本の窓 25

+++ 本 25+++

 182.『東北学/忘れられた東北』 赤坂憲雄 /講談社学術文庫/2009



□1 みちのくへ再び―

 ちょっと東北へ行ってきました。赤坂憲雄氏の本に導かれての再訪で、なにができるか、なにをすればいいのか…長いあいだ考えていました。(三日のために2か月ほど準備して。) 行っては迷惑になるだろうか。知り合いも土地勘もないところに無謀では…などと考え過ぎて行けなくなりかけ、早く行ってしまおうと決心したのでした。

震災の関連サイトで情報は多く集めていたものの、自分で計画を立てて遠くへ行く経験に乏しかったので、余震が起きたときの移動手段、非常時の予想、自己完結型といわれる準備、地図などを調べ、できることやりたいことを最小限に絞りました。なにせ携帯電話ももっていないうえにプリンターが壊れ、ネットでしらべた列車の時刻を手帳に書き写す… という、デジタルかアナログかわからない旅のはじまりでした。  


 < 笑史、 歴史を笑う。いったいどんな歴史を笑えと老人は幼い孫に教えたかったのだろうか。
笑史は蝦夷である、という。あのマツロワヌ異族の民・蝦夷を滅ぼし、かれらの歴史を闇に葬ったヤマトの歴史をこそ笑え、と老人は教えたのか。
わたしはただ、この東北の地のそこかしこを欲望の促しのままに、ひたすらに歩きたいと願う。
東北はいま、わたしのあらたな巡りのフィールドとなった。かぎりなく私的な、東北へ/東北から――。>  『東北学/忘れられた東北』より



□2 鬼が舞う―


 なにか二つ以上のものが結びついた時、強く印象にのこることが多い。東北にこの本を携えていたら、先月読み終えた『日本再生ー東北ルネッサンス』の対談者だった井上ひさしと、TVに映る吉里吉里町やひょうたん島、地元発の新しい産業となった「復興の薪」が一気に結びついた。

「東北の人は寡黙なばかりじゃない。いったん話しだすととまらなくなったり、お茶目な面がある。」 どこかで読んだのを思い出した。被災された人が日記をアップしたり、ほかの人を支援する活動をはじめたブログを読むうちに、その言葉を確かめたいと思うようになった。でももう東北は元気になりつつあると思うのは、早いかもしれない。言葉にできないまま思いを抱え込むしかない事情の人も、きっと多くいるはずだと思う。


『東北学/忘れられた東北』は内容が濃く、東北の奥深くわけいり、いくえにも折りたたまれた歴史や地域、文化をおもてにだそうとこころみている。各章は物語のような内容で、文学の香りのする題がつけられ、山林地方が多く取り上げられている。
列車は福島ー宮城ー岩手と進んだので、秋田・山形についての章は読んだだけだったが、新幹線にゆられながら広げた本に出てくる土地が近くに在る・・「達谷の窟」はさっき通った・・などと思いを巡らせ、地名の由来や人びとの暮らしが身近に感じられた。

著者は柳田民俗学からこぼれおちた人びとを丹念に探しだし、新しい眼で眺め、芭蕉が語らなかった東北について語ろうとしている。 読めば読むほど東北のことが謎になり、北や南の文化、アジア、環太平洋へと向かせてくれる。自分の内なる「西南のまなざし」も意識するようになった。


北上市鬼剣舞(おにけんばい)を見たいと思ったのは、賢治の詩『原体剣舞連』が、悪路王と呼ばれたアテルイを描いていたと聞いたため。 東北芸能は農耕から発生したものに限らず、狩猟や山の神や修験者に由来したものもあった。とくに剣舞蝦夷とよばれた人びと、戦に散った人びとの怨霊を鎮める念仏踊りだったというのを読んだ。





鬼剣舞は動きが躍動的で、踏みしめる足さばきも扇も、たいそう力強かった。庭、加護と呼ばれる踊りが一時間演じられ、太鼓のリズムと横笛の響きが耳に残っている。踊り手たちは、こんどの震災へのみんなの思いを集めて踊ろう、心を奮い立たせてほしいと願ったらしい。初夏の空の下 鬼たちの舞は山を越え、海岸に漂う人びとの魂へとどいただろうか。


<東北がみずからの言葉で語りはじめる時、大いなる地殻変動が起こるだろう。都/辺境というまなざしの構図が壊れ、もうひとつの豊かな東北が起ち上がってくる。>



□3 夕暮れの光原社にて―


 猫の手にでもなれば…と、物資を送っていた縁で、岩手のある支援グループの手伝いに。有志で始められたそこには、外国や全国からおおくの品物や支援するひとたちが集まり、日ごとに水の輪のように活動が広がっている。

