本―24

<本―24>

・ 読書中:ジェーン・グドール『森の旅人』

177. 『あなたの人生の物語』d テッド・チャン ハヤカワ文庫 2003年

アメリカSF界の芥川賞直木賞にあたる?ネビュラ賞ヒューゴー賞を受賞した短編集です。と言われてもすごさがわからないわたしは、ブラッドベリやディックのような作品かもと期待しました。かなり読み応えありでした。

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『バビロンの塔』

古代シュメールの物語。ブリューゲルの絵『バベルの塔』やエジプトのピラミッド、万里の長城が思い浮かんだりしながら読み進みました。ある石工が塔の製造工程を記録しながら、なにを感じ考えていたかを綴る。地面から頂上までは歩いて一か月半かかるほどの高さ。作り方の説明がリアルで意外で、もう面白いのです。電気機械がなくひたすら手作業で上へ上へと粘土や石を積み上げていくのが。ドキュメンタリー調で飽きさせない。歴史上の土木工事をSF的に描写しているところがわたしたちの想像を超えている。途中の作業回廊には人びとが生活する場所がつくられ、石工達はまるで旅行者のように迎えられながら登ってゆく。まもなく完成する「空の木」@TOKYOも思いうかぶなか、もっと壮大で奇想天外な話なのだとわくわくした。 頂上へ近づいてゆく主人公の空間感覚はあまりに非日常てきで、めまいがしそうだった。長期にわたり空中で生活していると、どっちが上で下なのかわからなくなるという。足を地面につけていない無重力状態に似ているのは、わかるようなわからないような。頂上の丸天井にいよいよ穴を開ける時がやってきて・・・ラストは予想もつかない展開だった。聖書ではおなじみの結末だけれど。




  『あなたの人生の物語』 

みんなの感想では、これがピカイチなんですって。なのにわたしの脳みそはまだ進化中のようで(退化の可能性も)さっぱり意味がわかりませんでした。 言語学者が宇宙人と初対面して宇宙語を習得する・・という表むきのストーリーに重ねて、通常の時系列から離れた形で娘の人生を語ってゆく奇抜な構成になっている。(らしい) 内容は理解できないながらも、いま見えている「過去・現在」と同様、未来をも見透せることができたなら・・という想像で書かれたのだろう。過去に、未来に起きるできごとを知らない自分がいて、あの時の自分は今より幸せだったようなそうでなかったような、懐かしさだ。

思い出は透明な葉っぱのようにしだいにしだいに積もってゆき、ときどきくずれかけたり風に飛ばされて消えていったりもし、すこしづつ養分をふくんだ土になってゆくのだ。


『地獄とは神の不在なり』

テッド・チャンは宗教にどういう考えを持っているのかはっきりわからない。キリスト教の天使が突然舞い降りる事件を通して、人生と神に懐疑的だった一人の男が信仰を得てゆく話。といっても単純な回心物語ではなく、幸不幸にまったく理由のない 不条理な現実に対して、読んでいる人がどうとらえているのか、どう生きたいのかと問うているような、SFというより普通の小説に近い話だった。 主人公が信仰を得たのは、受動的な行動だったように見えてほんとうは能動的な行為だったのではと思えた。・・あるいはその反対なのかもしれない。


『顔の美醜について』

”カリー”という未来の想像物の「美醜失認処置」をめぐるTVドキュメンタリー風物語。その処置を受けると、顔の美醜は見えても、審美的判断ができなくなるという、変わった神経回路になるという。さまざまな人物が出てきて賛否両論、多種多様な立場からカリーへの意見を述べてゆく。(菜食主義をめぐる『ビジテリアン大祭』に似ているかな。) 心はなぜ外面の美醜にはっきり表れず、別のものとして在るのだろう・・と考えたことがあったので、とても面白く読めた。美に惹かれ憧れるきもちや本能、審美感と、社会的な平等(意識)をどうすり合わせていくかの方法の一つが、カリーなのかな。カリーを社会全体で受け入れるかどうかの議論とかもあった。
人についてよくいう「印象」は、言葉には表わしにくい〈そのひとの本質〉ではないのだろうか。白人文化もどこかで批判しているのかもしれないし、人種差別のことも出ていた。
 かなり読み応えのある作品ばかりでした。(他の作品は未読です) おすすめ本★   (2011.3月)




176. 『たぶん僕はいま、母国の土を踏んでいる』  李朋彦  2010年 リトルモア

在日三世のカメラマンが、祖父母の生まれた朝鮮半島と日本を往き来しながら、母国や家族への思いを綴った、自伝といえる一冊。韓国籍や在日の知り合いはいないけれど、中学の親友が在日の人だった。彼女は今どうしているのだろう、いつか再会したいと長いあいだ思っている。
一人の在日韓国人の人生を辿ってゆけば、そこにはやはり戦争をはじめ多くの歴史を経てきた日本とアジアがあるのだなぁと感じる。著者の祖父母が新天地を求めてやってきた1920年代の日本。大阪、関東大震災朝鮮戦争済州島事件の痕・・・。 歴史を経糸とすれば、交わる横糸は日本で生まれたアボジ(父)とオモニ(母)、そして著者兄弟たちの家族史だろうか。

