世の武士道と区別して)明治武士道と呼ぶ人もいる。

◆ 士道
武士の発生以来、主君に心情的に一体化し一族郎党のため、命を捨てて武勇を示すことは軍記物語などで賞賛されていたが、戦国乱世を経て江戸時代の元和期以降になって平和な世の中となると、儒教朱子学の道徳で説明する山鹿素行らによる士道が確立した。士道では戦国の武士の行動は私情におぼれ、道を忘れたと批判した。 これにより儒教倫理である「仁義」「忠孝」などが君子に要求される規範として強調されるようになった。また名誉を重んじ、面子をつぶされることは非常な恥であり、生命にかえても恥はそそがなければならなかった。

◆ 明治武士道

明治維新後、四民平等により武士は滅び去った。明治15年の「軍人勅諭」では武士道ではなく「大和心」でもって天皇に仕えるものとされた。ところが、日清戦争以降「武士道」をもてはやす風潮があらわれた。これには二種あるがともに武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しているものである。ひとつは井上哲次郎に代表される国家主義者のものがある。もうひとつは内村鑑三新渡戸稲造などの キリスト教徒によるものである。特に新渡戸稲造は海外に日本を紹介する本として『武士道』(Bushido)を書いた。英文で1900年に刊行されて広く海外で読まれ、逆輸入で日本語が出版され「武士道」ブームを起こした。この中で武士道と騎士道を比較し、武士道が日本人の倫理思想の核になっているとした。しかし1901年に津田左右吉は これらの武士道は外国を意識して生まれた近代的国民的思想であり、 源平時代から江戸時代までの実際の武士の思想とは異なるものであると批判している。






36.『武士道』 新渡戸稲造  奈良本辰也/訳 三笠書房

前の5,000円札の新渡戸さんが1899年、37歳の時に書いたという『武士道』と、江戸時代に書かれた『葉隠』を一度読みたいと思っていました。サムライ、武士道は、今では外国から見た日本の特徴的な精神の一つとも思われているようで、一体どういう所が魅力に映るんだろうと。それから藤沢周平などの時代劇に出てくる武士達のことをもっと知りたかったのもあります。小説と違って、とっても楽しい!という内容ではないので、少し無理をしての飛ばし読みでした。

この本は新渡戸氏が英語で書いた外国向けの日本紹介本で、それをまた日本語に訳してあるので少し翻訳調で読みにくさがありました。私は新渡戸さんがクリスチャンでありながら、武士道を大変尊いものとしている所が謎で、どういう風にキリスト教と武士道精神を自分の中で上手くミックスさせているのか――に関心がありました。

本の内容は、「武士道とは何か」から始まり、その源を探り、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義とは何かを説いています。さらに武士は何を学びどう己に克ったのか、切腹とは何か、刀は何を意味するか、女性の理想像、大和魂についてと続き、最後に武士道は甦るか、武士道の遺産から何を学ぶか――となっています。

最初に項目を見た時、『葉隠』もそうだけど、こういう考え方っていかにも時代錯誤で反動的じゃないだろうか、反民主主義的じゃなかろうか。戦時中に武士道を軍人教育に使われてきたそうなので、要注意ものだな、という思いがありました。でもざっと読んでの感想としては、江戸時代に完成された武士道の考え方は、武士層のはっきりとした規律や精神構造だったんだなということ、今でも日本人の道徳の無意識の一部には場所を占めているのかもしれないな、というものです。

全体を流れるのは、どれも厳しい心持のあり方や平常での訓練であり、甘えや弛みを許さない生活規範です。ちょっとだけ、昔の怖い先生から喝ーっ!と叱咤されている雰囲気でした。でも所どころ、

 「正義の道理こそ無条件の絶対命令」 「義をみてせざるは勇なきなり」 「民を治める者の必要条件は仁にあり」 「いつでも失わぬなわぬ他者への哀れみの心」「礼儀は優美な感受性として表われる」

 等など、なかなかいいなぁと思うことも書いてあり、特に民主主義を礼賛しなくても同じこと言ってるんじゃないの?と思う点も多かったです。武士道はエリート階級の考え方でしたが、一般庶民にも幾分かは(どの位かがよくわからない所ですが)思想的エキスが染み渡っていったのではないかと思いました。武士道ってどうも反人道主義的とか、不動の階級社会の掟のようなイメージがあったのですが、意外に人を大事にする考え方だと知りました。
(その場合の「人」と西洋思想の「個人」の違いは、まだ私にははっきり区別つきません。武士道の基本はやはり個人よりも国(藩)を優先するものだったようです。)

新渡戸氏は、武士道の源流は孔子の教えにあり、そのまた源には仏教や神道があると言ってます。論語は少し読んだだけですが、かなり武士道と共通点がありますね。日本思想では仏教と儒教は強力な二枚看板のようなもので、どの時代でも外せないアイテムですね。

まぁ読んでいて、武士道の良い所だけを強調していたり、古今東西の名著や名言と合う所だけ紹介しているような感じも受けました。が日本人の礼儀正しさ、忍耐心、高潔な心、優美な作法(これらがいつから始まり、ほんとにどれだけあったかは不明ながら…)などが、武士道の精神と一致しているのではないか――という点は何となくわかりました。