被災者の人が今どのような生活をされているか、応援・支援のようす… 一葉のような体験ではあるけれど、行ってみて実感できたことが多い。生活品も食べ物もまだ足りていないし、住んでいる場所や形によって、さまざまな支援が必要とされている。義援金の配布の遅さを知ると、募金先や方法を考え直そうと思った。
作業所では、送られてきたどんな品物も無にしないようにと心づかいされているのを感じた。 新しい問題や悩みをみなで相談し、手探りで解きながら進んでいるのがわかる。

社会福祉協議会のボランティアセンターにも、たくさんの人の知恵と支え合う気持ちが集まり、どこからそんな力が湧いてくるのだろう?と思うような、強力なバックアップ態勢が築かれている。支援する人たちの情報共有のためのミニ新聞まで発行されている。行政と手を携えた地域復興プランも出るようになって、ボラセンが将来、地域のコミュティセンターやサロンになる計画もあるそうだ。


土地の人には「ここのことをまわりの人に伝えてください」、「ぜひ被災地を見て帰ってください!」と言われた。こうした地元のひとと、他の地域からあつまってきた見知らぬ支援者が、協働して作ってゆくネットワークができつつある。斬新なノウハウや知恵が蓄積され、バージョンアップして他の地域や団体にも共有されるといいし、次の災害への備えと参考になればいいと思う。

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夕暮れの街を歩き、「光原社」というお店を訪れた。一歩入ると、外からわからなかった路地と中庭があり、小さな喫茶店や民芸店なんかが並んでいる。
いちばん奥には…北上川が流れるベンチも待っていた。 



マヂエル館という建物には、思いがけなく賢治の自筆原稿が展示されていた。そして高木仁三郎氏の人生を方向づけたという、
『われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか 一時間』 という言葉を見つけた。

光原。 光のもと… 出会った人たちにその名をかさねつつ、店をあとにして急ぎ足で北上川を渡った。


□4 倒れた樹々の中をバスは走る―


 名取駅から仙台空港ゆきの往復バスに乗り、降りてゆく客を見送っていたら、一人だけになった。住宅地を通っている時はモダンで新しい家がたくさん建っていて、仙台の都市化を感じた。もう仮設住宅が並んでいるのが見えた。

小さな川と道路を通り過ぎた時に景色は一変した。

原っぱのような更地が続き、遠くに曲がった松の木が立っている海岸がみえる。
あちらこちらに、根元からなぎ倒された木や、鉄の棒がそのままになっている。
ところどころ窪地に、浅い池のように水がたまっている。

ぽつん、ぽつんと家が立っているので見ると、二階はもとのままなのに一階はすべて壊れており、片づけたあとなのかドア向こうの景色がすっかり見えている。
涙ぐんで地面を見ていると、家の土台だったような跡がたくさんあった。
遠くで作業している数台のトラック以外は誰もいなかった。





これが現実なんだ。……何もかもなくなったのだ と思った。

そっと手を合わせた。

「あの日の前には戻れない。でももっといい町にする。」 被災された人の言葉が、この時ほど実感できたことはなかった。空港や周辺はかなり復旧していたけれど、ほかの沿岸地域は三か月前の状態の地域も多い。行く前はどこかに重いものを抱えて落ち込みがちな気分で、津波の跡を見たときの衝撃を想像して不安だったのに、ありのままを見たことで、ここから進むしかないんだと静かに受けとめられるようになった。

帰宅して数日たち、明け方のまどろみの中に浮かんだのは、「陸が海になったんだ。岩ごとおしよせる黒い海に・・」という津波の微かなリアリティだった。

係員の人たちはバスを見送りながら深ぶかとおじぎしてくれ、運転手さんも最後まで丁寧なアナウンスをしてくれた。東北で出会った多くの人たちを、ずっと覚えていたい。



□5 旅の外のなにか(無常を超えるもの)― 

 東北という大きな山の麓でみあげた景色はほんのわずかで、中腹あたりも頂きも未知のままだ。そして世界にはもっと知らない土地がある。…
いち早く復旧がなされた新幹線では、思い浮かべていた「道の奥」の遠い感じはなく、意外と近いんだなとわかった。といっても駅を離れると、車なしでは不便なように感じられた。 土地の特色をすこしでも知りたいと目をこらし、家を囲むように点在する防風林や、道ばたの地蔵さまの群れに気がついた。遠野や沿岸部にも行きたかった。
このような深い思いで旅したのは初めてで、短い時間ながら私にとって大きな体験でした。東北の人の明るさ、やさしさ、たくましさを少しでも肌で感じられたのは幸いでした。 