1980年前後の争乱期の韓国。新聞で私が読んでいた事件やできごとが、そのころ何度も韓国へ渡った著者の眼には、とても緊張にみちた国の様子として描かれている。戒厳令の夜や、突然兵士に呼び止められフイルムを取り上げられたこと、スパイと間違えられそうになったりなど、ついこのあいだのことだったのだ。
貧しく女性ゆえに勉強できなかった著者のオモニが、どうしても夜間中学に通いたい、字を習って社会に溶け込みたい、と夫にうったえる場面は痛切だった。明治から昭和初期のたくましい日本女性たちと彼女らが重なってみえた。  (2011.2月)




175. 『脳は若返る』  ジーン・D・コーエン 

「衝動」というものを重視しているのに目がとまりました。わりとマイナスイメージで使われる気がしますが、この本では <衝動+エネルギー+自信 → 潜在能力の開花> とされています。衝動や欲求、熱望、憧れ、探究といったインナープッシュは、生命の力だそうです。そういえばドスト作品は「ふいに」何かをする人物がものすごく多い。

衝動体験というのは、人間が成長するための原動力で、人によって大きく異なる。創造的なことをしたい、誰かのために尽くしたい、 精神世界を見つけたい衝動。快適さ、安全といった基本的なものを求める動きよりも個人差が表れるという。読んでいると励まされる本でした。

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「老いながら 心理的課題をすべて解決しないまま、他の分野に入ったり、新しい経験をしたり、創造、社会的活動で活躍や成長を続ける人もいる。」




『大地』 

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そんなふうにおまえはまみえるだろう

さまざまな状況下で思いもかけないことに

無限へとひらかれた恐るべき辺境

その辺境を行く探検家のかたわらにいるのは

愛しきもの 秋のなかに迷い込んだ動物だ

どんな変化が生じうるのか 大地から時間 味わいから石舷

光の速さから地球のありさまへと

誰に見ぬけるだろう  影にひそむ種子が

もし 森の木々が髪のように しずくを

馬たちの蹄の上にしたたらせるなら

愛しあう者たちが寄せあう額に

もう打たない心臓の灰の上に したたらせるなら そのときに?

この惑星は 千年を迎えるこの絨毯は

花ひらくことができる 

だが死も休息も認めはしない

豊かな実りの周期の錠は

春ごとに太陽の鍵であけられる

そして果実は滝となって響きわたる

地のきらめきは上り

そして口へと下る

そして人間はこの王国の恵みに感謝する

・・・・・ (抜粋)



 パブロ・ネルーダ 







174.『脳の力大研究』  林成之 2006年 産経新聞出版

衰えつつある脳力に、それでも喝を入れたくて。 実はこういう本がけっこう好きだったりします。 著者は「脳低温療法」を発見した救命救急センターの医師で、専門用語を使いながらも、脳の活用法を誰でも無理なく実行できるように説明している。ハウツーものと思って読んだけれど、生活のヒントになるし、脳蘇生治療の最前線も少しわかった。 脳やこころを科学する…大正時代に賢治が夢みたことが、医学の進歩でだんだん実現してきたのだなぁ。まぁ科学で解明しなくても、文学は大昔から人のこころを探り、光をあて、煌めかせてきたのだろうと思います。

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* 昏睡状態でも意識はある

植物状態のようになっても本人には意識があり、反応できないだけの場合もある。回復した人々の多くが、周りの様子がわかっていた、と言う例。聞こえないだろうと勝手なこと言ったり、話しかけないのはよくない。・・・という説明には、身近な例を知っているだけに納得できた。介護士さんらが患者にしきりに話しかけているのを見て、聞こえているのかな、、、と思っていたのはまちがいでした。 話はさらに「無言の対話」まで発展してゆきます。 直接会話していなくとも対話できる、というのは、テレパシーでなくても感じる場合があるのは不思議。


* 自己保存の過剰反応はリスクを伴う

これもかなり面白い説明だった。自己保存の最終過剰反応は戦争だ。個人でも本能や本性が働き過ぎると他者を傷つけるリスクがでる。 欲望や自我が強いとスケールの小さな考えを誇大化し、品格を下げる。耳が痛すぎてちぎれそう。


* 性格の暗さが脳の障害に影響する

性格というよりも心の方向、だろうか。「前向きな考えの人」は脳機能を活性化しやすいから、脳障害が治りやすいのだそう。「そうした方が、結局は気持ちよくなれる」という経験を何度も繰り返してゆくことかな。

* 決断と実行を早くすることが、心を連動させて高める

これも心しておきたい言葉だ。何をするにも決めるにもぐずぐずする自分には。「決断の遅い人は決めるのに自己保存が強く出る。立場に固執しているので独創的な考えを生み出せない。」 


* 言語によって周波数が違う。日本語は最も低い125~1500ヘルツ。そうなんだ。

* 子どもの教育に一番いいのは、好きになれる指導者を見つけること。人間は興味のないものや嫌いなものから自分の脳を守ろうとするので、何度も叱ったりする嫌いな人の話を真剣に聞かないし、記憶しようとしない。

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心を、脳科学や医学面から考えた本なので面白かった。救急医療現場で脳の障害を最小限にするため、スタッフが日夜尽力していることもわかった。(2011.2月)




173. 『知られざるきもの』  戸田守亮 

着物のルーツを知りたくなり、読んでみました。

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縄文時代土偶や埴輪にその形がみられるように動物皮の「貫頭衣」だった。四角い布を二つに折り、頭がはいるよう真ん中に穴をあけたデザイン。これは世界の古代史ではよく見られ、現代でもチュニックに採用されている永遠のデザインであるのがおもしろい。そののち中国の影響で上下別の二部仕立てになってゆく。

唐文化のファッションは日本に来てすぐ広まったらしく、聖徳太子が来ていたあの長い着物も、最新スタイルだった。長く垂れた服は、このあいだ読んだ古代ローマのトーガに似ている。ローマ~中東~アジア~日本 という文化の流れがあるのだろうか。一般庶民はドングリで染めた服を着るよう決められていたらしい!

