本の窓 20

+++ 本 20 +++


 +  ひとひらの言葉  +

「・・・結局のところ人間は、「性格に基づいて」行動するというのではまったくないからです。その人の人格が、何ごとに対しても、自分の性格に対しても、まず態度決定するのであります。」  

「 精神的なものは、その本質からして状況に埋没することは決してありません。 埋没するどころか、状況から「離れて立つ」ことができるのです。状況から距離を保つ、距離をおく、状況に対して態度を取る ことができるのです。

この距離のゆえに、精神的なものは自由を有するのです。人間はそのつど、衝動を肯定したり否定したりすることができるのです。(…)人間は、どんなときでも「状況を超越する」ことができます。この超越はもちろん、その状況を「肯定」せざるをえない場合には、全身全霊を傾けて状況に関わっていくためであり、場合によってはまさにその状況に跳びこんでいくためでもあります。」 (V・E・フランクル

   +   +

「バリ・ヒンドゥ文化では、劇や舞踊や音楽の豊かさは、物語の大筋や楽器の種類によって成り立っているのではない。むしろ変化に乏しい。その代わりに豊かさは、パフォーマンスつまり上演・演技・身体的行為の即興性によって成り立っている。 熟知されたものの自在な組み合わせによって無限に新しいものをつくり出すのである。」

「われわれ一人ひとりの経験が真にその名に値するものになるのは、われわれがなにかの出来事に出会って <能動的に> <身体をそなえた主体として> <他者からの働きかけを受けとめながら> ふるまうことだ。」

「南型の知はさまざまな地域に土着的なものとしてどこにも在りながら、その深層において繋がっている。(…)それ以上に具体的なイメージを与えてくれたのは、ヨーロッパにおける南型の知の典型ともいうべきイタリア南部のナポリの知的伝統である。…ヴィーコピュタゴラストマス・アクィナス、ブルーノ、カンパネッラ、ポルタ、クローチェ…」 (中村雄二郎




141.『道しるべ』  ダグ・ハマーショルド   みすず書房 1967年

スェーデンに生まれ、1950年代に国連事務総長を務めたハマーショルド(1905~1961)の著作。著書というより日々の断想を集めたノート、20歳ころから書き始められた日記でもある。多くの困難な仕事をおこない、厚い信頼を集めていた人だと初めて知った。内省的で、ときに神秘主義的な文もあるこの本をゆっくりたどると、国連事務総長がこんなことを考えていたの…?という深い驚きを覚える。外交の職務に献身しながらも、あまり社交の場には向かない気質の人だったらしい。

+  +

一歩進むごとに足元を見おろしたりはするな。遠く見はるかす者だけが道をみいだすであろう。

<生>は、おまえの力にそぐわぬことを要求したりはしない。おまえの勲功は、ただ、逃亡しなかったというだけである。

おまえが試みねばならぬこと。―おまえ自身であること。そうして獲得しうるのはおまえの心のきよらかさに応じて、人生の偉大さがおまえのうちに映しだされること。


優れて内省的でありながら、外向的で行動力も持ち合わせている。二つが両立しており、車の両輪のように相互補完されて、彼という人をあらしめていたのかなと感じる。


   +   +

人生とはそんなにも情ないものなのか。むしろ、おまえの手のほうが小さすぎ、おまえの目のほうが濁っているのではないか。おまえこそ、成長しなければならない。

われわれの愛は、その対象を犠牲にする勇気がわれわれになければ、貧相なものとなる。われわれの生きようとする意志は、生が自分のものかひとのものかを意に介せずに生きていこうと思うようになって、はじめて確固たるものとなる。


複雑で日々緊張を強いられる仕事についての、秘められた苦悩、憔悴、使命感のようなメモもあったり、自分を鼓舞し孤独のうちに考えを重ねたり、過去現在未来、来世を詩につづったり、普通の人の日記と同じ部分と、職務が重大であるのを自覚しながら、どうすることが最善なのか延々と考えている部分がある。ところどころ世界史に残るできごとに関わった自らの判断をふりかえって、ゆきつもどりつ心を旅するような表現とか、哲学ふうの考察がみられた。(当時の時事が訳者の「注」として付けられています。)