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後半はぜんぜん本の感想になっていませんね。… 最後に、北上で偶然見ることのできた賢治の詩碑〔二川こゝにて会したり〕 についてちょっとだけ。




 
安藤元雄さんという方によると、「賢治はどうやら、一つの水に別の水が流れ込む川の合流点にこだわりがあった」らしく、「異水流入のモチーフだという。 私には「異水流入」が、異なる文化や民族、ヒトが出会い、交じりあってゆく喩えに思える。源流も性質もちがう二つの川が、温度差がありながらも濁流となりせめぎあい、変容しながらひとつになって流れゆく眺め・・・。自然のまじかで生きた賢治の鮮やかな心象スケッチだっただろう。悠然とした命のながれのようにも、どこか日本が変わってゆく兆しのようにも思える。    

(二川こゝにて会したり)
(いな、和賀川の川水〔みづ〕雪代ふ
夏油〔げとう〕のそれの十なれば
その川ここに入ると云へ)

藍と雪とのうすけぶり
つらなる屋根のかなたより
夏油の川は巌截りて
ましろき波をながしきぬ


  +

ありがとう 東北。                 






”Gregorian Chant Benedictinos”   グレゴリオ聖歌 祈り 


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181. 『市民科学者として生きる』高木仁三郎岩波新書/1999 

題名で目を引かれた<市民科学者>という言葉…あまり聞き慣れないこの語は、編集者が付けたそうです。著者(1938-2000)が死を目前にして綴った貴重な自分史としても読めるし、1950年以後「核の時代」の反原発運動の歴史としても読めます。考えたら二十年以上わたしは東京電力を使っていたのに、福島県原発があって、なんだか危険な気はするけれど、国や大きな会社が安全というのだからまぁ安全なんだろう・・と思っていました。たぶん大多数の人も同じだったのではと思います。関心を持ってこの本を読むと、実は大きなリスクがあったのだとわかります。原発施設が自分の近くではなく他の地域にあったという事実にも、なにかいたたまれなさを感じました。

ふつうの人や文系には、原子力のことはよくわからないし難しいです。だからこそ、専門的な数値や情報を出されてもわからない人むけに、市民の目線で説明してくれる科学者やジャーナリストがいてほしいですよね。
高木氏ははじめ核研究者として仕事に没頭し、一時は核施設に勤めていたものの、しだいに周囲の人が問題意識や切実感に欠け、大きな組織に埋もれて疑問や反対の声をあげようとしないことに失望したといいます。意見を言えない雰囲気・・いつのまにか自己を規制してしまう(遠慮して控えめな美徳にもみえる?)のは誰でもあることですが、著者が組織を出た決意には深い意味があると感じました。
核エネルギーの可能性を研究していくうちに危険性に気付いて、プルトニウムが不可思議な動きをして、いまだに解明できない」と述べていたのがとても頭に残ります。  他の研究者はわからない事や問題意識があってもそれを言えないでいたと指摘しています。氏は誰かを批判する時も、それなら自分のやっていることは正しいのか?という問いかけをいつも持っていました。迷いや弱さ、反省をありのままに述べ、研究に専念して社会的な問題から離れているべきか?と悩み続けたそうです。

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反核運動は政党やイデオロギーとからめて見られたため、あくまでも一市民として活動したかったそうで、関係者へ情報公開を求めたり、ヨーロッパの団体と連帯したり、原発を勉強する出前講座をおこなっていました。1980年代はドイツなど世界で環境にかかわるNGO活動が始まり、当時は高木氏も有名でしたが、90年代~今世紀にかけては原発推進が主流になったのを遅まきながら知りました。 そして全国で反原発運動が広がり、1988年は日比谷で2万人のデモがあったのに、どうして下火になってしまったのか。今なら安全神話は崩れたと皆思うけれど、原発がうまくいっているように見えた時期は、危険を訴える声は消えてしまっていた。各地の原発で小さな事故があったのに、、、。そうした原発への人びとの<関心の変化>には、現在と将来、そしてじぶん自身も含め、多くを考えさせられます。

同じ研究者でも、推進派と反対派にわかれたのはどうしてだろう・・。原子力エネルギーが危ないと知っている研究者が、「でも推進していこう」と「やっぱり危ないから止めよう」に分かれた。 後者は「原子力エネルギーの危険を、自分の利権を離れて、将来にわたって真剣に考えることができたこと」でしょうか? 当時は反原発運動が高まった一方で、運動や著者への<圧力>も激しく、精神的にきつかったことが文の端々からうかがえました。この辺りは、ぜひ一読されてみてください。