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身のまわりの品についてもいくつか。昔は上位の人は「冠 かんむり」を被って位を表わす習慣で、金属加工の技術の粋を集めて作られていたそうだ。髪の毛というのはその人の一番上にあるものなので、非常に大切に扱われていた。

首飾り、髪飾り、帽子なども歴史は古い。B.C3世紀には倭の壱与(いよ)が勾玉の首飾りを付けていた。でも7世紀から着物に推移したため、アクセサリーは廃れていき、明治になって復活したという。着物とアクセサリーの関係はわかる気がする。現代では着物にピアスやブレスレットはOKでは…という人もいて、時代と共に着こなしも変化しているのだと思う。

平安時代はこれも中国の影響で、刺繍が施された爪先が高い靴を履いていた。その後ワラジ、下駄、草履などになり、明治以降はまた靴になった。人間の作るものってほんとに多様だし、似ているし、変わっていくのだと思う。

戦国武将たちがお洒落だったというのも知って、興味深い。上杉謙信の「柿渋の陣羽織」とか、織田信長の鳥の毛をびっしり使った羽織など、羽織に凝った武将が多かったそうな。本に載っているのは主に身分の高い人びとの服なので、庶民の服はどうだったのかな。もう少し知りたかった。

この本では中国やアジアからの影響を詳しく載せてあり、いまも奥地にいるヤオ族、ミャオ族などの写真が多数あった。贅を尽くした華やかな「冠」など、質素な生活の中の豪華さが珍しい。
著者の趣味なのか、万葉集など和歌をところどころに引用しているのも、雅な雰囲気でいいなぁと思った。


  わがやどの花橘のいつしかも玉に貫くべくその実なりなむ   大伴家持

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出雲の阿国は踊りだけでなく着物に革命をもたらした。それまでの伝統的でマンネリ化していた着物に、傾(かぶ)くこと・・祭りとファッション性、<いびつにこそ潜む味>をもたらした。ファッションは、いつの時代も先端をいっているのかな。

この本で初めて目にした「容儀(ようぎ)性」という言葉が印象に残った。着物は見た目の美だけでなく、動きや所作という動態美を持つと書かれてあり、ぉよよとなりました。衣服のみではその人を表わさないというか、内面から発している精神状態が着るものを完成させるということ? 見た目や服装は、細かいところにおくゆきのようなものが現われるのかと思う。
着物以外に、服飾文化についてわかったことが多くて面白かった。(2011.2月)


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アリス・マンロー『小説のように』

2009年のブッカー賞を受賞した本。(ブッカー賞ってなに?)短編集で、カナダの女性作家のだった。ぱらぱら読んでいると、最後の「あまりに幸せ」という作品が、ソフィア・コワレフスカヤを描いたものだとわかり、んん?となる。 彼女はロシアの有名な数学者。知ってる人は知っている(知らない人はぜんぜん知らない)、かのドストエフスキー『白痴』のモデル三姉妹の一人なのでした。ドスト氏がどんな風に出るのかなぁと期待しながら読んだけれど、ほとんど出なかった(笑)。




172. 『ビヨンド・エジソン~12人の博士がみつめる未来』 最相葉月  2009年  ポプラ社

 このところ偶然に「群像」を描いたものばかり読みました。『俺俺』は現代の若者、『聖なる10人の人びと』は聖人の、『風の花嫁たち』は女性、『古代ローマの食卓』はローマ人の、そしてこの『ビヨンド・エジソン』は科学者で、『オリーヴ・キタリッジの生活』はアメリカの小さな町の群像。異なる時代と知らない国の人びとを知るほどに、彼らについて知りたくなります。

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 『ビヨンド・エジソン』は、さまざまな分野の現役科学者へのインタビュー集。仕事の内容のほかに、「なぜ科学者になったのか」、「科学的にものを考えるとはどういうことか」など、専門語も交えて、一人につきかなりページを割いています。科学音痴のわたしにとって、理系の人には尊敬をもちながらも、ちょっと異星人のように感じていたけれど(実験のどこが面白いのかなぁ?という素朴なギモンで)、文系人間にもやさしく科学を教えてくれる内容でした。(理・文というわけ方ももう古いですね)

 インタビューでは、科学者たちが大きく影響を受けた「伝記や評伝」を教えてくれるように頼んでいて、それがおもしろかった。同じ科学者であるエジソン、シュバイツアー、藤原正彦キュリー夫人中谷宇吉郎、霊長類学者らの評伝があげられるなか、ネルソン・マンデラ国語学者大槻文彦モーツァルト、探検家をあげた人もいた。

