本の窓 23

[ 本  23] 

 <2010年 ちょっと早い今年のベスト3>

一年に24冊読了したので、ベスト3を。。読んだ本は次のリストです――(タグを省略しているので見づらいです)

142. 「国連新時代」      (評論)  外岡秀俊 143. 「むかし道具の考現学」  (解説書) 小林泰彦 144. 「高校生のための経済学入門」 (解説書)

145.「聖なる幻獣」  (解説書) 146. 「木綿伝承」   (解説書)  147.◆ 「なぜ私だけが苦しむのか?」      (哲学/宗教) クシュナー  148. 「フィンランド~森の精霊と旅をする」  (紀行) 149. 「漁師とドラウグ」           (小説)  ヨナス・リー 150.◆「藤田嗣治 手しごとの家」       (評論) 151.「キャラメル工場から」「機械の中の青春」  (小説) 佐多稲子 152.◆「実践するドラッカー 思考編」    (ビジネス書) 153.「京都生活雑貨」            (生活書)

154. 「身体をめぐるレッスン 3」     (哲学)   「いまぼくに」/「詩の本」      (詩集)谷川俊太郎 155.◆ 「民藝四十年」・「用の美」・「手仕事の日本」 (評論など) 柳宗悦  156. 「シャドウ・ワーク」              (社会学)I・イリイチ 157. 「ゴーディマ短編小説集」            ナディン・ゴーディマ 158. ◆「日時計の影」・「樹をみつめて」・「清陰星雨」  (随筆)中井久夫 159. 「身体をめぐるレッスン 4」      (哲学) 160. 「鶴見俊輔 いつも新しい思想家」     (文芸) 161.「アイヌ文様」            (解説書)    162.「サイン・シンボル事典」       (解説書) 163. 「日本語で書くということ」      (評論) 水村美苗 164. 「戦争のかたち」          (写真集) 下道基行 165. 「うまれるかたち」         (写真集) 柳宗理
166.「哲学者とオオカミ」



この中から クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか?』、柳宗悦『民藝四十年』、中井久夫『樹をみつめて』、*追加 ローランズ『哲学者とオオカミ』
の4冊を挙げたいと思います。



 どれも哲学系でしょうか? 柳宗悦中井久夫は続けて読みたいなと。(そうそうドラッカーも幻獣もよかった。)

 このごろメディアの書評や広告をあまり読まないので、話題の本から浮いているものが多いような。面白そうな本、必要な本はもう読みつくしたような錯覚をおぼえるこのごろ、そうではないのですね。 友人知人のほかに、面識はないものの密かに敬愛している読書人のかた、ブロガーさんが何名かいらっしゃり、いつも本選びの参考にさせて頂いています。感謝。 なかなか思うように読書できない時期もあるなかで、孤独にほそぼそと読んでました。「ものづくり」の周辺を来年もうろうろしようかな、別のジャンルにいくのもいいなと思ったり。年末までに感想を追加するかもしれません。ひとまずこれにて。。 ことしも地味な感想におつきあいくださり、どうもありがとうございました*

* いま読みたい本・・マングェル『図書館~愛書家の楽園』、佐々木中『切り取れ、あの祈る手を』





F 165.『うまれるかたち』  柳宗理 2003/能登印刷出版部

 柳宗悦の長男でデザイナーの柳宗理(1915~)の金沢での展覧会カタログです。「バタフライ・スツール」のデザインをした人。ひと目で、あーどこかで見たことあると思いました。そうした一般に知られているのに無名なデザイン ―アノニマスデザインというのをめざしていたそうです。経歴を見るとドイツのバウハウスやイタリアデザインと関わったり、アーツアンドクラフツ(イギリスの民芸運動)の影響がある方でした。柳氏が手がけた多くの製品が紹介されており、家具をはじめ食器、工具、工業デザイン、インテリア、エクステリアなどどれもどこかで目にしたことがあり、シンプルで温かなラインが記憶に残っていました。うちの無印良品の急須はこれに似ているなぁと感じたり。

 彼の基盤は「売るためのデザインではなく、人間の心によりそう生活のデザイン」であると言います。(人の心によりそうかたちとは、ずいぶん抽象的でわかりにくい。。) 日本文化を背景にしながらも、東洋西洋の垣根を超えたデザインなのだと。父宗悦がデザインしたものより、宗理氏のはもう少し洋風の要素が加わっていると思いました。<デザインが薄っぺらなものにならないように、使い手とのコミュニケーションを失わない>ーなど、心に記しておきたい言葉もありました。

 織物の産地で昔は織り手の名前を出すことはなかったけれど、現代では作家名を出すといった例。オリジナリティに関わってきて、どこに個人のそれがあるか…なんのために名前を出すのか…難しい問題です。本の中でも三宅一生と対談しており、現代が求める要素も変化する中、最終的には 名前なしに世の中に使われるデザインを評価したいと言っています。

 何かがうまれたり創造される瞬間ってどういうものなんだろう・・といま興味があるので、バタフライ・スツールが生まれたきっかけが面白かったです。アクリル板を自由に曲げていてたまたまそういう形になった、いわば手の中から自然にわき出た形なのだと。センスや意図で「つくる」以外に、「しぜんにうまれる」部分も大きいのだろうと感じます。

もののデザイン/文様から、文化やアートにつながるものへと浸っていきそうです。  (2010.11月)


ほんとうは自分は思いやりのない人間なのだとわかった時 なにも書けなくなる。
   




164. 『戦争のかたち』 下道基行  2005/リトルモア

 飛行機のための防空壕・・・掩体壕(えんたいごう)というのがあったと聞きました。日常の生活からすっかり忘れ去られ、もう何に使うのかわからなくなった戦争の遺物たち。日本各地にぽつぽつ残っているらしく、バイクでそういったもの(トーチカ、砲台跡、監視塔など)を探して旅をした写真集です。たぶん著者はこうした写真を撮るのだけが目的ではなく、旅した土地に身を置くこと、風景の中でそれらをみつめることで、「かたち」の過去を体で感じていたのではと思いました。