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三里塚闘争など地方で出会った人びとが熱心に勉強していること、土地をほんとうに知り尽くし、慈しんでいるすがたに驚き、自分が歩く道の光となった。また周囲に助けられたし、本気でなにかをすれば誰かが助けてくれるものだと述べています。脱原発を主張した科学者というより、「どうすれば科学は人間を幸せにできるか」をいつも考えていた、ひとりの市民でした。  

氏は「自分の生きている間は原発は止められないかもしれない、しかし将来必ず世界の原発はなくなるだろう」と書いています。これから日本人がどうするか・・・世界が注目しているだろうと感じます。ほかにも原発運動のはらむ問題として、大量消費社会のライフスタイルのこと、差別を強いる点、中央集権型の巨大技術とエネルギー市場のかんけい、核兵器開発と国際政治の力学のことなど、この本一冊で、いま現実に問題となっている事柄の多くが理解できる内容です。
原発のことに限らず、災害や危機についてわたしは関心や意識がなかったんだな・・と思えただけでも読んでよかった。とてもおすすめの一冊です☆  (2011.4月)




<各民族の主たる栄光は、その中の作家たちから立ちのぼってくる。> 18c-ジョンソン

「作家がすべきことは? 言葉を愛すること、文章について苦闘すること。そして世界に注目すること。」  S・ソンタグ


江戸時代の北上川は交通路だったが、明治23年東北本線が全通してからは街道もさびれた。
岩手の峠には、交流物資を集めておく「お助け小屋」があった。
アテルイの物語から「原体剣舞連」へ。詩の力強さ。
古代の米はコシキという容器でむして食べた。


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180. 『新日本風土記  東北編Ⅰ』 宮本常一編/国土社/1976年

 東北へ行くまえの旅情と感傷にひたっているあいだに、現地の復興は着々と(所によってはすごく遅く)進んでいるようです。手にしていた観光ガイドの明るさと「新日本風土記」の地味さの違いって……。通り過ぎる者と土地に暮らす者とのあいだの境界は大きいようにもみえるし、土地の人びとに寄り添えばそれはすぐに超えられるものかもしれないと思います。

地域研究者による青森、岩手、宮城、福島の歴史・風土の紹介があり、古代から昭和40年代くらいまでの歴史がざっと書かれた各章を宮本常一がまとめています。このあと読んだ赤坂憲雄『日本再考』がとてもわかりやすかったです。宮本常一の著書はまだ読んだことがないのですが、代表的な本『忘れられた日本人』だけでなく50冊もの全集があるのです。すごいです。ある作家や思想家の全集がどれくらいあるか知ると、一生を費やして探した宝石が目のまえにさしだされたようで、私なんかいつも感動してしまいます。

陸奥の国東北は「馬と金(きん)」の大産地だったとか。九世紀ころ、馬は国の安危にかかわる問題で、馬政と呼ばれるほど馬の生産、飼育、管理などが当時の重要政策であったのでした。軍事馬の買い漁りで市場が混乱したとか、今では想像するばかりですが、東北に馬にまつわる祭りが多いのもそのせいなのでしょうか。 金(きん)は世界遺産になった平泉中尊寺にふんだんに使ったほかに、奈良の大仏造営の最終段階で金がなくて困っていたとき仙台藩に天恵のごとく金が出た!というので、都は大騒ぎになったらしいです。

珍しい「オシラサマ」という家守りの神様―。広く東北に見られる木製の人形で、馬と女性の頭の二体で一組になっている。遠野物語に登場し、娘と馬との悲恋の民話が元にあるそうです。代々その家の女性が布きれをかぶせて大事にしまっておく…といういわれも興味深いです。 青森のイタコについても説明があり、イタコといえば寺山修司を思い浮かべ、ねぶたやみちのくの祭りになぜか血沸き肉躍る私は、もしかして縄文DNAが濃いのでしょうか?

ヤマトからの圧力に抗い、長い時代を耐えてきたみちのくの人びとが内奥に秘めている力というものが、しだいに私の中で形となってくるようです。東北というひと言ではくくれないだろう重層的な地域のすがたは、森に分け入ってゆく時のように目をこらさないとみえそうになく、たくさんの豊かな姿をこれからも見せてくれるかもしれません。ネットやニュースで見聞きする人びとの姿と言葉は、あの土地が培ってきたのだと思いたい。 支援物資に”胴長を希望”する 漁師の恰好をしたい漁師さんには、海が好きなんだな、また働きたいんだなぁとしみじみするのでした。

津波と洪水については警鐘が鳴らされていました。体験者である古老の話や伝承が大切だーと。

       ++

新日本紀行 東北』 NHK出版 

こちらは昔TVで放送された番組の書籍版で、各地の人びとや祭り、習俗などを映像と綿密な取材でまとめてあり、かなり古い記録だったものの興味深かったです。(いまも「新日本紀行ふたたび」という番組で続いているようです。) 