 「真実をつかみたい」という気持ち。「自然」という現象に対してロマンを感じ、生涯を通して探究できるテーマの宝庫であると感じている点。わたしが美しいと感じる芸術や作品と同じように、科学者がながめる自然の世界、宇宙というのもまた、とてつもなく美しいのだろう。彼らの探究心は、心や精神をつきとめたい・・と願う人びとと同じなのだと思う。

 半分を女性に選んでいるのは、女性科学者への敬意とエールをおくりたいと考える著者の計らいだろう。読んでいて、こんな分野で女性が活躍しているの??という驚きは大きかった。
また科学者たちが日ごろ考えたり心がけていることがらは、科学分野に限らないものだと思った。すこし抜き書きしてみるとー。


<化石の研究は、第一に実物や標本をじっさい見て手でスケッチすることが大事。スケッチが研究すべての基本になった。 好奇心を持ち続けること、得意なものをいかすこと。(恐竜学者)

常に上(新しいもの、未知なるもの、理想)をめざせ。チャレンジしていれば、うまくいかない時があってもすぐに浮きあがれる。「線香の火を消さないように」(寺田虎彦)。 自分の科学の母胎を大切に思うこと。 (物理学者)

社会の多くの人があたり前と思っていることに、なぜ?と疑問視し研究することで、少数の人や障碍を持つ人が生きやすくなるよう、考えていく。(音声工学者)

人間は使うもの・道具によって、違うことをしてしまう。IT技術に慣れた人たちの思考の源と将来にわたる変化とは? (情報科学の研究者)

ひらめいたことと全く関係ないものを結びつけて、新しいものを導いていったエジソン

自分の手足を動かして実験する。誰もやらない難しいテーマこそ挑戦せよ。

最終的に本当のことだけが残る。それがわかる時、自分は生きていないかもしれないが、本当のデータを出すことを生きがいとしている。(脳神経科学者) >



彼らを取り巻く問題・・・世界の研究者やライバル達との競争、科学者の雇用の実態、研究者としての不遇、性差別などはほんとうに数多い。にもかかわらず「現象を理解したい、法則を突きとめたい」という願いのもとで永遠の努力を続けているのだな、もうこれは誰にもとめられぬ人間の本質かなと思ったのでした。 (2011.1月)




171. 『古代ローマの食卓』 パトリック・ファース/ 2007/東洋書林

ソクラテスプラトンの食事を知りたかったので。古代ローマの政治文化は数冊読んだことがあるものの、食べものの専門書は初めて。フェリーニの映画に『サテリコン』というのがあり、ものすごく贅沢で、健康にはどうなの?的な食風景だったっけ。。

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本の前半は食文化ぜんたいの説明、巻末に実際のレシピが載っています。2千年も前の食事なのに豪華絢爛、美食そのもの。日本では弥生~古墳時代です。手に入るあらゆる食材を使い、料理法にこだわり、精巧にこしらえ、食事が人生の目的なのかと思えるくらい、貴族から庶民までみな力を入れて食べてます。気づいた特徴としては、奴隷がおもに料理をし、冷蔵庫がなく、新大陸の食材がなかったので今のイタリアンとは少々異なっていたこと。当時は腐らないようにハーブやスパイスを多く使い、ソースはバーベキューソースのように”こってり濃いもの”だった。

ふだんの私は簡単なスパゲティやラザニアを作るくらいなので、現代との違いがあまりわからなかったです。料理よりも風習や生活の方がおもしろく感じました。

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・食べ物の模造は芸術とされ、大いにアリだった。(プルーンをウニに見せかけるとか。) 偽物というわけではなく、技巧として楽しむのが好まれたらしい。
・贅沢を取り締まる法もできたが、誰も見向きもしなかった。
・共和制期から、パンは無料になった。(へぇー!)

・食事風景によく出てくる寝椅子。だいたい3台がU字型に並べられ、主賓や偉い人、その家の家族、友人・・などと座る場所が決まっていた。というか寝そべる。お行儀悪いとか誰もいわない。

・当時から食事はフルコース。盛大な宴では「前菜」として豚の丸焼き100頭とか! そのあとの食事の豪華さはもうとんでもなく。。

・宴会(シンポジウム)のテーマがいろいろあった。(プラトンの『饗宴』が好例。)哲学的議論のほか、どうでもいい話題も多かった。 ex.アルファベットはなぜAで始まるか。。鶏と卵はどっちが先。。レスリングは最古のスポーツか。。とか延々と。

・食事では男性が花冠をかぶって、香水も付けていた。正餐服はトーガという長い布を巻きつけたあれでした。(彫刻なんかでよくみかけます。)
・食ベている最中は、議論のほか舞台装置を作って催し物もやり、活気をつけていた。詩の朗読、歌、踊り、演技、剣術、曲芸、手品・・・ディナーショーみたいなものを連日連夜やっていたようです。ある詩人が「あまりの酒池肉林…」と嘆いている文も残っているとか。

・招待客への「手土産」がすごいものだった。くじ引きなどで行われた豪華版。たとえば家具、楽器、衣類、日用品、本、彫刻、絵、動物、奴隷、職人、料理人・・(人間もなの ^^?) なんでもありでした。盛大な宴を開き、みやげを豪勢にふるまって、自分の勢力を示すのが風潮だったようです。