 トーチカは何かの本で見たことがあり、小さな穴があいた四角い箱のような要塞です。穴から敵を監視したり射撃するものだとか。なにかこう、石ころだらけの海岸にぽつんと立っている表紙のトーチカは、シンプルで美しいと思ってしまいました。モダンなオブジェかモニュメントに見えて。。でもどこか、人の入るのを永遠に待っているような、奇妙な佇まいです。あぁそうだ、そこに物語を考えずにはいられないタルコフスキー的な像なんですね。 

 密閉された箱であるため他に使い道がなさそうなトーチカに比べ、飛行機の秘密格納庫だったという掩体壕は、おわんを伏せた形で片側が開いているため、今でもなにかに使われているんですね。倉庫、納屋、作業場、公園の中の小山とか、頑丈そうな家にまでなってるし。使い方がたくましいなぁと感心。というかどこにも移動させようがない巨大なコンクリートの塊に、もはや諦めているような。ある壕の上には草も樹も生え、古墳みたいに。(数百年後にはほんとに古墳と間違われるかもしれない。) あとは天の岩戸や原爆ドームを連想しました。 どれも孤独に取り残された雰囲気だけれど、かなりな存在感と異様な姿のまま埋もれかかっています。たぶん実物を見たら、写真よりさらに圧倒されるんじゃないかな。

 じっと見ていると一個一個が異界への入り口のように見え、小説でも書けそう。(絶対もうだれかが書いていると思う。笑 すこしシュールでユーモラス。ぽっかり空いた空間が怖いです。) 後記にトーチカを作った人との対話や、実際の使い方のイラストもありました。 この写真集を見たあとだと、どこかで掩体壕を見てもきっと気付きますよ。 (2010.11月)




163. 水村美苗『日本語で書くということ』 筑摩書房 2009

むかし辻邦生氏との往復書簡を読んで印象の深かった人。『本格小説』はざっと読んだだけ。正統派の小説を書ける人なのだと思いました。

本の中に漱石『行人』の論評がありました。五年前に書いた『行人』のじぶんの感想を読み返したら、水村氏の解説と同じように感じた所と、わたしは考えなかった所があった。『行人』は、ひとことで言うと「見合いか恋愛か」の問題なのだって。エ?と思うほど単純なのですが、言われてみればそう? 主人公の一郎兄さんがなぜあれほど悩んでいたのか。それは個人的な愛情の問題を超えた、深淵なる普遍的な愛の問題・・・ではなくて、「社会機能としての結婚制度」に悩む話であったのでした。いえほんとはもっと複雑な事柄も含まれているらしいですけど、結婚制度に落ちつけてしまえば、わかりやすいんです。意にそまぬ見合い結婚をした一郎兄さんにとって、妻の気持ちがわからないのも詮無いこと、かといって恋愛至上主義も疑っているような(←自信がない読みかた)、生まれついての高尚な「悩める人」だったのですから。愛なんぞにこだわらなければ平安でいられただろうに。

明治時代には女性にも自由意思があるとか、主体であるという社会通念が薄かった。漱石は近代ヨーロッパを知っていたから、いちはやく女性の人格?といったものを感じ取り、まことの愛や人の生き方とは何ぞやを、宗教すべてに通じながら作品群のなかで探り出そうとしていたのだろうか。 あぁでも今では女性はもはや「結婚か未婚か」を選びながら生きているのを、漱石先生はなんとおっしゃるかしら。いつだったかイマドキの若い男性が、思いあまって彼女に「仕事とボクとどっちがだいじ?」とつめよる話を読んで吹きだしたっけ。 

自分が見落としていた視点を教えてくれたのはとても勉強になった。ただ一つ『行人』の最後に出てくる友人Hについてほとんど書かれてないのは残念だった。Hさんはほんとうによき理解者で、一郎兄さんの心情、人となり、苦悩を、双子のようにわかっていた人だと思う。あの部分はかなりよかったのに。

『行人』以外の作品解説も面白く、別のを読んでみようかと思った。漱石先生はなんといっても奥深さがあり研究書も多い。時代とともにたくさんの解釈や読み方ができそうだ。  (2010.10月)





< もっとも長い旅は 内面へむかっての旅である。
自己の運命を選びとって、おのれの存在の根源をたずねつつ
(根源があるのであろうか。)
旅路に立った者は、いまだにおまえたちのあいだに留まりつつも、・・・>

D・ハマーショルド 






162. 『サイン・シンボル事典』 ミランダ・ブルース・ミットフォード/三省堂/1997

[本書の内容]
 文字のない文化からつながってシンボルとサインの本を。大型のビジュアル本で、子どもでも面白く読めます。もう少し由来についての詳しい解説があればと思ったくらい。 サインやシンボルというのは、「神秘を表わすための象徴言語」だと言うんですね。観念に生きる人間にとって、高度な象徴性のある記号や図像は文字を補うものとして存在したのだとか。古今東西のそれらが1160点、イラストや写真で紹介されています。分類など―

・神話と宗教に関わるもの… 神話、古代、ユダヤ教、キリスト、ヒンズー、仏教、イスラム、自然霊など
・自然… 太陽と月、天と地、宝石、庭園、植物、生物いっぱんなど
・人間… 人体、ダンスと劇、魔術、楽器、性、服飾、王権、道具武器、死、建築など
・象徴体系… 象形文字、数、文様、色、錬金術フリーメーソン、占星、紋章、国際記号、身ぶり、文書