その中の「黒川能」について調べていたら、ちょうど数年前の新しい取材が再放送されると知り、観ることができました。土地に根づいた能や神楽は、今も各地に残っているのですね。参加者にふるまう豆腐焼きの大豆を育てたり、道具や舞をみなで手分けしてになう・・・年に一度の祭りのために生きるくらしがあること。   (2011.5月)  




 「〈力〉がたたいて自分に裂け目を開いた時に 衝撃から気をとり戻して裂け目を閉じ、自分を固まらせるために意識的に使えるものごとを、選びぬいておかねばならん。」 

<人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ。>




 「ヘナロの愛は <世界> なのさ。大地はヘナロの愛を知っていて、彼をいつくしんでいるのさ。
だからヘナロの生活はあふれんばかりに充実していて、どこにいようと ゆたかでいるのさ。
ヘナロは自分の愛するものの道を旅してゆくのだから、どこまでいっても完全なのさ。
これが二人の戦士の執着だ。この大地、この世界。戦士にとってこれ以上に大きな愛はないのさ。」    (『気流の鳴る音』)

    + + 

<対戦相手は当時最強と言われた木村名人。 一方、阪田は16年ぶりの公式戦のうえ、齢はすでに66。 一時代を築いた棋士とはいえ、棋力のピークはとっくに過ぎ去っていました。
日本中が注目する世紀の一戦、しかも阪田不利と叫ばれる中、後手の阪田は自分の最初の手で突然、「端歩」を突きました。 勝負師ならではの奇策に、日本中のファンが熱狂したと言います。
後手でありながらなお1手損とするこの指し手は、関西の棋界を背負う阪田のプライドが指した一手だったとも言われました。 とにかく、ファンの度肝を抜いたこの一手は、それから長く棋界の「謎」となったのです。>   TVアーカイブ

      + + 

 ふっとおもうのは。 映像で見る被災地は、点の風景。点は散らばっているように見えるけれど、ほんとうは500キロメートル以上も連なっている――このことはどうしても想像できない。低空飛行で海岸線を追いかける鳥ならぜんたいが見えるかな。

  濁った海中に、家や、誰かが使っていた道具が浮かび、沈んでいる写真・・・「海の中にいまあるもの」に気づかされる。魚はどんな景色をみているのだろう。人間がいなくなった田畑をかけ回る牛や犬の目には、なにが? タルコフスキーの映画でトロッコがゆっくりと進む草原と廃墟を思いだす。

  いちばん悼まれるはずの 人の姿は、どこにもない。ひとりひとりの「名前」として、不明者の数としてだけ在る。

全国の放射能濃度がじわじわ上昇しているのに気付く。うっすらといつのまにかモヤがかかるように。風評じゃなく実害なんじゃないかしら。

  今までになかった新しい支援方法やアイデアがたくさん出てきて、賛同者も多いのを日々感じます。とくにネットではすぐ人が集まり、支援が始まるのがみえる。みえることがさらに人に伝わり、増えて大きくなってゆく。




 ぐうぜん古本屋で見つけた『市民科学者として生きる』―。プルトニウム研究者で「市民の科学」がライフワークとなり、脱原発運動をされた方です。原発問題についての知識がたくさん得られます。店先で立ち読みしたわたしは、著者が宮沢賢治の羅須地人協会に共感して人生の道すじをきめた―というひとことに即買い!となり。これ、とてもおすすめです★ 原発にもっと関心を持っていればなぁとくやんでいます。 (また感想書きます)  『市民科学者として生きる』 高木仁三郎 岩波新書  


 < 多くの専門家のなかにあきらめを超えた一種のニヒリズムをみた。困るのはこのような諦観が現状の危機を放置するどころか加速する方向に動くことだ。 背景には商業主義によって新たな欲望が掘りおこされ続け、人びとの不満感を解消、回避させてしまう事実がある。 科学技術の進歩もそれに責任がある。 あきらめの浸透が希望を抑えこんでしまっている。>




179. 渡辺信夫『東北の歴史再発見』/河西英道『続・東北ー異境と原境のあいだ』/『東北の歴史Q&A』/『司馬遼太郎 講演集』 

東北の勉強をしています。(といっても本を手あたりしだい借りて読んでいるだけですが・・。なににつけても「まずは本から入る」スタイル。)ほんとうはよく知らないので秋田と山形はどちらが北だっけ?…と迷うのは東北のひとの 広島と山口はどっちが西?という感覚とおなじかと思います(汗)。
太宰の青森、賢治の岩手、奥の細道、凶作と冷害、寒い…という自分のイメージはいつの時代の。 数冊の感想をまぜこぜに書いてみます。