・火への敬意とか。一家に一つの祭壇の火は、主婦が消してはならないものだった。日本でも昔からトイレならぬ台所の神様があって、祖母や母は「おくどさん」と呼んで、火や水の荒神様を神棚にまつってた。

キリスト教が広まるにつれ食事も質素になっていった。


現代と驚くほど似ている面があるものの、古代ローマの方がさらに贅沢な食事だったのでは?と思えました。ヨーロッパ文化の源は、豊かな食文化にもあったのかー。おもしろ珍しい本でした。 (2011.1月)







170.『風の花嫁たち~古今女性群像』  大岡信/1975/ 社会思想社

題名の「風の花嫁」は、ココシュカの絵―『嵐』の別名に由来している。本に登場するどの女性も内面に嵐をかかえ、同時に大空を渡る風の花嫁にふさわしい精神を持っていた―。 実在した古今東西の女性たち34人が紹介されています。うち日本の女性は10名。彼女たちはみな個性ゆたかで、強く、烈女あり悪女あり、普通の人あり、歴史的に知られた人もあれば知られていない人もいて、たいへん魅力的な女性論になっています。

それぞれの女性は5,6ページだけの紹介なので、詳しい生涯や人柄などはわからないけれど、いかに時代を生き、愛し、死んでいったかいきいき描かれています。 女優、歌手、作家、政治家、有名人の夫人、芸術家、画家の母、遊女、モデル、女スパイ…職業や身分もさまざま。有名な男と関わりがあったために歴史に名を残した女性も多い。

図書館で借りたとき、何度も手にとられたことがわかる摺りきれた古い本だった。みんなによく読まれたのだなぁと思い、わかる気がした。女性ならいくぶんかは思いあたるような、時代やおかれた場に不自由さを感じ、抵抗しようとした人びと。運命にもまれながらも自ら切りひらこうとした女性たち。こういった人たちの群に入る人もそうでない人も、彼女らの心もちはすぐにわかり、なにかを感じると思う。

悪女や毒婦という「呼ばれ方」の偏りや社会から呼ばれたわけなど、読んでいるとつくづく感じる。リルケニーチェが恋したルー・サロメという人がすごい。男性遍歴が多く、破滅型の女性に見えたのは、占有される愛を拒んだためだった。男性たちに大きな影響を与えながら、精神分析医で文筆家として活躍したらしい。

いろんな年代の女性にお薦めしたいです。女性のいいところもそうでないところも魅力として描いているので、身近にたのもしい友人や姉さん、伯母さんがいてくれるように思うのですね。(同じ生き方ができるとかしたいとは思わないのですが・・・笑) いつの時代どの国にも、壮絶で数奇な生を送った女性たちがいたし、ありふれた自分と似たひとがいたのだなぁと思う。  (2011.1月)

<風の花嫁たち> 
   マリリン・モンロージャンヌ・モローエリザベス・テーラー、 ジャクリーン・ケネディジョーン・バエズ 、 ダリ夫人ガラ 、 シモーヌ・ヴェーユ、  ルー・サロメ 、 ゾフィー・フォン・キューン 、 ゾフィー・タウベル・アルプ 、
和泉式部 、 巴 、  出雲のお国 、 おあむ 、   建礼門院右京大夫北条政子 、 今泉みね 、 福田英子 、 佐々城信子 、 与謝野晶子 、
プリヤンヴァダ・デーヴィ 、 マリー・デュプレシス  、 アルマ・マーラー=ウェルフェル 、 ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル 、 キャサリンマンスフィールド 、 シュザンヌ・ヴァラドン 、 キキ 、 マタ・ハリ 、 二人の女歌手(ビリー・ホリディ、エディット・ピアフ) 、 ニュッシュ・エリュアール 、 魚玄機 、 則天武后 、 預言者の妻たち 、 クサンチッペ 


  +++ (うちの本の感想の目次。NO1から下へ、だ~っと並べているだけなので見にくいですねぇ。反省)




169. 『10人の聖なる人々』  島村 菜津 , 引間 徹, 三浦 暁子, 高林 杳子/ 2000年/ 学習研究社

― 現代に愛を体現し20世紀のともしびとなった10人の生涯―

ダミアン・デ・ヴーステル   自らの命を捧げたハンセン病救済の先駆け
ピオ・フォルジョーネ    孤独と苦悩のはざまに生きた奇跡の癒し人
マキシミリアン・コルベ  身代わりの死を選んだアウシュビッツの聖者
ゼノ・ゼブロフスキー    焼き跡を駆けめぐったサンタクロース
北原玲子         『社会の吹き溜まり』に咲いた一輪の花
ヒューゴ・オフラハーティ   4千人の命を救ったヴァチカンの秘密工作員
エディット・シュタイン    アウシュビッツの稀有利と消えた聖女
神谷美恵子         ハンセン病患者に見出した生の輝き
カンディド・アマンティーニ   無私無欲に生きた20世紀最高のエクソシト
マザー・テレサ      (紹介文より)


このうち6人は知っていた人でした。とても印象に残ったのは、カンディド・アマンティーニというエクソシスト。昔この題名の映画があり(未見です)、伝説か作り話だと思っていました。まさか本当にいたなんて。こういった感想を書いていると、(また神秘系か・・)と思われるのがオチですけど^^、生涯に心動かされるものがあったので書きとめておこうかなと。