(記号・・・自己規定のためのしるし。象徴・・・記号より深い意味をもつ表現、と区別されています。)

[感想]
パラパラ見ているととても楽しかった。へぇこんな形にこんな意味があったのか、とか 妙な模様だなーと感心したり。自分でも意味を考えられるところが面白くて。なんだろう、夢判断に近いようなところがあるんですね。なにか判らないものを読みといてゆく行為は、謎がとけてゆくほどに胸おどり・・。文字を補うどころか、その形、そのデザインそのものが強く奥深い意味をもっているし、たしかな伝承体といえるのではないかと思いました。

そういえば絵文字入りの文というのもあった。パソコンの絵文字や顔文字だって現代の記号。あまり微妙な表現はムリだけれど、顔文字の効用ってかなりある ^^。逆に何かをごまかすこともできる。

興味深かったのは、フリーメーソンの秘密の図像数点。ほんものかどうか誰も証明してくれないだろうけれど(笑)、簡単な絵に深い意味が込められているのだとか。(見てみたくないですか?) シンボルやサインというのは、見る人に意味がすぐ理解できると同時に、意味のわからなさ、秘され隠された部分がすこしあるために、人の興味を引くのだろうか。一定の集団や思想文化を共有している人だけにわかる・・・というのも文字にはない価値だろう。世界各地で似たサインやシンボルが生まれているので、古代の文化交流がかいま見えそうだ。

むかし般若心経のもとになったといわれる、長ーい600巻の「大般若波羅蜜多経」を見せてもらえる機会があった。サンスクリット文字をすべて漢字に直していて、ちんぷんかんぷんで私にはただの記号だったが、意味を知りたい気がした。 本書では「文書も象徴体系の一つ」だという。

現代の記号・シンボルといえば、さまざまなロゴだろうか? 売買の対象になるほどで、あらかじめデザインされたロゴがネット上で売られているのにはびっくり。個人の記号を創りますという商売も見かけた。むかし蔵書票というのも消しゴムで作ったっけ。他の人の書票は今まで2,3枚しか見たことがない。

文体とか文章スタイルも、集まれば個人の象徴になるのではと思う。 ネット上のニュースや話題って、絶え間なく流れてゆく記号みたいに感じるときがある。
シンボルやサインは、「とっつきにくいものを近づきやすくする」こともできるみたいだ。   (2010.10月)


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ここ数年、すこし混みいった文章や物事を理解するときに、もどかしさを感じたり、理解できないままになる。脳はしっかり退化モード。文を書くこと、ものを作ることが、少しでもブレーキになればいい。

「…である。」という書きかたがどうしてもできない。かといって「…だ。」もどこか乱暴な気がするのです。ですます調はまどろっこしい時がある。外見はわりと女性らしいと言われるのに文章は男性と間違われることも多い(汗)。



161.『アイヌ文様』 杉山寿栄男 編著 /1992年

 模様やデザインへの関心がしだいに強くなっている。アイヌの模様はエキゾチックだなと思っていた。図書館で探すと詳しそうな本があって、初版が大正時代のなの! 図版は多かったけれど写真が不鮮明なので、むかしの新聞を見ている感じ。民芸館で実物を見たことのあるアットゥシ織と呼ばれる綿入はんてんに似た服から、見たことのなかった花ござ、煙草入れ、装飾品、日用具、盆、刀、織物道具まで、白黒写真で600点が紹介されている。ほとんどはあのぐるぐる渦巻きと、弧線の一部を切り取ったような文様。それから自然を模したものが多い。

珍しいと思ったのは、S字型のお盆。なぜわざわざ作りにくい形にしたのか。祈祷と関係あるのかな、ユニークだと思う。 イクパシュイという、お酒を飲む時に髭を押さえたり上げるためのヘラも初めて見た。この刀の形をした物には、先祖代々のしるしをつけ子孫へ贈るのだとか。「祖印」という家ごとの印がおもしろく、家紋のようなものだろうか? 象形文字のようだったり、いちばん傑作なのは「熊の足あと」そのまま!(お茶目なイメージです) それから木の墓標とか、鮭の皮でできた靴も初めて見た。(鮭の靴は考現学の本でも紹介されていたっけ)

文様の伝来のしかたを考えると、編者は「すべての民族のある時代の文様は、似るのが自然。だが一致よりも異なる点に特質を見るべき」という。渦巻きは原初時代にはよくある文様で、シンボル事典によると水の渦をはじめ風、植物のつるなど自然を模したものから、エネルギーを生みだす力を表わすようになったのだとか。


渦巻き文様(モレウ)はアムール河地域にもよく似たのがあり、古代の交流が想像されて、アイヌとの細かな違いを図で比較していたのがわかりやすかった。

巴(ともえ)紋(三つ巴を表わすアレ)も渦巻き紋から発達したのだとか、アイヌは木器のみで土器はないとか、本土の原始時代の土器文様は七五三の数が多いとか、トリビア風な説明も珍しい。 それからアイヌ文様には括弧 { } のようなアイウシノカというのが多いこともわかって、すっきりした。すっきりしたけどじっと見ていると目がまわりそう。。(じっさい渦巻紋は何重にもすると目に強いので、少なくしているのではと述べられている。)

編者は「今やアイヌは風前のともしびだ・・」と心配していたけれど、これが発行された年に、のちにアイヌ文化を復興することになった萱野(かやの)茂氏が生まれたのは偶然と思えない。(偶然なのだろうけど)

この間から考えていた、
アイヌ文様 ~萱野氏を紹介した本~『文化の三角測量』に出てきた無文字性 ~たまたま聞いた詩の朗読 ~ 口承文化>
といったものたちが、すーとつながった。今までふやほやしていたもの(霞がかかった形容)が、ちょっとくっきりとなった。    (2010・10月)