* 仙台藩伊達政宗の国際認識 ― いままでの歴史研究では、近世大名の国際認識が問われることはなかった。というのは一地方や地域というものが国家を超えて直接 外国と国際関係をもつ ということが想定されたり研究されてこなかったから。ところが1613年の慶長の遣欧使節では、当時は珍しかった洋式船を仙台藩自らが造り、幕府の承認を得ながらも、かなり自主性をもった対等な直接取引をイスパニアにもちかけたらしい。中央政権に従う藩政だけではなかった・・・という点を強調した本がありました。

* たび重なる冷害や凶作から近代化の中で遅れた東北、貧しい地方という理解がなされてきた(また差別や支配の対象となった)が、それはなぜだったのか?という疑問が、東北を語る人や研究者のなかで起こったのが近年らしいです。

  * いろいろ読んでいるうちに民俗学とのつながりが見えてきました。柳田国男宮本常一のほかに、江戸時代に東北をフィールドワークしていた菅江真澄(すがえますみ)(1754~1829)という旅人がいたこと、最近では赤坂憲雄という人の書いた本も注目されているらしいこと。
(東北の本を探していて松岡正剛氏のサイトで赤坂氏の著書が取り上げられたのを発見。ついでに高村薫の『新リア王』や『神の火』が原発や東北を題材にした作品だということも知り、それは読まなくちゃと。。)

* 大震災で被災した工場や現代産業について知ると、「米、農、漁業の地域」というわたしのイメージがすこし時代遅れだったこともわかってきました。日本の産業の何分の一かは東北が支えていた・・・という実感をもったのです。
読んだ本では、昭和の中ころまでの歴史や産業しか書いてないのもあり、原発や最近の工業については、私もまだよくわかっていません。
県や地域ごとに「都市化した所とそうでない所」とが分かれてきたのではないか。 近代化した新幹線の駅周辺や中規模の都市はにぎやかでも、その外側は昔ながらのコミュニティや村が残っていたり、もっと奥は過疎化している感じでしょうか。国内の一極集中状態が、そのまま県内に反映しているのかなと想像しています。

* 東北は芸能の宝庫だそう。そういえば東北三大祭りは、なぜあれほどエネルギーがみなぎっているんだろう。民謡、踊りにしても多種多彩で、<雪に埋もれた地味な地方>という言葉ではくくれないものがあるなぁと思いました。
祭りを調べていくと  黒川能という山形県に伝わる神事能や、福島県相馬 野馬追 という勇壮な合戦があるのを知り、鬼剣舞鹿踊りとともにぜひ見てみたいと思いました。民俗芸能に表れているのは、人びとのエネルギーであり、畏怖の心なのではないか…と感じます。

* 司馬遼太郎の講演「東北の巨人」によると、古代より東北は平安貴族や西日本にとってあこがれの地であった。西行芭蕉吉田松陰らはすぐれた紀行文を残しており、人文の伝統を見直すべきだと言っています。まだ太宰治は破滅型でも自堕落でもなく、「聖なるものへのあこがれ」をもっていたと強調していて、現代でも人気の衰えない太宰の秘密をさしているように思えました。

* 現代の東北の姿、課題について――東アジアは海と空のインフラ(港と空港)を充実させてきているのに、東北は立ち遅れている。国際化のなかで国を超え、「地方 対 外国」or「地方 対 外国の地方」が手を結んだり交流することが大事ではないか、という提案も。またいままでは自治体、企業中心の地域作りであったのが、住民(NGO)をまじえての国際活動や、独自の外交に乗り出すべきではないかなどの知識も得られました。ふだん人文系しか興味がないわたしも、読書がもたらす広がりを感じられました。東北 とひと口にいっても地方ごとに特色があるし、人と同じでどの切り口からどう見ていくかで、まったく異なる姿を見せるのでしょうね。

全体として自分は東北について無知だったんだな。ということがわかりました。   (2011 4月)

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読んでいる本・・『新日本風土記 東北編』『新日本紀行 東北』『日本再考』




「 有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。」  (中井久夫

  * 

  「核が生み出す放射能を的確に防止しうる技術の開発が極度に困難であることは、確認済みの科学的真理である。 

 また、蓄積され続ける猛毒物質プルトニウムは、夢のエネルギー源どころか、容易に兵器に転用されうるところから、世界政治を不安定にし、情報機密を増大させ、人類の生存を脅かしている。

核技術の本性とは、まさにヒロシマナガサキを焼き尽くした破壊性、暴力性なのであり、それを人間がコントロールしようとする努力は失敗し、数多くのヒバクシャと環境汚染を世界のいたるところで生み出してきたのである。」