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はじめは悪魔祓いなんか、まゆつばものでしょ?と思っていました。読んでいくと仕事の大変さや”特殊性”がわかってきて、ゾシマ長老(←『カラマーゾフの兄弟』に出てくる有名人)ではないかと感じたんです。 日本でいえば陰陽師、現代ではカウンセラーに近いでしょうか? エクソシストの主な仕事はカトリック教会における「告解の秘跡」と悪霊祓い。信仰心に加えて、人間性など非常に厳しい条件を求められるというんです。修道士として一日8時間の祈りと瞑想もします。(静かなイメージのある祈りや瞑想って、けっこう体力気力を使う行為なのでは。)

アマンティーニはトスカーナの村の職人の家に生まれた普通の少年だったらしく、12歳の時に修道院で暮らすことを決め、37歳の時に任務を許可されたそうです。(25年の修行があったというのは長いですね。)当時1970年代にはイタリアでエクソシストが30人くらい、今は200人になっているそうで、増えている理由が知りたいです。
仕事についてはほぼ独学で、心理学も学んでいます。フロイト心理学が広がり、悪魔憑きのほとんどは精神の病であると認識される中、なお <目に見えない知性を有する存在>(どちらかというと悪の)に人間が影響を及ぼされる可能性を感じた経験もあったそうです。心理学と神学を融解させて(?)お祓いをする…というところが興味深いです。

アマンティーニ神父は、不合理に見えるできごとや病の意味するところを一瞬で見抜き、張りつめている心を汲み取り解放させることができたそうです。全身全霊をもって相手と対峙したために心身ともに消耗したというのを聞くと、現代のカウンセラーとはすこし違う仕事だったようにも思えました。 宗教的な医療行為がどういった効果をもつのかよく知りませんが、地下茎のようにあらゆるものが繋がっているこの世のできごとが、精神の病や不具合を生じさせ、悪霊祓いの対象になる場合があるのだろうなと思いました。 著名になる一方で、彼自身は無名で没することを望んでいたらしいです。

彼ら10人は、私たちとかけはなれているようで、実はごくふつうの人であるようにもみえました。  (2011年 1月)





ひとひらの言の葉>

_光のなかで、人は他者の創作した物語を読む。闇のなかで、人は自分の物語を創作する。

_ある種の本は、後世に書かれる本の予兆だという考えがある



_わが書斎の本のどこかのページに、この世界における私の秘密の経験を描いた完璧な記述があるかもしれない。  (「神話としての図書館」)

_ボルヘスは目に見えない図書館の空間を、けっして書かれない自作の物語で埋めるのを楽しんだ。ときにはそれらのために序文や要約や評論を書いてみることさえあった。(「空想図書館」)

_大きな図書室には天からの宣託やテレパシーの交流といった偉大な力がある。

( A・マングェル『図書館 愛書家の楽園』より)

     ***************

こころざし深き人にはいくたびも あはれみふかく奥ぞ教ふる    

茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合にせよ      利休


<読書メモ>

イードのエッセイ論文『晩年のスタイル』から、ジュネがパレスチナ解放運動に深く関わっていたのを知りました。ジュネはアラブ人を心から愛しており、そこにエロティシズム的なものがあろうとジュネの心は西洋を脱しアラブと革命に向かっていたのだと述べています。ジュネの文学や活動についてはほとんど知らないので、追々調べたり読んでいきたいかな。

  「この戯曲(ジュネ『屏風』)の壮絶で倦むことのない、ときには滑稽ですらある劇場性のなかに発現する偉大さとは、フランスのアイデンティティ―帝国としての、権力としての、歴史としてのフランス―のみならず、アイデンティティという概念そのものを、慎重かつ論理的に解体することにある。」

  「彼がアラブ人と最初の接触をしたとき、たとえ彼らとは異なっているし今後もそうだとしても、彼らを享受でき、アラブ人といると心なごみ、そうしていることが贈り物でもあると感ずるような者としてアラブ人空間に入り込み、そこで暮らしたのである。」

イードは音楽や映画についても詳しかった。ヴィスコンティモーツァルト、特にグレン・グールドについて多く語っている。作家や芸術家たちの <晩年の作品> についての考察ではアドルノがよく出てくる。アドルノってサイードの師匠?どんな人なんだろう。読んでみたい。

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『1Q84』という題は、ヒロイン青豆が感じた現実のずれ、パラレルワールドを表すために「question -?」を入れて1984年にしていた。もう一人の主人公 天吾の父親の職業…受信料の集金人についてかなりのページを割いており、印象に残った。

<…そのあとの日常風景がいつもとは少し違って見えてくるかもしれません。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。>

…人物の心理描写はほとんど書かれていないのに、彼らの心性は強く響く。  




168 .『俺俺』 星野智幸 2010年 新潮社

時どき町なかでそこにいるはずのない息子を見つけて、びっくりしかける。もちろん他人の空似。いまは昔より顔立ちがみな似てきているんじゃないかと思える。どうなんだろう? 詐欺を思い浮かべる題名とは全然ちがう、現代人の特徴をすごくよく捉えた物語だった。

始まりはオレオレ詐欺で、騙(かた)った人物と自分がいつのまにかすり替わり、「俺」が増殖してゆくという、ドストエフスキー『分身(二重人格)』にもちょっと似た話。若者が希望を持ちにくいのがピンときたというか、自分もその一人だった?と実感。。