(追記) 「アイヌ文様」は今や誰が見てもそれとわかるほど有名で、そのわかりやすさや一種のデザインが、手軽なアイヌ理解のようになっているかもしれない。文様から興味を持った彼らの現実や歴史を、私はあまり知らない。あるものにどういう風に入り込んでゆくか、、、手探りであれやこれやいろんな方角から眺めて、誤解もふくみながらやっと見えてくる感じでいいのだろうか?  異質であるものや文化に対してどういう目で見ていくかは、とても大きな問題につながると思う。多文化共生とか植民地主義とか人類学とか。自分自身の日ごろの態度も問われながら。
大きな視野をもつ人にとって、どの人がどれくらいの範囲でものを見ているかは、一目瞭然なんだろうな。





160.『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』  河出書房新社

中井久夫氏の本から辿っていった「KAWADE道の手帖シリーズ」。鶴見氏の著書はあまり読んでないけれど、とにかく面白そうな人。彼の思想を知るほどに、巨人という形容があてはまるんじゃないかと思うようになった。丸山真男吉本隆明とも交わった、ベ平連の人、思想の科学の人。米寿の現在も「もうろく帖」とかを書いて出版し、自分の老いや死を鋭く見つめ続けている。この人の対談がまた活気があって話しだすと止まらない感じで、あっちこっちに話題があふれてゆく。。73歳のときにマンガの『寄生獣』に徹夜で読みふけったりするほど、元気というか、少年のような心もちには驚く。
中井氏との対談、自選著作アンソロジー、他の人による著作の紹介、エッセイなどが載っていて、鶴見氏の全体像をざっと見わたせるようになっている。

プラグマティズムを日本に紹介した人として知られ、ひとことでいうと「土法」にたとえているのがわかりやすかった。土法とは珍しいことばで、それぞれの地域に昔から伝わる慣習法のようなものらしい。文中にvernacular という言葉も出てきて、イリイチの言っていたのはこれかなと。(自ら学習した知識を指していたようだから、正確には異なるだろうか?)「その土地固有のもの」、建築用語では「土着・原産の」という意味らしい。土地のcommon law は混沌の中から法律が出てくる場合もあるそうで、すんなりまとまるのではなく、いろんな要素や条件の混ざり合い+人びとの話し合い+暮らしの問題解決から形成されたものだろうか?入会(いりえ)権とか。(法のことはよく知らないので違っているかもしれない。)

「いろはカルタ」の考察が独特だった。日本のアンソロジカルな伝統・・・組み合わせ自由な文化の自在性とか。

プラグマティズムの弱点を考えている所もおもしろい。「この主義で切羽詰まることもある。その時は自制心がだいじ。人間は曼荼羅なので、いろんな人を受け入れる余地は残してある。でもこの主義は妥協しやすかったり、逆風への抵抗を貫くことが難しい」とか述べている。 なんだかこの人は正直に自分や思想のまずさ弱さもさらけ出しているから、固まってないし自由でいるのがいいと思う。  (2010.10月)

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(追記) 本のどこだったか、「自分の説や思想を真反対から疑ってみる」とあった。相対的にみるとかとりあえず疑うというより、もっと強い自己否定の試み。そうしたギリギリまでの心境は、鶴見氏が三度の大きな鬱を体験したところからもくるのだろうか。




159.『交錯する身体 ~身体をめぐるレッスン4』  2007年 岩波書店

シリーズの4巻め。身体についてのさまざまな問題と考察の中で、わたしが目にとめた個所はやはり心に関するものが多かった。このシリーズ(4巻)は面白い。(2冊しか読んでないけど)  身体とはぜんぜん関係のない内容に飛んでったりする箇所も頭に残る。なぜこう難しげな本を読んでるの?・・という感じなのだけど、素人やフツーの人が哲学してもいいんじゃない? というか読むのが好きなだけなんです。

 ノートに書き抜いたフレーズから―。


* 筋肉の難病のため、常に介助を要する女性の例 ― 「体から外へ出たい!」 心は自分なのに、体を動かすのは他人 ― ここからくるアツレキ、もどかしさ。

―「自作の歌を歌うことで、華のあるからだになりたい。」「人とは楽器のようなもの。楽器は鳴らさなければならない。鳴らすのはわたし」

* 抑圧される性愛。異性主義への疑い― 対つい(カップル)の親密さと暴力について。 多様な家族が許容される社会とは。 生殖のための結婚(近代社会の家族) → 個人の感情、愛情にもとづく家族(未来の形?)へ

  * 生殖医療の問題。非配偶者間人工授精 ―父親がわからない、自分は誰なのか?  血縁の父を探すのではない、自分の存在の根拠を知りたいという気持ち。―関係者みなにとって真実は話さない方がよい という日本の親の考え方は50年の流れがあったが、すこし変わりつつある。―「血縁の有無」を厳しく問う社会のほうが問題では?という問いかけ。

* ゲイの人が書いていたエイズ感染の報道の仕方の問題 ―異性愛主義の社会を問い直すこと。近代の性規範に代わる多様な性のあり方を尊重する社会とは。

* 摂食障害 ―身体の存在そのものが重要な要素であること。言語とは別のコミュニケーションの手段? 身体感。

* 「身体は特定の人から向けられる特別の感情によって、包み込まれ、翻弄される。
その感情は愛と呼ばれることが多いけれども、それは常に両義的なものであって、解放へ向かう可能性と同時に、錯誤に陥る危うさを秘めている。」

* <絶対に正しい愛のかたちというものは存在しない。愛が正しくなりうるのは、それが自分自身を絶えず問いなおす場合である> 

* 「遺体」の埋葬の変化 ― つい昔までは遺体がある期間置いておかれ、残った人びとにとって大きな意味をもっていた。あの世とこの世を分け、つなぐものとしての遺体。 しきたり、世話、手順 ―今のあっさりとした別れ方、埋葬との比較。