なにかこう、ふつうと逆方向の考えかたなので、ヴェイユと同じく意味の重みを感じながらゆっくり読むことを求められる感じ。


  +   +

もし彼が生きつづけたとしたら出会ったはずの幸福を得られずにしまうことによって、<生>はどのようなものを失うのであろうか。彼が死んで苦痛から逃れたことによって、<生>はどのようなものを得たのであろうか。
―なんとばかげたことを語っているのであろうか!
<生>の内容を測定する尺度となるのは生きている人間である。そして、生きている人間の命数は、幸福だの苦痛だのとは別の標準によって計算せられるのである。

ハマーショルドも誰かの死を思いながらこれを書いたのだろうか。

言葉を探しているときに本を読めば、ふとそれが見つかることがある。いま自分を落ち着かせてくれるもの自由にしてくれるものは、本や人のことばであったり手で創る行為であったりする。それらが身近にあることに感謝。。

彼がこの職に就いたのは、大げさだけど人類の知恵のはからいといえるのかとも思える。たとえへこみそうな出来事が山のように起きたって、現代のマルクス・アウレリウスの気高さをおもえば、希望をもちつづけられる。・・・気がします。
みすず書房っていい本たくさん出しますね。お薦めです。





留魂録』/『ひとすじの蛍火 吉田松陰 人とことば』 関厚夫 文春新書  

  (後半)

 前半から間があいてしまいました。平行して『ひとすじの蛍火』という評伝も読んでおり、たまたま手にしてとても良い本でした。松陰の言葉にある「人生の四時(しいじ)」にちなんで「春夏秋冬、春再び」と章を分け、松陰を心より敬愛し、その人となりや生きた痕跡をあますところなく伝えている入魂の書です。歴史の読み物としても面白かったですし、私が本を出版していいと言われたらばこんな本を書きたい。と思えるような本でした(書けないでしょうけど)。 

・ 松陰の思想や考え方は突然現れたものではなく、百年以上前から多くの人びとの考えや社会の矛盾などが集積されてできたものーとわかる。彼より100年前の山形大弐は、幕藩体制を否定するような行動と思想を持っていた。
(それにしても、会ったこともないのに松陰の言葉をくりかえし読み思念を集中すると、彼が何を考えて暮らしていたのかしだいにわかってくるようで、時空を超えて歴史の人物に近づけるのが不思議。)

・ 彼は二回監獄に入ったが、獄舎でも囚人や官吏に講義をおこない、その人柄が慕われて皆を感化し好意を得るようになった。 獄内では他の囚人との会話は禁止されていたが、互いの状況や消息を知っていたり、文通も行われていた。

・ 獄中、二日だけだが抗議のために断食をしている。

・ 将来は京都で、身分に関係なく入れる開かれた大学校を作るという計画を立てていた。「尊攘堂」というそのまんまの名前で。

・「すぐれた人物とは、どこにいる誰とでも交際したらよい」もモットーで、交際範囲が広かった。一面識もない人と文通して、これぞと思った人は高く評価した。(これは意外な一面だった)

・ 吉田松陰の孤独、狂気。それを何となしに想像し感じはするけれど、いったいあの時代がどのようなもので、彼のこころの内に何があったのか、なかなか実感できないところもある。イメージとしては男気のある、まさに侍という感じ。男の人が憧れるのも無理はない。ストイック過ぎたのが珠に瑕とも言えるけれど、自身はストイックだなんてこれっぽっちも思っていなかっただろう。遊興の場に誘われても、そこを異世界としか思わず、楽しめなかったようだ。

・ 藩に無断で旅行したり黒船で密航しようとして、謹慎になったり投獄させられたとは。 歴史で習った気もするけれど、松陰で実感できた。武士の藩への忠誠とか所属意識、藩側の統制などは、時代や地域によって多少違うのだろうが、想像するよりずっと厳しいものだったらしい。彼もそうした体制に不自由を感じ始めていて、身分の差のない世界を構想していたらしい。幕末ころの蘭学など、当時のヨーロッパ思想はひたひたと国内に浸透していたんだなと感じる。