主人公の「俺」だけでなく、両親、友人、同僚らの日常がかなり均質で、別の誰かに入れ替わっても続けられるだろう風景。現実には全く同じでないにしても、行動、欲しいもの、考えること、将来までもが「似たものを選ばざるを得ない」ようになっているのは、わかる気がする。もちろん平和でありがたい状態なのだけど。。「流れやすさ、染まりやすさ。他人を自分のつっかえ棒や鏡にしている。」 「何かよくわからないが耐えがたい感じ」や焦燥感が、リアルだった。

この小説には出てこないnetの匿名掲示板には、無数の「俺」や「私」がいて、自分が考えたことを誰か代わりに書いてくれてる気になることがある。「人と同じ」という安心感と、それでも自分はやはり違うと言いたい感覚。。とても奇妙で、今までの現実には無かった空間なんだなと思う。PCユーザーは「ほかの誰か≒見えない俺」に同化しやすくなり、だから反発もしやすくなるのかもしれない。

95%くらいが似ている「俺」同士は、物語のはじめはお互いの記憶を引き出しあい、完璧に理解しあえる関係だった。けれどしだいにイワシの大群が泳いでいるのを見ているようで、イヤな「俺」に気づき、争うようになる。それは「らせん状に降りていく生き方」であり、他人ばかりか「俺」自身を削除したくなってゆく。「俺らに仕込まれた自動的な生き方は、強力に俺らを支配している」感覚。意志は奪われ、いや最初から与えられていなかった、という思い。よく耳にする閉塞感ということばが少し身近に感じられました。

作者の意図なのか、ここには悪意のある人しか登場していないけれど、実際には善意の人は多い。けれども主人公がアルバイト先で体験したような、殺伐とした人間関係やいじめなどは、現実に多く起きていると思う。ほかにも疎外、自由、教育、家庭モンダイも込められていたと思います。

無限に増えるかに見えた「俺」の描写が続き、最後はどうなるのかと思ったら、すこし光が見えてほっとした。急ぎ足のラストはちょっとものたりなかった。答えは書かれてないけれど、肥大した自我を捨てる、自分への誇り、他者への真の受容…などがヒントかもしれない。

星野氏作品は初めてで、かなり楽しめました。(第5回大江健三郎賞の受賞作品です。)  柴田元幸なども読んでみたいし、平野啓一郎も再読をと思っています。 (2010.12月)




167.『始まりの現象 意図と方法』(『Beginnings ~Intention and method』)  E.W.サイ-ド 1992年 法政大学出版局

年の始まりに、初めて読んだサイードの感想を。哲学の本で難しかったので拾い読みだけです。もの作りする時の新しい発想とか作り方がどこから出てくるのか知りたかったから。(ゴッホダ・ヴィンチの手記なんかにも書かれているかもしれません。)

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「ひとつの始まり―あらゆる創造、活動において何がみられるか。その瞬間の態度、心構え、意識における特別なもの」を探ろうとしている。それは「たとえ抑圧されている時ですら、その後から続いて出てくる第一のステップだ」という。ごく簡単なメモと感想です。

第1~第6章: <始まりとなる発想/始まりの現象についての省察/ 始まりを目指すものとしての小説/テキストをもって始める/文化の基本要件/結びーヴィーコ

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基本的には「始まり」は、単純な直線的成就であるよりはむしろ、回帰と反復とを内意している活動である。

(私たちは「始まり」から一直線に伸びてゆくものをイメージしがちだ。後戻りしたりスパイラルを描きながらあちこちへ進むものをイメージした方がいいかもしれない。その先は見えているようで見えない。)

・ひとつの始まりは意図を持っているがゆえに、それ自体の方法を創造すると同時に、それ自体の方法でもあるということ。

(自分で意識する/しないに関わらず、始まりには何かの目的やもくろみがある。モノ作りする時には、新しい作りかたを編みだすとともに、<作り、考え始めること>そのものが重要という意味だろうか? つまり「始まり」がなければ、そこにはなにも無いのだ。)

・始まりは差異を作ること。その差は慣例的なものと新しいものの相互作用の上に立っている。

(何かの始まりは、今までにあったもの/古いものとは別の、差のあるもの。その差は、今まで使ってきた/経験したものを用いながらも、まったく未経験の、どこか新規なものを取り入れることだ。二つの組み合わせ、掛け合わせ、応用。)

・始まりにおける「選択」が大事。ある作品の始まりとは、他の作品と決別し、それとの関係を作り上げること。

(始まりは、多くの中から何かを選ぶこと。その選びかたは、始まりに続くものを決める。サイードがいう「作品」とは、広く人が活動し作りだすものをさすと思う。今までのものと同じでは「始まり」といえない。始まったものとの関係を創ってゆく行為。新しいものとの関わりだけではなく、古いものの作り直し、結び直しも、「始まり」に入れられるだろう。)

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memo> わたしたちの外部にある何かの「始まり」へ目が向くのは、そこに<動き・新しさ・エネルギー>があると感じるからだろう。自分の中にもそれらが既にあって、「始まり」に与りたい、共有したいと願うからだろうか。「始まり」にはそれを行う人の違いがはっきり表れる。今まで経験してきた多種多様な積み重ね、プラス真似があり、どこか独自性があるだろう。