・・・・全体の感想。 身体というのは、それだけで独立してあるとか、自分だけの所有物ではない。思っている以上に他の人との関係がつよく出てきたり、社会との関わりがある。社会の規範や価値観に大きく左右されるものなのだ。(けれどもだから身体を理性や意志と、うまく相談しながらやってゆく、つきあってゆくこともできるかもしれない。かな?) 「交錯する身体」とは、他の人と、社会と、自分のこころと交錯するという意味だろうか。

反対に、体の外へ出たいと願う難病の女性の文章が、病気になった時を思い出して強く印象にのこった。意志では動かしにくい病気を得た自分のからだは、不安で心細くて孤独だ。それでも病になにか意味を見つけ出したり、病にとらわれるだけではない自分、全部をひっくるめて受けとり、別のかたちにしながら生活していく―。    (2010.7月)




158. 中井久夫 『日時計の影』2008/ 『樹をみつめて』2006/ * 『清陰星雨』2002  みすず書房

フランスの詩人ヴァレリーの翻訳のことを読んでいたら、どこかで聞いたことのある中井久夫という人を思いだしました。神谷美恵子の『本、そして人』の解説を書いた人でした。調べてみると精神科医で専門の著書が多く、エッセイストとしても良好な読者感想を受けている方のようです。

3冊は新聞などに掲載されたエッセイで軽く読め、内容は身近な話から深刻な話題まで多分野にわたっていました。治療医としての体験談や時事評論、読書の話、昔の思い出、阪神大震災後のトラウマ治療、河合隼雄氏ら精神科医たちとの交流、戦争につての断想などです。難しい専門の話も平易な表現で、時にはくだけた話し言葉に近い文がまじっていて、簡潔で読みやすいです。自称プラグマティストなのに、人や自然に対するまなざしにはそこはかとない慈愛を感じ、深い教養がある方なんだなと思いました。静けさの漂う本です。

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日本人について、現代では対外的に「地の塩」としての働きを期待できるのではと言い、「立て直し」が得意で、数人の気の合った者で力を合わせる時にもっともよい仕事ができる。でもジリ貧に弱いとも書いてあった。(下の谷川俊太郎『若さゆえ』は海外青年協力隊のために書かれた詩です。)

<中国人の自己像は、山水画によく描かれる「孤船」ではないか>という。甘え・もたれかかりを許さない国民性や「信」への強さなど、私はよく知らないけれど、中井氏の見方を興味深く思った。異文化の人との交わりから見えてくるものとして、<国民が自尊心を何においているのか、何を人間であることの大切な条件としているかわかる瞬間がある>というのも印象に残った。


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言葉や翻訳についての文も多かった。 <言論は因果論を性急に打ち立てやすいが、その関係づけの多くは短絡的か部分的である。性急に因果関係を求めない「脱因果的思考」をめざしたい> という。ことばを信じつつも、陥りやすい弊害を突いた意見かなと思えた。

シンクロニシティについては、ユング派のそうした理論を <偶然を偶然としつつ、そこから自由連想によって思いがけないヒントを得ることもあり、全く人間世界に存する発見論的なものだと思う> として意味をもたせていたのに なるほどと思った。

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精神科医療についての文も、とても印象的なものが多かった。
< 処方する行為は究極は真心です> <治療は医療者と患者の協力である> <「いまはそうは思えないかもしれないが本当は大丈夫だよ」と患者に告げることが大切> と述べて、患者との対話、声かけ、小さな声で聞く など詳しい説明もよかった。

阪神大震災を経験し、その治癒や多くの相談にのった話にも引きこまれた。人間は悲惨な体験や感じかたを言葉で表現して減圧できるが、動物やペットはそれができないから、ストレスがじかに寿命に関わるーといった考察もしている。トラウマについては、<最後まで見捨てないこと以外に有効な対処法を発見できていない> と述べていて、精神的困窮者にむかいあう難しさと、それでも希望をもとうとする思いが伝わってきた。

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空間の力・・・<家や地域のちからは微弱であることが多いが、持続的に働く時 無視できない力を持つ> として「旧家」をあげていたのもおもしろかった。家のたたずまい、庭のようすから住人の精神状態がある程度わかる というのには同感。場や土地の力っていうのかな、けっこう磁力があるのを私も感じる。そこから離れたいとき、心を自由にするにはどうしたらいいだろうか。やっぱり本を読んだり考え続けることかな? あとは一度そこに浸りきって中から眺めてみるのもいいかもしれない。

<自分に立つ力を与えているのは自分が飛ぶことはできないという状況だ> という言葉とか。

鶴見俊輔と中井氏の対談(他の本だけど『道の手帖~鶴見俊輔』)も面白かった。鶴見さんてどんな人とでも面白そうな話ができる人だな・・。鶴見氏がアメリカでヘレン・ケラーに会った時、彼女が"unlearn" という言葉を使った。これは忘れる意味のほかに「学びほぐす」意味もあるんじゃないかと。この言葉、おぼえておこう。

あと意外に思われる「弱い人間関係のすすめ」とか、三歳のとき祖父から自由に使っていいと庭の一部を与えられ、いろんな植物を植えてうれしかった話とかも良かった。 

最も読みごたえのあるのは『樹をみつめて』の中の「戦争と平和についての観察」という小論文かもしれない。<戦争へと導く道は論理的で声高である。>

三冊とも読んでよかった!おすすめです。  (2010.10月) Amazon 中井久夫氏の著作

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<memo> 柳宗悦に続いて中井氏の本も三冊並行して読んだ。読むといっても今までのように最初から最後までじっくり読むんじゃなくて、ざっと目を通すのを繰り返す。内容はだいたい頭に残るみたいだし、読み方を変えてみるのもいいな。