・松陰はペリーにアメリカ行きを訴えたが通訳にだめと言われ、決死の密航は果たせなかったが、のちにペリーが松陰の意図と志を知り、「稀有な人物であった」と言わしめた。

・女性とのつきあいが一切なかったので、テレビの主役としてはいまいち華やかさに欠ける吉田の寅さん。かたや竜馬は来年また大河ドラマになるそうだし、なんてったってドラマ向きキャラなのだ。松陰は獄中にいた時にある未亡人と歌のやり取りがあったらしく、それがわずかに残されているのみ。

 一筋に風の中行く蛍かな ほのかに薫る池のはすの葉   松陰

・松陰と弟子達の関係は、ソクラテスプラトンを思い浮かべる。恩師の死は弟子にとって慙愧の念に耐えないものだったろうが、彼らは自分なりの方法や考えで、師の教えと精神、命を受け継いでいったのだなあ…と感慨深い。

・ 明治維新を進め、関わった人の中には無念の死を遂げている者も多い。歴史の裏に葬られ、時代の変化や改革の礎(いしずえ)になった無名の人びとを思う。

・僧侶”黙りん”と激論を交わし、しだいに尊王攘夷思想が過激になっていった。あまり過激すぎて弟子たちも「先生そんな無理な…」と一時は離れ、孤独な時期もあったらしい。

・今年は松陰の死後150年、来年は生誕180年にあたります。(※な、なんと2010年には映画が公開されるそう。)

・ 命日の10月27日に合わせて「東京名物松陰忌マラソン」というのもあったそう。

年代順には関係なくメモしました。 まだ追記する予定です。 

<追記> こちらのサイトに詳しい紹介が載っています。吉田松陰.com

詩や和歌を吟じるような繊細な感情を持っていた面もある。獄中での心の平静と同時に、両親をおもい、一時的に動揺したらしい事実も書かれていた。

     +   +   +


松陰を読みながら、先日自ら命を閉じた知人を思っていた。はっきり理由のない生き辛さ苦しさに長い間さいなまれていた人だった。亡くなる前に少し文のやり取りをしていたこともあり、事実をどう受け止めていいかわからなかった。死は予想できないものではなかったけれど、予想と現実になることとは圧倒されるような違いだった。
彼と話していた時、宗教や哲学やわたし自身が、無力に感じた。 今はそうしたものが無力だとは思わないし、言葉の力を信じているけれども。。

死者は生きている人を死界へ引き寄せる力を持つのだろうか。一時は何もかもがどうでもいいような虚しさも感じた。彼の死はもしかしたら生きたい、という願いの逆転だったのだろうか。関わることのできた時間は短かったけれど、やり取りは真剣であったし、彼にとってもわたしにとっても、きっとなにか意味のあることだったと思いたい。

仏教に回向(えこう)という言葉がある。「自分が汗を流し努力してつくった事物を人の役に立つようにふりむける」という意味のほかに、「死者が成仏するために善行をさし向ける」意味もあるときく。 難解な書物を少しづつひもとくように、知人を思い出しなんども問いかけていくことが、供養のひとつになるのだろうか…今も自分にはなにもわからないけれど、そんな風なことを思っている。




+ ひとひらの言葉 +

「日本文化は、たとえば光琳や日本庭園、漆芸や陶芸、数奇屋普請でみるように、人間をわしづかみに表現するよりも、高雅な装飾性を得意としているように見うけられる。
立体化された凄さよりも、平面的ながら、やすらぎをあたえる作用においてまさっている。
そういう”心地よさ”を創出することが日本人の特技のようで、いま工場製品の工芸品(自動車など)のよさ、デザインになってあらわれているのではないか。」 (司馬遼太郎