 高木仁三郎 『市民科学者として生きる』 1999




書く(5)文章で何かを伝える、ということが大切なのはもちろんだが、それでは実用的な文章になる。言葉の配列、リズム、響き合いに注目して、自分の文章のクオリアに耳を傾けることが肝要である。 3時間前 » kenichiromogi 茂木健一郎

書く(4)文章を書く時には、論理性、構成ももちろんだが、「読み味」が一番の基準となる。文章のクオリア。自分の書いたものを読んでみて、どんな印象を受けるか。音楽と同じである。そして、クオリアの一部に、論理性が含まれる。 kenichiromogi 茂木健一郎

書く(2)インターネットの時代になって、書くことの重要性が増した。文章が文化的遺伝子となって、偶有性の海を浮遊する。力があれば、遠くまで届く。書くことがもっとも基本的な「生きる力」の一つとなりつつある。 3時間前 kenichiromogi 茂木健一郎





178. 『世界と日本の災害復興ガイド』 兵庫県震災復興研究センター/2009/クリエイツかもがわ


大震災からひと月が経ちました。厳しい寒さの残っていた東北にも春めいた陽ざしがさしこみ、優しい風が吹きはじめたでしょうか。

たくさんのことを見て聞いて、まるで夢をみているようだった。日本全国の人世界の人が同じように東北にくぎづけになっていた。メディアに映る景色と比べ、いつもと変わらない西日本の生活が不思議でしかたなかった。わたしの日常と東北の人の日常はもしかしたら入れ替わっていたかもしれないと思う。TVから流れる崩壊しつくされた海岸とガレキの残骸を目にしながら、被災者のおじさんおばさん若い人たちが、それでも笑顔で「また一からやり直しだ」と言うのを聞くたびに、信じられない思いがしつつ東北の人びとの粘りづよさをおもった。

数週間後、途中でストップするのを心配していた新幹線から降りた東京駅では、構内が暗いのと人が少ないのにすぐ気がついた。まぶしかった照明が落とされ、地方の駅のようなおちつきと心地よさを感じた。この状態が続いてもいいんじゃない?と思った。長いこと行きたかった日本民藝館は臨時休館で入れなかったけれど、行きと帰りに二度も見ることができた渋谷駅の岡本太郎明日の神話」にあふれるエネルギーは、そのまま津波と大地震を思わせた。まん中には骨だけになりながらすっくと立つヒトガタ。彼を囲む景色には火の玉、ロケット、大波、海底、空飛ぶ鳥・・・大自然と、人間が作り出したものたちが蠢いていた。運命に翻弄されながらも、自然のなかで生きるニンゲンそのものだった。東京のど真ん中に津波が押し寄せたのかとめまいを起こしそうな巨大な壁画だった。

外国から日本がどう見られているかを知り、誇らしく思えた面とシビアに見られている面(原発)を感じた。 国内の報道は人の死をあらわす場面を映すのを避けているせいか、外国の報道写真の方が冷静にありのままを映していて、遠方にもそのようすが伝わってきた。現地のほんとうのむごさは、経験し、眼で見た人にしかわからないだろうけれども。世界の人びとがこんなに日本を応援してくれていることに、感じたことのない嬉しさがじわっとわいた。ソ連の記者が北方を返してあげたいとまで言ったことにもびっくりした。(びっくりした二番目は、原発事故処理に使われた水だのおがくずだの新聞紙だのの高級な素材。)


声にならない声を言葉にするとは? 人びとの表わされにくい声や言葉は、まだほんの少ししか流されていないし、聞こえてこない。中井久夫氏が書いているように、そうした言葉はこれからすこしずつもれてくるし、埋もれたままになるかもしれない。私たちはじっとそれらを待ち、耳をすまし、想像しなければいけない。ありのまま、起きたままを、べつの形で。声にならない思いは、いつかことばに。。

   阪神大震災のあと、見わたすかぎり何もかもなくなった土地にたたずむ夢をなんどか見ました。これが絶望というものなのかな・・と全身が感じるような夢だった。夢は3・11に現実になったようでした。けれども大きく違っていたのは、現実には、希望があったことでした。 今まで起きた多くの自然災害のあと、どのように復興したのか知りたくなり、救いをもとめるように本を読んだ。何年もかかりながら生活を再建していった例がたくさん載っていた。 大震災のあとにすぐ動きだし、いまも休みなくじぶんの持ち場で働いている人びとや耐えている多くの人びとと重なって、こんどもかならず・・・と信じることができた。
 (原発事故については本文に出てこず、複合災害としても予想されていませんでした。) 