新渡戸さんは武士道は廃れつつあると嘆き、廃藩置県によってトドメを刺された・・・と言っているのですが、武士道のことなど全然知らない日本男児・女性達に毎日肖像画を手にされ、今の日本を見渡して何と言う感想を持つのかな?と思いました。「一葉に替わってもらってもいーなぞう」とか。(2005.7月)






35.『読者は踊る』  斎藤美奈子(文春文庫 2001年) 

素人向けに文学を評論した、ちょっと辛口の軽い本だろう…と思って読んだら、どうしてしっかり中身の濃い内容だった。色んなジャンルで話題になっている本、気になる本を、253冊まな板にのせて、からかいつつ真面目に批評する。(もう10年も前から斎藤氏は知ってたのに、今まで本を読まなかったのはもったいなかったと思う。)いい加減な本や、一見立派に見えるけど実はまがいものの本を、はっきり実名を挙げてどう変なのか書いているので、かなり痛快。「あなたの本の読みって甘いのよ…」などと私の読み方を斬られているようで、冷や汗。。。

評論や批評って、筆者の先入観や独断がどうしても入ると思う。この本でもそれは感じられるけど、見方が斬新だと感じる点が多い。なぜ面白く読めるんだろう。読者と一緒に、「つまらない本だっていい。まずはその本に騙されようじゃないの」というスタンスをとっているからでは?難しく専門的に批評したいのではない。騙されるのもツッコミを入れるのもまた楽しいじゃないの。あなたも私も踊らにゃそんそん。

最初の「カラオケ化する文学」では、<消えゆく私小説の伝統はタレント本に継承されていた>と、唐沢寿明の『ふたり』と石原慎太郎の『弟』の共通点を書いているし、<芥川賞は就職試験、選考委員会はカイシャの人事部>などと言って、賞に関係する当事者を揶揄するように書いている。(…芥川賞を主催してるのは、この本の発行元の文春では!?…。)とにかく誰に対してもどの本にも遠慮しないで好きなように書いている。これじゃ文壇の付き合いは出来ないんじゃぁ…と思ったら、やはりそういう集まりには出ないそうだ。池澤夏樹も「偶像破壊にかけては右に出るもののいない斎藤氏…」と書いている。

一時期流行った「利己的遺伝子の陰謀にだまされてはいけない」とか、「アダルトチルドレン関連の啓蒙書の読み過ぎは健康によくない」とか、聖書の翻訳比較をしたり、全共闘世代のノスタルジーの弱点を突いたり、歴史教科書論争をその歴史から整理し批判してみたりと、文体のふざけ調とは別に、内容はいたって真面目。いつも客観的に本を読める人は、とっくに斎藤さんのように読んでいるのだろうけど、読む本の8割は信用してしまう私には、いい本だった。今まで思いもよらなかった読み方の一つを教えてもらえた。
・・・と思わせられて、私もすっかり踊らされたんだろなぁ。(2004~05.1月)




34.『十月の旅人』 レイ・ブラッドベリ  新潮文庫 1987年

 ブラッドベリはSF作家の中でも詩情濃い作品を書く人らしい。この人のは多分2冊目。この本には1940~1950年代に書かれた10作の短編が載っていた。どれも舞台や書き方が違って面白かったが、もっと読みたいと思うような物足りなさも感じた。(ブラッドベリ原作の古い映画、「華氏415」も観てみた。)

 「きみは一日に四時間しか眠らない。」という言葉で始まる血友病の男性の話、「昼さがりの死」は印象に残った。カミュの「異邦人」やゴダールの映画「気狂いピエロ」の乾いたやるせなさに似ていたような。。。

 「過ぎ去りし日々」(1947年)は、「バック・トゥー・ザ・ヒューチャー」を数日間に縮めたような、読み終わってなんだかほのぼのしてくる話だった。人は昔に戻れないし、過去をはっきりと再び見ることもできない。でも想像の中でなら可能だし、どういう風にでも思い出を作り変えられるのではという気がした。過ぎ去った時間の残酷さと愛おしさ。。。

 ”特定のことではなく任意のことを行う発明品” という不思議なものが出てくる「ドゥーダッド」。使う目的が決まっておらず、使う人が「こう使いたい」と望むとそう使える。一種のドラえもんポケット? SFではこうした「人間の意識」が、将来重要な意味や役割を持つと設定されることが多いのだろうか。この中では、「曲解された不明確な語義のエネルギー総和」とかなんとか書かれていた。

 眠った途端奇怪な悪魔が出てくるため、眠れなくなる宇宙飛行士の話、「夢魔」も面白かった。先月読んだキングの「デスペレーション」や『カラマーゾフの兄弟』のイワンと悪魔の対話を思い出す。彼は眠らないために『戦争と平和』を読み続ける。悪魔は、<幽霊、霊魂、思念、知性・・・> と正体不明のままだ。ラストもハッピーではなかったのが不条理っぽさが漂っていて、少しばかりぞくっとした。(2005)