そこに強い力が在り、よく考えられてセンスを全開にしていると、新しいものが生まれる瞬間がくる(…時もある)。 自分が想像した以外のもの、かんがえた以上の作品がうまれる場合があり、とても心地よい刻(とき)だ。刻とは打ち記すこと。どこか楽しみながらも、ぎりぎりの状態で創りだしたものを、刻んでゆくような。 いい「始まり」は他の「始まり」を誘うのかもしれない。

哲学の本も、けっきょく自分でものを考えるための手がかりやヒントなんだろうな。  (2010.12月)




166.『哲学者とオオカミ』 マーク・ローランズ/2010/白水社

野生のオオカミ(名はブレニン)を11年飼っていた若き哲学者の手記。生活の記録とともに、兄弟、友、息子であったブレニンから得られた、人間と動物、愛と友情、死と幸福についての哲学的考察になっている。(* 思い出した、、沖仲士で哲学者だったホッファーにちょっと似ています。)

一匹オオカミという言葉や生きかたのようなものに漠然と憧れていたわたしの浪漫ちっくな夢とは別の、ほんものオオカミの生が描かれていた。ブレニンとの共同生活は変わった形だけれども、文明を原始の眼で見ているような、タイムスリップして狩猟時代へ戻ったような、ふしぎな感じをもった。
とても良かったので2010年のベストブックに追加しておこうと思う。感想より引用や抜き書きのほうが、本の魅力を伝えられるかな。。 

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― わたしたちの誰もがサル的であると思う。人生についての話からオオカミ的なものは消去されてしまった。・・・サルの策略は最終的にはなんら効果を生まないだろう。知恵はあなたを裏切り、幸運は尽き果てるはずだ。いちばん大切なあなたとは、そのあとに残ったあなただ。

― ここには、オオカミと人間とのあいだの空間においてのみ生じうる、ある種の思考があるという意味で、わたしのものではないのだ。

― イヌやオオカミは人間以上でも人間以下でもない。彼らの本質が実存には先立たないこと。一種の敬意をもち、ある種の倫理的な権利を与えなければならない。オオカミは遺伝の掟に盲目的に従う操り人形ではない。オオカミは順応できる。人間に劣らず、自分に与えられたカードでゲームができる。うまく使えると自信をもち、学んだことが好きになり、もっと学びたくなる。


(* 著者はブレニンと暮らしたほとんどのあいだを、仕事は別にして人と交際しなかった。なぜオオカミを飼うことにしたか。人間嫌いという言葉も出てくるけれど、ほんとうはそうではないことが本の最後でわかる。動物の倫理的権利を考えるなかで、菜食主義者にもなっている。ブレニンには人と動物の境界を超えて、じぶんの影か分身のように接している。とくにブレニンを看取るまでの描写には胸動かされた。ブレニンは弱いものいじめをせず、自分より強そうなイヌには敢然と向かってゆく性質をもっていたらしい。人生の同志とも呼べるブレニン。もともと哲学を専攻していた著者は、オオカミによって思索を深め、大変な生活(室内や車内をボロボロにされるとか…)を引きうけることで、他の人には味わえない人生の苦さと甘さを味わったのだと思う。)


「― わたしたちの知能は無償で与えられたものではない。進化において選択の余地はなかったとはいえ複雑さ、繊細さ、芸術、文化、科学、真実、人間の偉大さと呼びたいものすべてを陰謀や詐欺という代償を払って買ったのだ。」
文明化されないオオカミの特質。サルの社会的行動についての比較。 

「― なぜわたしはブレニンを愛したのだろうか。イヌやオオカミはわたしたちの魂の、久しく忘れられていた領域の奥底にある何かに語りかけるのだ。そこにはより古いわたしたちがすみついている。このオオカミの魂は、幸せが計算の中には見出せないこと、本当に意味のある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。」

「― アリストテレスなら、この愛をフィリアと呼んだだろう。これは群れへの愛だ。
感情はフィリアではない。愛にはたくさんの顔がある。愛するなら、これらすべての顔を見渡せるほど、強くなければならない。フィリアの本質は、わたしたちが認めようとするよりもはるかに厳しく、はるかに残酷である。フィリアが存在するためには、どうしても必要なものが一つある。これは感情の問題ではなくて、意思の問題である。自分の群れへの愛は、群れの仲間のために何かをしようとする意志だ。どんなにそれをしたくなくても、それに対して恐れや嫌悪を感じても、それに対して最終的には高い代償、耐えられるよりもっと高い代償を払わなければならないとしても、そうする意志である。それが群れの仲間にとって、一番良いことだから、そうすべきだからこそ、するのだ。」

★ おすすめの本です。




イードがエッセイで書いていたジャン・ジュネの姿は、作品から受ける印象とは違ったものだったそうだ。<激しさと厳しい自制心と、敬虔ともいえる静謐さ>を表わしたジャコメッティ作の肖像画そのままだったと。ジュネを読んでみたい。

書いた/書かれた言葉の氾濫。内容そのものではなく、美しいと感じるかどうかで判断してみよう。プラトンの比喩に照らして。なにかをうみだしているか? 

ずっと前から憧れの作家はソンタグアーレント、サイードの三人。わたしには無理めな本なので敬遠していたけれど、わからなくてもいいから拾い読みしようか。