追記* イリイチの本から思い浮かんだ婦人団体は、シャドウワークから出る一例としては限られた例だったかもしれない。ほんとうにやりたいことやできること、与えられたものを何かに生かそうとする女性は増えているんだろう。それが主婦であってもなくても、考え、試みて 暮らしていくこと。




157.『ゴーディマ短編集 JUMP』 ナディン・ゴーディマ  岩波書店

南アフリカの作家の小説はたぶん初めてじゃないかと思う。正直にいうとアパルトヘイトや人種差別は、わたしの日常からはかけ離れているなぁと感じた。以前『カラーパープル』という映画を見て暗ーい気持ちになった。最近はそういう深刻で重い話は見ないし読まなくなっていた。

わたしは世界や社会について知らなさ過ぎると思う。いままで積極的に知ろうとしてきただろうか。よくわからない。 アフリカのことは講演を聞いたりNPOに寄付したり、表面での関わりしかしてこなかった。抽選でアフリカ旅行が当たるとか、特派員になって滞在する機会がなければ、一生関係ない国と人々かもしれない。 でもまぁ同じ時代に生きているというだけで、見えない関係があるのだ たぶん。

(そう思いつつ並行して読んでいた下の『シャドウ・ワーク』に、偶然ゴーディマの初期の小説『バーガーの娘』に触れた部分があった。「家事労働をしている人、主婦は、産業社会でアパルトヘイトされている」とか書いてあり、ぎょ?となる。思わず身をのりだしたりして。)

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物語は面白くてどんどん読めた。話の背景や状況は複雑で、出てくる黒人と白人の関係や事情というものがすぐにはわからない。 最後まで読んで、あぁそういうことなのとわかって、どんでん返しでラストへというのが多い。語り手はさまざまな年齢、男女、階層にいる人たちで、内容も全く異なっていたのは飽きなかった。

作家はアパルトヘイトにただ抗議したり黒人側に味方する立場ではない。フィクションだけれどたぶん現実に近いことを淡々と述べ、心理描写なども抑えた書き方だ。彼女の冷静で醒めた眼を強く感じた。ゴーディマが南アフリカにずっと住み、書き続けたことには、すごい個性だな、ディーネセンみたいだと思う。国をまるごとまな板に乗せるなんて、日本では高村薫犬養道子山崎豊子たちだろうか。(あまり読んでないけど。)
彼女の見たアフリカの一面から、わずかなところだけでも南アが見えたと思う。人種差別が差別ではなく「あたりまえ」と決められていた社会。でもそれは遠い世界の昔のことではなく、身近にもあるのだろうという気がする。(追記)それからアフリカは、ただ飢餓と戦争と野性の動物がいる土地・・・ではなく、もっと豊かで奥ふかい地域なのではないか?という予感もする。ただ知らないだけなんだ。  (2010.9月)




156.『シャドウ・ワーク』  I・イリイチ 2006年 岩波現代文庫

この思想家(1926~2002)も初めて読んだ。少し難儀しながら文体に慣れないまま読んでいると、現代の家事労働や主婦について書かれた部分があり、身につまされる。(シャドウワークとは賃金労働を補完する無賃労働のことで、長い通勤時間や受験勉強も入ってる!)
何となく著者のいいたい意見はわかり、ではどうしたらいいのか知りたくなる。具体的な答えは示されておらず、自立、自存の精神でおのおの生きることが大切だと述べる部分がおおい。「読者が自分で考えるのが答え」だと。

「社会や他人から与えられた人生を、なにも考えず疑問を持たずに受け入れることの危うさ。自分が選んだのだ、満足だと思っていることが、本当はそうではないかもしれない、ということに気付かない問題」とか。

よく「家事は労働か」「出産育児はどういう意味があるのか、お金に換算できるか」などと議論されることについて、わたしも考え、右往左往してきた。体力、才能、やりたいこと、家庭の事情などをはかりながらだった。

 イリイチは一見家事を否定しているようにも、逆に生活やすべてのことをもっと昔風にした方がいいと言ってるようにも見える。けれどそうではないみたい。科学と経済と社会とに流されてやしないか? 学校、病院・・そのほかの既成の社会制度に依りかかって大切なことを忘れかけてないか? と言ってるように思える。この「大切なこと」って何かは、やっぱりはっきりと書かれていない。コンピュータや消費生活についての考察も、現在進行中の問題としてとても考えさせられる。よく出てくる”ヴァナキュラー”という言葉も十分にわからないままだった。(独学と関係ある?)

思いだしたのは、ある婦人の団体だった。宗教の信仰が土台にあるものの会員の思想信条は自由だ。家庭の運営や家事育児を重視しながらも、職業をもつ人も尊重される。 社会活動を計画したり資金を集めたりは、自主的なもので強制はない。家事いろいろについて互いに教えあったり勉強していた。性差にかかわらず、家庭を「誰でもが携わるのに価値のある、生命を守るための営み」とかんがえていた。家事は義務でも労働でもなく、工夫しがいのある豊かな創造を秘めた分野なのだった。 もしかしてあれがイリイチの理想に近いのかなぁという気もした。

他にも地域の平和や環境についての考察と評論などがあり、やはり「各コミュニティで、固有で独自の主張とやり方が明示されねばならない」とだけ述べられていて、う~んと考え込むのだった。  (2010.8月)




155. 柳宗悦 『民藝四十年』岩波文庫 ・『用の美』世界文化社 ・『手仕事の日本』岩波文庫   

無名の人びとの手仕事の美しさに感動し、同志たちと「民芸」というジャンルを作った柳宗悦(1889~1961)の本をいくつか読んだ。民芸に囲まれた土地にわたしも育ったせいか、朴訥さを感じるそうしたものが好きだ。地方ごとの農漁山村にあった手仕事は、有名な絵師や工芸家達の作品に比べて「下手(げて)もの」と呼ばれ、すこし格下に見られていたらしい。