灯台は航海の目じるしだが、近づきすぎると難破することがある。」 (河合隼雄


「理解することは疑いがあり、闘いがおこる。そうした摩擦のない関係のもろさを人は忘れがちで気づかない。幸福とはその苦しみに裏打ちされた傷だらけの愛を、自分の孤独の中にしっかり握りしめることではないだろうか。」

「空気のように愛そのものの形を忘れさせてくれて、空気のような軽さと透明さでつつんでくれることこそ、互いにほしい愛の相ではないだろうか。」  (瀬戸内寂聴


  * * 

「エネルギーは与えるだけでなく同時に相手に頂くもの。人からもらうエネルギーの強さ。
人を惹きつけるものはただひとつ、それはいきいきしていること。」

「もし人が始めることさえ忘れていなければ、いつまでも老いることはない」という真理にブーバーは触れたのです。今までとは違う、新しいものを創造するために始める、という意味をこめて「創める」とわたしはよんでいます。

「徹夜していいものが書けますと、気分がハイになるんですよ。 五十九歳の時乗り合わせた飛行機がハイジャックされ、無事に解放され帰宅したら家中が花でいっぱいになっていました。私はつくづくこの風景はお葬式といってもおかしくはない、だったら自分は一度死んでるんじゃないか、こうして生きているのは、命を新しく与えられたからなんだと思いました。そこで花を贈って下さった方にお礼の気持ちをこめて、「いつの日か、いずこの場所かで、どなたかにこの受けました大きな恵みの一部でもお返しできればと願っております」という礼状を出しました。 これからが与えられた私の生涯だと思いました。」 (日野原重明


    ***

  いい水は、落下の途中において分子としてのおのれを翻然と悟る。
  いい花は、たとえ群生の状態にあっても個としての美を保っている。


      陶酔はいつも短い。 儚いからこその陶酔。
      陶酔は生命のあかし。 陶酔は必須の官能。


  個に徹する姿勢の中にこそ真の自由が在る。
  この世における存在の基盤を与えてくれるのは、
  それ以外にあり得ない。絶対に。


何とも芸術的な色合いで咲き、何とも劇的な散り方をする。
なかには、そういうバラもある。
花もまた見事であったが、種子のほうがもっと見事。
なかには、そういう人間もいる。


    人は花に咲けと言う。

    花も人に咲けと言う。    (丸山健二


   
秋晴れの境内 /年季のはいった仏さま


言葉を求めているせいか、本の中から日ごとに心に染みる言葉を受け取る。
友人からセドナというアリゾナ州の先住民の聖地を教わる。 ふらっと寄った古本屋で、たくさん能の本を見つけた。図書館の自習室で司馬遼太郎を読みふけった。(たまに半日ほど自習室にこもることがある。周りは学生さんばかりで静か。どんな本でもすぐ手にとれる空間で読書に没頭できる時間は、ほんとうに贅沢だ。図書館に泊まりたいとさえよく思う。)
改めてじっくり読んでみた丸山健二の作庭記や写真集。苦労を注ぎ、命がけといえそうな庭との格闘。同時に得られる究極の満足。文学の仕事との共鳴が伝わってくる。丸山氏がもし武士だったら。反骨精神と気概をもち、真の自由を孤独に志向するひと。かなり辛口な作風だけれど。

思い慮ることに深くありますように―




140. 『留魂録』  吉田松陰 講談社学術文庫 2002年

(前半)

吉田松陰(1830~1859)って安政の大獄で死んだ人?くらいしか知らなかったのです。
竜馬、西郷さんと並んで明治維新では著名人。密かなもしくは大だい的な信奉者は男性に多いみたいで、司馬遼太郎は彼と弟子の高杉晋作を主人公に『世に棲む日日』という小説を書いています。
維新前後の歴史を調べてみるととても複雑で、尊王攘夷の思想も単純ではなさそうです。この時代や人物には以前から興味をもっていたのですが、理解するのは大変だと感じました。
ということで生涯や業績について書くのはひかえ、私が初めて知ったこと、意外だった事実をメモしてみました。