『世界と日本の災害復興ガイド』には、1993年奥尻島津波からの国内9、国外10の自然災害の例が取り上げられ、被害実態と復興のようすをくわしいデータとともに載せています。読んでいると日本をはじめとして地球はほんとうに地震津波が多く、被害も大きいと感じます。またこんどのが阪神大震災を上回る規模で、特徴や違いもかなりわかりました。

どの災害も、あとに起きた災害の教訓や研究のもとになっていたり、支援方法や法律、救済策がしだいに充実してきて、被災してすぐ現地に向かえるよう準備されていたこともわかります。じっさいに国内でも自衛隊や公的機関、民間機関の救援が地震の翌日には集まっていたし、海外からの救援もたいへん素早く対応できるようになっています。その速さや整備は、一朝一夕にできたのではないのですね。

1か月たって国の復興プランや青写真もでてきています。これから先どうなるのだろうという漠然とした不安をわたしも感じますが、この本を読んでいると着実に復興は進んでいくだろうと信じられます。被災地の人々の中からも新しい町や村作りの素案がでてきたと聞きます。被災の事情によってはなかなか希望も持てない人がいるでしょうけれど、仮設住宅、しごと、教育、ライフラインの復旧などが少しずつ前に進んでいるようすで、大変な苦労と疲れのある中で、やっと前を向けるのかな…と思います。

本では2008年に「被災者生活再建支援法」というのができたそうで、かなり国の支援は充実しているようです。これらを被災者の人も知っていたらずいぶん安心できるのに、どうしてもっと宣伝しないのかなと思います。家を建ててほころぶ "ありがとうさぎ"を流せばいいのにね。 原発事故もいれると被害が大きすぎて法律どおりにゆかなさそうで、なんといっても国のお金が…(ない!?)という心配もありますが、せっかくの法律を、この時こそ素早く活かさなきゃです。

・ 暮らしの再建のための支援・・・現金の支給、特別の貸付け、減免・猶予、現物の支給 (32種類)
・ 住まいの再建のための支援・・・      〃  (19種類)
・ 中小の商工・農林漁業のための支援・・・  〃  (13種類)

○平成22年防災白書に詳しい表があります

阪神大震災との大きな違いは、ネット情報があらゆる場面で活用されたことと、原発事故が起きたことかなと思います。15年前は電話やFAXしかなく、いまは多くの人が携帯電話やPCを使うから、国内外にすぐつながるし情報を共有できる。かえって情報が多すぎて、どこにあるどのような情報を自分が受けとり信じていいか、すぐに判断できない面もあると思う。(キュレーターという新しい行為が必要になっているらしい。)いちばん情報が必要でほしい被災地の人には、通信手段のラジオ、TVが少なかったりして届かない。非常時の通信や情報が、いのちと直接結びつくのだなと思う。太陽電池の電化製品が増えるかもしれない。

この本では復興の注意点として、もとあったコミュニテイーを断ち切らないように復興することとある。けれども今度は町やコミュニティーを元通りにするのはかなり難しい地域も多いと思う。ふるさとから離別させられるのは、人によっては根なし草になったり故郷をなくすのと同じではとおもう。 そうした人びとも含め、亡くなったり行方不明になった人びとの魂を思うと、どうやって鎮めてあげればいいのだろう。誰が どう受けとめられるのだろうと思う。 ひと月のあいだに自分が被災したようで、疲れた気もする。クシュナー『なぜわたしだけが苦しむのか』を思い出し、わたしたちに力を与えてください…と祈っている。

それにしてもこのような大災害でも、最後は人の手によってすべてが行われていくのだなぁとしみじみ感じた。原発を冷やすのも人を捜索するのも、支援物資をわたすのも、現場にいる一本の手、一人のからだが動くことでものごとが運んでいく。
いままで読んできた本や文学って、今どんな役に立っていたり意味があるのかなと思う。宮沢賢治やヴェーユ、ドストエフスキーらたくさんの作家が教えてくれたのは、力をもたず、苦しんでいる人のかたわらにいるように ということ。手をさしのべ見守ることだったと思う。そうした行為を信じることが、私のなかでなにか力になっているのかもしれないと感じる。

人生の航路がおおきく変わった被災地の人びとはもちろん、思いもよらず考えかたや生き方の舵を切った人がほかの地域にも多くいると思う。10年ちかく前に東北に旅してからずっと、賢治が生きた岩手にはわたしのこころの一部が残っている。青森の刺し子をほどこした昔のボロ着や、ねぶた飾りを見た時もえらく感激したし。これからしばらくは東北を向いて本を読もうと思っているし、もう一度かならず東北を訪れたいと思っている。  

(復興ガイドを紹介するつもりが随筆になってしまいました。)  (2011.3月)
 

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