『用の美』(上・下)は彼のコレクション写真集だ。ざっと見ていると、美しさより先に力強さを感じる。たとえば壺の柄や色合いは武骨で質朴だ。おごそかに立つ老木のように存在感があり、人々が長いあいだに磨きぬいてきたんだなぁと思えるセンスがある。柳は民芸ならなんでも好いとしたわけではなく、俗に流されたり弱まったり雑になったものには厳しかった。彼が美を認めた品じなは、芸術から影響を受けたものもあるようだ。民芸と芸術の境は私にはわからないけれど、大ざっぱにいって「ふだんの生活で使われる用具」で無造作で自由、凛とした美しさを感じさせるものが民芸だろうか。

『手仕事の日本』では20年かけて各地の手仕事を訪ね歩いて集めたものを紹介している。北はアイヌから南は琉球まで、彼がいかにそうした品物に敬愛を抱いていたかわかり、ほとんど偏愛といってもいいほどの入れ込みようだ。愛着はただ品物に向けられているのではなく、それらを作ってきた人々や土地の歴史、文化といったものにも向けられているのを感じる。また都から遠く離れた地方ほど土着し伝統を守った粘りづよさがあるとして、東北や山陰をとりわけ称賛している。その表現が、ぜんたいに熱い! さらに国内のそれらをナショナリスティックに誉めるだけでなく、世界各地の手仕事へ敬意を払っていたようだ。

濱田庄司河井寛次郎、富本憲吉、柳らが運動をおこしてから七十年、全国の民芸事情はだいぶ様変わりしているのではと思う。大正~昭和20年前ころの当時も、すでに廃れたもの、勢いを失ったものがあり、その変化を嘆いていた。現代の大きな変化は、やはり生活の洋風化と産業の変化、国際化だろうか。日用品はあらゆる国のものが入ってきていて、民芸品なのか工場製品なのかわからないものも多い。
国内の民芸では、素材はたとえばわらで作られたものが少なくなり、蓑(みの)だの背当てなどは博物館で見たことがあるだけだ。反対に陶磁器や木工品はわりと継承されている所が多いみたいだ。一方で久留米の絣や奈良の麻、金沢の漆など、素材や形をアレンジしたり新しく創って人気を復活しているところもあって、世界に通用する品も出てきて頼もしい感じだ。

神秘詩人のブレイクの研究をしていたこと。民芸に目覚めたのが朝鮮の陶磁器からだったこと。江戸期の「木喰(もくじき)上人」の仏像を発見して業績を明らかにしたことなど初めて知った。芸術全般に詳しく、仏教も深く理解していたようで、民芸論がそのまま芸術論や人間についての深い考察となっているのではと思う。(柳田国男とは同時代の人だったが、一緒に仕事をしたり影響を与えあった跡はみられない。柳田に比べて柳宗悦はまだ十分に研究されていないとも聞く。)


現代の益子焼

物はどんなものでも、とくに時代を超えてきたモノは、作った人だけでなく使った人、それを残そうとした人たちすべての遺産なのだなと思う。

とりあえず「日本民藝館」にはいつか行かなきゃ。それから民芸は今もみんなの家のどこかでささやかな位置を占めていると思う。ひととき茶碗やお皿を手に取り、「どこの産地の何焼きなの?」とたずねてみるのもいいと思う。たとえ「ワタシはアジア出身の多国籍でして、百均で・・・」と答えたとしても、雑器としての実用と美がすこしでもあると使い手が思うなら、(柳先生は怒るかもしれないけど)それも民芸と呼べるのではないかしら。   (2010.8月) ★お薦め本です

Amazon 民芸や柳宗悦に関する本




谷川俊太郎『いまぼくに』、『詩の本』 



若さゆえ


差し伸べられた細い手
助けようとしてきみは助けられる
その手に
求めてやまぬひたむきな心
教えようとしてきみは学ぶ
その心に

凍りついた山々の頂きを照らす朝日
重なり合う砂丘の柔らかい肩に昇る朝日
市場のざわめきをつらぬく朝日
それらは同じひとつの太陽
だからきみはふるさとにいる
そこでも

底なしの深い目がきみを見つめる
その目にあなたは読むだろう
太古からのもつれあう土地の物語
きみは何度も問いつめる
きみ自身を
地球のために

そして夜人々とともにきみは踊る
きみは歌う
今日を生きる歓びを
若さがきみの希望
そして私たちみんなの

若さゆえありあまるきみだから
目に見えることを与えることは出来る
だが目に見えぬものは
ただ受け取るだけ
それが何よりも大切なみやげ
きみの明日



    +++++


できたら


素顔で微笑んでほしい
できたら

愛に我を忘れて
その瞬間のあなたは
花のように自然で
音楽のように優雅で
そのくせどこかに
洗い立ての洗濯物の
日々の香りをかくしている

かけがえのない物語を生きてほしい
できたら

小説に騙されずに
母の胸と父の膝の記憶を抱いて
涙で裏切りながら
涙に裏切られながら
鏡の中の未来の自分から
目をそらさずに

時を恐れないでほしい
できたら

からだの枯れるときは
魂の実るとき
時計では刻めない時間を生きて
目に見えぬものを信じて
情報の渦巻く海から
ひとしずくの知恵をすくい取り
猫のようにくつろいで

眠ってほしい 夢をはらむ夜を
目覚めてほしい 何度でも初めての朝に





谷川俊太郎の詩集いろいろ




154.「身体をめぐるレッスン3 ~脈打つ身体」  岩波書店 2007年

どんな本か知らないままタイトルで手に取った本。体にまつわるいくつかの側面を著者数名が論じています。身体が不自由な人、ゲイの人、看護職、研究者などさまざま。本からの引用・要約と、思ったことなどをすこし。