   ++++

・ 『留魂録(りゅうこんろく)』は、29歳で処刑される直前に書かれた5000字の小冊子で、門下生にあてた遺書とされている。死を前にして悟りえた死生観や、あとに続く人たちに向けての自らの志の真髄を述べた書である。
一通では没収されるかもしれないと思った彼は用意周到に二部作り、一部は親しくなった囚人に託した。
門下生あては後に消失し(写本は残されている)、囚人が大切に保管していたのが松陰の死後17年たって世に出ることとなった。
肖像画でわりと年配だったのかと思っていたら、わずか29歳だったとは。)

・ 山口県(長州)萩の下級武士出身。生家と養子になった家は農民と変わらない暮らしぶりで困窮していたが、好学の家に育ったこともあって、幼少時より相当な勉強家であった。
十才そこそこで伯父の塾の教授見習となり(小学生の歳なのに?)、藩主に兵学を講義したり。
そのころ全国的に藩の財政は破綻しかけていた。長州藩も貧乏だったらしい。

・ 昔の通例で名前をたくさん持っていた。「大次郎→寅次郎→松陰→二十一回猛士」 と変わった。
(「男はつらいよ」の寅さんの名は松陰にあやかったとか。・・・というのはウソで映画監督から拝借したもの。)


・ 青年時代のあだ名は仙人。

・ 生まれは1830年ドストエフスキーより9つ年下で、ほぼ同時代人だったという衝撃の事実が…! 
見知らぬ間柄だったが、たがいの国の情勢は大まかに知っていた。
二人ともナポレオンは知っており、寅次郎はナポレオンについて憤慨したような批評を書いている。

・ 松下村塾の通塾生は約三十名、在籍者はその10倍三百人くらいだったそう。3分の2は十代と若い! 士分(武士)と下積みの階層が半々。
約半数は明治時代まで生き残ったが、あと半分は維新のさなかで壮絶な死を遂げている。

・ 塾生を「諸友」と呼び、師弟の枠をはずして友人のように接していた。
教え方はいつも丁寧な口調で穏やか、怒ることがなかった。
(松陰自身は「自分は激しい性分であり・・」とも述べている。生まれつき穏やかな性格でありながらも、世の中を見る目は非常に厳しく、妥協しない先進的な考えかたであったことが想像できます。また自らを律して誠実温厚を心がけていたらしいことも文章から窺われました。)


・ 生前まとまった書物は出版されず、折々に書いた激励文や塾用の教書が多い。
書簡は生涯で627通もあった。
(当時の通信事情では普通?それとも手紙魔? 多くが残されているのは、手紙を受け取った人が大事に保存していたためなのかどうか。珍しくないですか。)


・ 死刑になったのは危険思想を咎められたからだが、直接の理由は「幕府も知らなかった老中襲撃計画を自白したため」であった。
捕まったのを機会に自分の考えを誠実に話せば通じる、との信念が裏目に出たと言われている。(これは初めて知りました。)
彼のモットーの一つは 「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」 ―誠(まこと)を尽くして接すれば、心を動かさない人はいない(孟子の言葉)―というものでした。

人の美点はすばらしさの反面、時にはそれにより足をすくわれることもあるのだろうか。 社会に理解されえなかった偉人達の悲劇、殉教の歴史をおもう。
もちろん松陰は生死を度外視して信念を訴えたのであり、潔い、彼自身を示した行為だったと思う。 彼の言葉と魂は、維新の志士たちの奥深くにはいりこみ、のちのちの世までも殖え続けていったのだ。
(松陰についてずっと考えていたせいか、夜中に目がさめ獄中の心情を思ったら眠れなくなりました…^^)


  身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおか)まし大和魂   二十一回猛士

(後半へ続きます)




+ 初めて言葉 

稟質・ひんしつ   生まれつきの性質
微衷・びちゅう   自分の真心や本心をへりくだっていう言葉
卓識        すぐれた意見、卓見
鬱勃・うつぼつ  意気が盛んにわきおこるさま
飛耳長目・ひじちょうもく  物事の観察に鋭敏で見聞が広く精通していること
余徳  あり余って他に及ぶ恩恵、余沢 

・・・どれも自分じゃ使いそうにない