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◆ <神話学者ケレーニイによる生物の二分類、ゾーエーZoeとビオスBiosの紹介。ゾーエーはあらゆる生物をふくむ無限の生で、ビオスは個別的で表情を持つ生をさす。
イメージとしては・・悠久の流れという「大きな命の河」があり、その流れに一瞬うかぶ水の泡としての私たちの生。>

<ビオスはもともと強くありたいと望む存在で、知識を身につけ、薬で性格をよくする(より社会化する)などを願う性質をもつ> といわれる。たとえ気力をなくしたように見える人の中にも、生きよう生きたいという願いは潜在しているのを感じる。

近年の風潮―性格を調整し、積極的なものに向けるやり方に著者(金森修氏)は疑問を持つ。「明るく活動的に」というのも社会の求める一つの形なのだ。それがよい場合もある一方で、強迫的になると、できない人や自身を責めたりする。社会が求めるものを疑い、よく考えてみること。まぁしんぎんしながらやってゆこう。

  身体はもちろん性格までも変えようとする遺伝子工学、美容整形、薬や機械での自己補強―についても批判されていた。 人間性が持つ振幅の広さ奥行きの深さを、「社会性」という一元の位相にそろえ、平板にするのではないかという疑問に、なるほどと思う。
健やかでしなやかな精神・身体を持ちたいと願うのは、何のため?というところがだいじかなと思う。その行為が過ぎたり、ほんとうの姿ではないものになろうとすると、体やこころがきしんだり悲鳴をあげるのではないか。

◆ 日本でただ一人ウエアラブルコンピュータ(WC)を身につけている塚本氏の話も興味深かった。WCはあまり普及しないのだとか。障害者に便利なのだが、割高になる。 健常者むけに開発し安くして障害者に普及させる案とか。
「ビデオ、写真などで記録がとれると、再生できるものがある というだけで人が生きていく支えになる」という文に、そうかぁと思う。人は思い出があるから未来へ続けてゆける気もする。

◆ <現代は「感情労働」というのが多くなっている。医療や教育など対人関係が必要なサービス業でそれが求められる。肉体労働や頭脳労働に代わって、現代の特徴となっている。感情を定められた状態にしたり保つような仕事。>
感情のコントロールはたいへんで難しい。その技術も仕事のうちなのだ。

(追記)「エモーショナル(感情)」を捨てる―という文を読んだ。
ふつうエモーショナルが豊かであると人間的に魅力があるような気がする。けれどもとくに否定的な感情を捨てることは、その人の魅力を減らすことにはならないし、我欲から離れてむしろ楽に生きることができるという説だった。自然にわきあがる自分のエモーショナルをそのまま表現するのではなく、いったん沈静させて熟成させる・・人の話も肯定も否定もせずに受けとめる・・というのがいいんじゃないか。できるかどうかわからないけれど、このごろ そうできるといいなと思う。


<仕事に追いまくられる身体は、精力的とはいえても躍動的とはいえない> ・・躍動的って?・・ちょっと考えた。 

◆ <危機・・・精神や身体の危機というのはいつ誰にでも起きる。それは人を生の新しい段階ステージに向かわせる経験のこと、それを考え抜くことで私たちには生と社会との新たな一頁が開かれる> 
免疫学者で能作家、数年前病気で倒れてのちも精力的に活動されていた故多田富雄氏を思い出した。
病気に勝つ・負けるといった単純な分け方ではくくれないのだとおもう。どんな人のあり方でもその人らしいものであり、それをわたしはただ見ているしかない。そして時(機会)が与えられれば関わりあったりもしながら。。

◆ セラピーカルチャーについて。ネットでもよく見かける。こういったものへの疑問も指摘されていた。
ただ一つ <仲間と真の感情を共有する> 、<自分への何となくの承認>が自分の存在意義でもあると。
でも何かの映画にあったように(『ファイトクラブ』だったかな?)、仲間同士でさらに傷を深めてしまう場合もあって、じつは全く関係のない人、もの、動物、自然etc....からセラピーされることが多いのではないかと思う。
真の感情 というのが大事。表面的だったりほんものではないとマズイかも。

◆ 看護師や理学療法の現場からの声も、ふだんは聞けない内容でおもしろかった。医療の現場では、知識よりも先に身体が動いて実践している場合が多いそうだ。行動しながら患者を観察し、つぎつぎと能動的な働きが始まる。自分でも意識せずに見方や看護のやり方が変わり、更新され、新しい方向ややるべき看護が見えてくる・・・。なるほどなぁーと思えた。慣れた看護という行為にとどまらず、患者と交わり、世話する中で、絶えず新しい創造とでも呼ぶようなものが生まれている。そしてそれは時には患者にもしっかり伝わり、患者の生命を支えているのではないかと。一方的に支えているんじゃなくて、ほんとうに支え合っている雰囲気。もちろん文章には出ない困難さも日常の煩わしさもあると思う。

理学療法、リハビリは最近の医療現場ではとりわけ重要になってきている。働く療法士達もさまざまだと思うが、中には患者と互いに向き合い寄り添うなかで、そこに生まれる毎日のできごと・・うまくいかないことも含めて、相手への働きかけというものを、心身ともに丁寧に見ていこうとする。患者から与えられる気付きも自身の気付きも、両方を表現してゆこうとしている人たちがいるのを知った。

*身体という誰でもが持つマテリアルをいろんな角度から見ようとしていて、読み応えのある本でした。 次は『身体をめぐるレッスン4』を。(2010.8月)